27.ICU 走るサイキ!
いつもよりにぎやかなICUに行くと、そうもほぼ満室状態のようでした。
だったら今日はフロアで働くのかな、と思って今日のチャージ・ナース(看護士長?)であるエルダンのところへ行く。
「今日は多いね〜」
「まぁな。多いって言うのも子供が多いんだよ、今日は」
「何人?」
「8人」
そりゃ多い。この病院は超田舎にある総合病院のせいか、小児科はない。ううん、1度作ったんだけど常に病棟を継続させるだけの小児科患者がいないので閉鎖して、その代わりにICUに併用と言う形になってしまったのだ。
なので、基本は端っこの4部屋を小児患者用と言う事にしているんだけど・・・・いや、端っこと言うのはちょっと合っていない。
うちの新病棟、長方形で通路がO型に繋がっていて、その真ん中がナースステーションやトイレその他になっている。病室は1から24号室まであって、1から8号室、9から12号室、13から20号室、そして21から24号室がそれぞれの四方に並んでいる。(これで判るかな? 説明、下手です)
ということで、基本小児患者は21から24号室に入る事になっているんだけど、今回みたいに人数が多い時はとにかく空いている病室に入る事になっているんだよね。
さて、今日は8人もいる。なので、どうやらあちらこちらに散らばっているらしい。
まぁ、小児科患者といっても症状が重いと州都にある子供病院へ搬送してしまうので、ここにいる子供たちはそれほどでもない患者が多い。それに親がいるから子供の面倒は親がしてくれる。
なので、ICU全体の患者の数は多いかもしれないけど子供が多いと、ナースコールで呼び出す患者の数は減る事になる。(ラッキー、笑)
でも、今日は他にサイキ患者もいるらしい。
「サイキもいるんだ」
「ピーズ(Peds—小児の事)から離すようにはしてるから大丈夫じゃないかな」
「お守役もいるんでしょ?」
「ああ、けど、CNAじゃないから座って見ているだけなんだけどな」
溜め息まじりのエルダン。ま、気持ちは判る。
このところ増え始めたサイキ患者。彼らにはお守役を付ける事になっているんだけど、数が増えるとフロアで働くCNAの数が足りなくなっちゃう。そこで、資格は持っていないけど監視役をするという人の登場となる。名前はペイシャント・コンパニオン、日本語のコンパニオンとはちょっと意味が違うけど、まぁ患者のお守役ってことになるのかな?
ただし、CNAじゃないから、本当にただ座ってみているだけしかしてもらえない。これがCNAであれば世話もしてもらえるんだけどねぇ。まぁそんな事は言っても仕方ないという事で。
「サイキ患者、若いよね」
「あぁ、21歳だったかな? ドラッグ・オーバー・ドース(薬の多量服用)と急性アルコール中毒で、ERで死ぬって騒いだらしい」
「あ〜・・・・よくあるヤツだね」
全く迷惑なもんだ、とエルダンが溜め息を吐いている。
日本の事はよく判らないけど、こっちだと自殺を匂わすととりあえず拘束、ということでサイキ患者として扱われる。もちろん人を殺すと匂わす時も同様の対応だ。
ドクターによって24時間から48時間の強制拘束をされる患者もいる。
まぁ、大抵はソーシャル・ワーカーがそう言った患者と話をして、家に返すか施設に入れるかの示唆をして、それからドクターの診断が下されることになる。
なので、今日のサイキ患者もソーシャル・ワーカーとドクターの判断が降りるまではお守役が張り付く。
とりあえずあたしはフロアで働くから、今日の患者のリストを貰ってナイトシフトからレポートをして貰いに行く事にした。
