29.AC 血が怖い・・・
とても苦手です、という話です。
ブラインドが降ろされて薄暗い病室に入ると、患者さんの寝息が聞こえてくる。
あたしはそっとベッドサイドに移動して、朝置いた氷水を新しいものに替えてから起こさないように気をつけながら部屋を出た。
ミス・シャインは69歳だけど、病気のせいか80歳と言っても信じられる。髪はぱさぱさで治療のせいでほとんど抜けてしまっていて、それを隠すように頭巾のようなものを被っている。
肌も乾燥してて、触るとカサカサと音がしそうな気がする。
それでも起きている時はニコニコと笑って冗談を飛ばしてくるんだからすごいな、と思う。
「チカ、ミス・シャインは起きてたの?」
「ううん。眠ってた」
「もう少ししたら治療の時間なんだけど、どうしようかしらね?」
「最後に回せば? それまでは寝させてあげた方がいいんじゃないの?」
タマラは少し考えるように頭を傾げてから、うんと頷く。
「そうね、最後に回せば終わる頃に夕食の時間になるからちょうどいいかもしれないわね」
「じゃあ、あたしもその時にヴァイタルサインを済ませるね。そしたらご飯のあとですぐに寝れるだろうし」
「今日は治療はないんだっけ?」
「とりあえず2−3日は様子見をしようって、ドクター・ジョーンズが言ってたわね」
「そっか」
ここは田舎だけど、それでも最低限ないといけない施設はある。
その1つに癌治療施設がある。
そこにはこの周辺に住んでいる患者さんの治療のために施設があるのだ。
そして、その施設は同じ敷地内にあるので、入院中の患者も必要に応じて車椅子やカートに乗せられてその施設に治療を受けに行く。
「昨日治療を受けたあと、すごく容体が悪化しちゃったのよ。吐き気が止まらなくてね、点滴でなんとか水分補給をさせたけど体力が落ちちゃったみたいでね」
「そっか、きついっていうものね」
「人によって反応は違うんだけど、彼女は初めてじゃないから余計きついんだと思うわ」
タマラは心配そうに視線をミス・シャインの病室に向ける。
「そういえば娘さんは?」
「部屋にはいなかったわよ? 多分仕事に戻ってるんじゃないのかな? でもいつもは夕食の時間くらいにくるから」
「そう? じゃあ、もし見かけたら教えてくれる?」
「了解」
あたしは薬を配るための作業に戻ったタマラに軽く手を振ってから、とりあえず自分の担当の患者さんに午後の水を配り終えるためにカートのところに戻る。
ミス・シャインは2日前から入院している患者で、癌治療で具合が悪くなったために緊急入院となったんだと聞いている。
彼女の病名はSpinal Cord Tumor、日本語で言うところの脊髄腫瘍。
あたしは最初聞いた時に全くピンと来なくて、思わず他のナースになんなの? と尋ねてしまった。
もともとナースでないあたしにはそんな知識がないから仕方ないにしても、そのあとの説明に怖い病気だという事は判った。
というのも、もともと彼女は違う部位に癌を患っていたのだが、それが転移した事が新たに判って治療を始めたらしい。その転移先が脊髄との事で、癌の中でも完治が難しいのだそうだ。
とはいえ、既に1度放射線療法も化学療法も受けた事があるので、あまり強気の治療は施せないんだとか。
タマラの話では明日ホスピス・ハウスからナースが来て、今度どうするかを話し合う事になっているとの事。
ホスピス・ハウスという話が出ているという事は、癌は末期という事で・・・
なんか考えるだけで気が重くなってくる。
あたしはハァッとため息をついてから、とりあえず水を配ろうとカートを押した。
「チカ、手伝って」
「えぇぇぇぇ〜〜」
やだなぁ、と思っているのが思いっきり顔に出ている自覚はある。
でも、嫌なものは嫌なのだ。
タマラはそれを知ってる筈なのに、とジトッとした目でみるとニッコリと笑みを返された。
『確信犯だ・・・』
「え? 何か言った?」
「いいえ〜。なんでもないです〜」
思わず日本語で呟いてしまった。
「タマラ、二人だけでやるの?」
「ううん、ジェーンも手伝ってくれるわよ。さすがに私一人じゃ無理だもの」
「そっかー」
タマラが押しているのは、治療のためのカート。そこに載っているのはガーゼやテープの他に洗浄用水、アブド・パッドと呼ばれる生理用品を薄くしたようなパッドや薄いフィルムのようなものなどがある。
それを嫌そうに見てから、あたしはわざとらしく大きなため息をついた。