「チカ、9号室に行ってくれる?」
通りかかったあたしに声を掛けて来たのはドリス。
「9号室? ってベィビーの部屋?」
「そう。ママが煙草を吸いに行きたいんだって」
溜め息まじりのドリスは疲れたって言う表情を浮かべている。
でも、9号室のママの事を思い出すとそれも仕方ないと思ってしまう。だって、ベィビーのママはとにかくヘビースモーカーらしくって、1時間くらいおきにナース・コールを押しては自分が煙草を吸いに行っている間のベィビーのお守りを頼んでくるのだ。
「でも、今日これで5回目だよ?」
「判ってるわ。でも、吸わないと駄目なんだって言うんだもの」
断る訳にもいかないじゃない? と心底困ったような顔のドリスはまた溜め息を吐いた。
それって煙草中毒って言ってるようなもんじゃん、そうは思うものの口にはしない。
「あの子、気管支が悪くて入院になったんだけどねぇ」
「そういえばそうだったよね。肺炎になりかかってるって言ってたけど、その元の原因ってママの煙草なんじゃないの?」
「ないとは言えないわよね。家の中の空気が悪かったら、どうしても小さな子供に負担がかかるものね」
ドリスはまだこれから他の患者の世話もあるから、たとえママが煙草を吸ってくる間とはいえ病室に留まる事ができないらしい。
そう言われちゃうとあたしも嫌だとは言えないから、いいよと言うしかないよね。
なので、ドリスに手を振ってから9号室へと向かう。
「失礼します。ナースからこちらに来るように言われたんですけど」
「そうそう、ドリスに頼んだんだけど、彼女は忙しいって言うのよ」
「そうですね。今は丁度午後の薬の時間ですから、彼女が薬を持ってくるのを待っている患者さんが多いですからね」
「それでもこっちの事も考えてくれるといいんだけどね」
いや、それってあんたの台詞じゃないと思うよ。ちょっとイラッとしたものの口にはしない。
「それでお守りをするようにと言われたんですけど、あたしも長居はできないんですけど」
「10分ほどで帰ってくるわ。私はちょっと外へ行きたいだけだから、その間うちのメアリーを見てて欲しいのよ。」
ずっと部屋の中にいると気が滅入っちゃうでしょ、と付け足してこっちの返事を聞く事もなくそのまま部屋を出て行く母親の後ろ姿を見送りながら、あたしの口からは思わず大きな溜め息が零れた。
気が滅入るも何もほぼ1時間おきくらいに外に出ているくせに、とぶつぶつと口の中で文句をいいながらもあたしは病室のベッドの横に置かれているクリブ(赤ちゃん用のベビーベッドみたいなもの)を覗き込む。
中にはブランケットに包まれた赤ちゃんが眠っているのが見える。
ブランケットから出ているのは顔だけだけど、鼻の周囲が赤くなっていて、ちょっと鼻水がカピカピに固まっているのが見えた。
あたしはクリブの下にある引き出しからワイプを1枚取り出して、起こさないように気をつけながらそっとカピカピになった鼻水を拭き取ってやる。
これくらいしてやればいいのに、と思うものの、母親のみんながみんなちゃんと子供の面倒をみるとは限らないんだって事は、病院で働いているうちに嫌でも目の当たりにしてきたから、それが現実なんだって受け入れるしかない。
それでも気分が滅入るのは仕方ないよね。
一応母親は10分で戻ると言っていたけど、ないだろうな。
あたしは仕方なく椅子に座ってメアリーの眠っているクリブを眺める。
『コード・オレンジ、ICU。コード・オレンジ、ICU』
不意に聞こえてきたアナウンスに、あたしは聞き耳を立てる。
今、ICUって言ったよね?