タマラが手伝えと言っているのは、ミス・シャインの背中の治療だ。
ミス・シャインの背中には脊髄腫瘍によりできた創傷がある。
まだ見てないけど、そこを覆っているガーゼは20センチX20センチほどあるから、彼女の背中にある創傷がかなり大きい事は想像できるのだ。
「タマラ〜。あたしがそういうの苦手だって判って言ってるんだよね?」
「仕事でしょ? 苦手だって言ってられないわよ」
「それはそうなんだけどさ〜。でも、前に倒れそうになったの知ってるくせに」
「知ってるわよ。だって、その場にいたもの」
しらっと返してくるタマラに、あたしはこれ以上言っても無駄だ、とがっくり肩を落とす。
「大体よくそんなので病院で働けるわよね」
「だってさ〜、自分がそういうの苦手だって、知らなかったんだもん」
「自分の事なのに?」
「だって、自分でする事って擦り傷の手当てくらいじゃない。それ以上の事なんてした事ないから、自分がどれだけ苦手なんて判んないよ」
そうなのだ。あたしは病院で働くまで、自分が創傷を見る事が苦手だという事に気づかなかった。
もちろん、注射針も苦手。注射される事には抵抗はないんだけど、針が皮膚の中に入っていくところを見る事ができない。
同僚からはチキンとからかわれるけれど、こればかりはどうしようもないんだよね。
「とにかく、配食までに終わらせたいんだから、とっとと来なさい」
「・・・はぁい・・・」
ちゃっちゃとカートを押すタマラの後を歩くあたしは、ドナドナの気分だった。
そんなあたしに追いついてきたのはジェーンだ。
ジェーンは面白そうにあたしの肩をポンと叩いてくる。
「ジェーン、どうしても手伝わなきゃダメ?」
「ダメって、チカの患者でしょ」
「そうなんだけど〜、そうなんだけど〜」
「いつものように顔を背けてればいいじゃない」
いつものように、というのは、ナースが点滴をするための注射針を刺す手伝いの事。
意識がない患者さんだと、無意識に針が刺さった時に抵抗するので、その腕をグッと抑える人が必要になる。それは大抵担当ナースとそのエイドの仕事なわけで、あたしも苦手だと言い切れずに手伝いをするんだけど、その時は針が刺さるところを視界に入れたくないので横を向いたり俯いたりしている。
今ジェーンが言っているのは、その時のあたしの事。
ま、それもあってチキンと呼ばれてるのだ。
でも仕方ないよ。苦手なものは苦手。たまに「治してあげるよ」なんて不穏なセリフをいうナースもいるけど、「今のままで満足です」と返している。
コンコン
タマラを先頭にノックしたドアに入る。
ふと後ろを見ると、なぜかダニエラもついてきている。
「あんた、なんで来てんの?」
「タマラが治療を見に来ていいっていうから。ちょうど今クラスで創傷の事やってるんだ」
なるほど。そういえばダニエラってナーシング・スクールに行ってたっけ。
そんな事を思いながらタマラの方を向くと、ミス・シャインは起きていた。
「じゃあ、これから創傷の手当てをしますね」
「よろしくお願いします」
病室に入って左側の壁にベッドヘッドがあり、タマラたちは壁に向いて左側へ周り、あたしは一人だけ右側へ行く。
患者用のベッドテーブルの上にとりあえず必要なものを並べてミス・シャインの足元からベッドの上へとテーブル部分を動かし、タマラとジェーンの手が届くようにする。
それからあたしとダニエラは壁に取り付けてあるホルダーから取り出した手袋を嵌め、タマラとジェーンは手術用の無菌手袋をテーブルの上に用意してから、あたしたちと同じようにホルダーの手袋を嵌める。
「じゃあ、ミス・シャイン、チカの方に体を向けてください」
「ミス・シャイン、手すりに捕まって体を動かしてくださいね〜。ちゃんと補助しますからね」
ゆっくりと体を横に動かそうと手を伸ばしてきたミス・シャインの手が手すりを掴むのを手伝ってから、彼女の子忍部にと肩のあたりに手を当てて、横向きになる手助けをする。
彼女が着ているホスピタルガウンは割烹着のように前から着るタイプなので、彼女が横を向くと完全に背中が晒される事になる。
ミス・シャインが横を向いたのを確認してから、タマラとジェーンはさっきテーブルに用意した無菌手袋に替えると二人ならんで彼女の背中に手を伸ばした。
「それではテープを剥がしますね。痛かったら言ってください」
タマラがミス・シャインに声をかけながらゆっくりとテープを剥がすために手をかける。
それを見てあたしはそっと視線をミス・シャインに向ける。
彼女は手すりを掴んだまま目を閉じていた。
「ミス・シャイン、手すりから手を離しても大丈夫ですよ」
「そう? でも、これくらいしか手助けできないだけど」
「そんな事気にしなくていいですよ。あたしたちは3人ここにいるから、あなたの体を支える事くらいできますよ」
目を開けて少し困ったような口調で答える彼女に、あたしも笑みを浮かべて答えると、少しだけ口元に笑みを浮かべてそっと手すりから手を離すとそのままシーツを掴んだ。
それを見てから視線をタマラたちに移すと、ちょうどテープを外し終えて、ガーゼをとったところだった。
「テープは外れましたよ、ミス・シャイン。これからアブドパッドを外すから少し痛いかもしれないです」
アブドパッドは色々な大きさがあるけど、ぱっと見は薄めの生理用パッドって感じ。テーブルの上に置かれているミス・シャイン用に用意してあったパッドは大きさが10センチX20センチくらいの大きさで、きっと同じくらいの大きさのパッドが貼り付けられているんだろう。
ここでいつもであればあたしは視線を下に向けるかよそを向くのだけれど、余計な事を考えていたせいでそのタイミングを逃していた事に気付いたのは、それからほんの数秒あとの事だった。
あたしが見ている目の前でタマラがミス・シャインの創傷からアブドパッドを外すと、アブドパッドについていた凝固しかけのどろっとした血液の塊がずるっとパッドから落ちるところをまともに見てしまったのだ。
その途端頭からサーっと音がして血が下がるのが判った。
ヤバイッッ!
そう思うものの、喉がカラカラになってすぐに言葉は出ないし、目の前の3人はミス・シャインの創傷に気を取られているからあたしの状態に気付いていない。
「・・・ダニエラ・・・」
なんとか声を絞り出して、見ているだけのダニエラを呼ぶ。
「何? って、チカ?」
「ごめん・・・替わって」
「あんた、顔が真っ青なんだけど」
「ははっ・・・見ちゃった」
慌ててベッドを回ってあたしの隣にやってきたダニエラがミス・シャインの体を支えたのをみて、あたしはそのまま数歩後ろに下がって置きっぱなしになっていた椅子に腰掛ける。
「チカ、あんた・・・」
「なんで見ちゃったのよ、チカ」
「だってさ〜・・・考え事してたらガン見しちゃったよ」
ヘラヘラ、と笑ってごまかそうとしたものの、頭がクラクラしてあんまりごまかしきれていないのが自分でも判る。
「あんた頭を上げたまま座ってなさい。俯いたら倒れちゃうかもしれないよ」
「ん〜・・・知ってる」
やった事あるもん、と付け加えるとダニエラがわざと聞こえるようなため息をついた。
それにヘヘヘッと笑ってごまかしてとりあえず視線をダニエラの背中に向けると、こっちを向いていたミス・シャインと目があった。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫ですよ〜。苦手なんです、あたし」
「そうみたいね」
背中の創傷の治療を受けていて痛いだろうに、そんなミス・シャインがあたしの心配をしてくれていると思うと申し訳ないなぁと思う。
とはいえ、こればかりはどうしようもない、とも思う。
そんなあたしにミス・シャインがとどめを刺してくる。
「この仕事、向いてないんじゃないの」
「たまにあたしもそう思いますね」
困った子を見るような目で転職を勧めてくれるミス・シャイン。
うっと言葉に詰まったあたしの耳にダニエラの笑い声が聞こえてくる 。
「そんな事ないわよ、チカ。頑張ればそのうち慣れるって」
「いやいやいやいや、慣れたくないんだってば」
「でもそんな事言ってると、毎回こんな風になっちゃうよ?」
「いいんです〜。見ないように気をつけます〜」
呆れたように声をかけてくるダニエラに、少しだけ気分がよくなってきたあたしが返事を返していると、ミス・シャインがシーツを握っていた手を振ってくる。
あれはきっと、頑張れ、って言ってるんだろうなぁ。
「まぁ今までなんとかやってこれたから、多分これからも大丈夫ですよ」
「無理しないようにね」
「気をつけます、ミス・シャイン」
本当は立ち上がって手助けをした方がいいんだろうけど、あたしはいい機会だと言わんばかりに座ったまま。
今日も1日忙しかったから、疲れているんだよね〜。
一日中たちっぱなしなんだもの、こういう時くらいは座って休もうっと。
あたしはミス・シャインに小さく手を振り返しながら心の中で呟いた。