コード・オレンジって言うのは、他者に危害を与えそうな患者がいる事を病院の職員に伝えるためのコードなんだけど、ICUって言ったからには多分あのサイキ患者なんだろうなぁ。
そう言えば少し前に病室の前を通った時、コンパニオンがドアのところに立って何か話していたっけ。
そんな場面を見た記憶はあるんだけど、なんせ忙しいからいちいち気に留めていられない。
だけど、さすがにコードのアナウンスがあると気になってしまう。
あたしはクリブの中のメアリーが寝ている事を確認してから、病室のドアの方へと歩いて行く。
ICUの病室のドアはガラスドアで、大きな2枚のガラスのスライディング・ドアとなっている。この9号室は丁度角部屋だからドアの真正面は真っ直ぐ延びた通路となってて、サイキ患者のいる5号室のある通路を見る事ができる。
そっとドアを少し開けて外の様子を伺うと、サイキ患者であるジェイソンがわめいているのが聞こえた。
「だからっっ! 帰りたいんだよっ」
「ドクターが回診に来るまでは帰れるかどうか判らないって言ったでしょう?」
「そんなこと知るかよっっ。ほっといてくれよっっ!」
21歳だって言うのに地団駄を踏んでいる姿が見える。彼は5号室のドアの前で手を振り回して傍に人が近寄れないようにしているようだ。
そんな彼を取り囲むように7−8人の男性職員さんと2−3人の女性のナースの姿が見える。
「触るなっっ!」
「触ってないわよ。とりあえず病室に戻りましょう。落ち着いた方がいいわよ」
「ほっとけって言ってるだろっ! いいから近づくなっっ」
たくさんの人に取り囲まれて、頭に血がのぼっちゃったみたいだ。
でも、他の患者や訪問客の安全のためにこうするようにって、マニュアルに書いてあるからその通りにしない訳にもいかないしねぇ。
そんな事をのほほんと思いながら考えていたら、ジェイソンがいきなり走り出した。
「おいっっ」
「待てっっっ」
慌てて手を伸ばしてジェイソンを泊めようとするけど、彼は目の前にいたボブとモンローを押しのけて走るっ。それもこっちに向かって!
『マズいっっ!』
最初に口から零れた言葉は日本語でこれ。
5号室から9号室までは多分15メートルくらいしかない。
あたしは慌てて少しだけ開けていたドアを閉め、ドアハンドルをぐっと握ったままこっちに向かって走ってくるジェイソンを見る。
あまりに勢いがいいジェイソンは、まるで9号室のガラスドアを蹴り破るんじゃないかとあたしに思わせた。
けれど、そんな彼の体勢が下がった。
このまま病室に突っ込むんじゃなくて方向転換しようとして滑ったみたい。
ゴンッッッ
ドアから3メートルくらいのところでスライディングするジェイソンの背中があたしが押さえているガラスドアを蹴る。
それから右方向へ行こうと体を捻ったまま立ち上がろうとしたところに、ボブとモンローがタックルを食らわしてそのまま抑え込んだ。
もちろん、その時に2人もジェイソンと同じようにドアにぶつかった。
ドアを押さえていたあたしの手にその振動が伝わってきた。
でも、頑丈なガラスドアみたいで、外れそうになりながらも割れる事はなかった。
そして、更にモンローとボブの2人のすぐ後ろを走っていた、あたしが名前を憶えていないメインテナンスのお兄さんや手術室からやってきたと思しき青いスクラブを身につけている人たち3人が、ジェイソンとその彼を捕まえようとタックルを食らわせたモンローとボブの上に次々と乗り上げて行く。
こんな状況じゃなかったら、まるでフットボールみたい♪ なんて思っただろうけど、この時のあたしはドアを押さえるだけでそれ以上の行動はできないし、頭も全く回らないまま目の前に積み上げられて行く人の山を呆然と見ているだけだった。
「押さえ込めっっ」
「逃がすなっっ」
男たちが口々に言っている言葉は、逃がすなってことばかりだけど、どう見ても逃げられないと思うのはあたしだけだろうか?
驚いて呆然としていながらも、頭の隅っこは冷静にそんな突っ込みを入れていた。
ようやく少し落ち着いた感じになって、1人、また1人と立ち上がる。
ようやく最後のモンローが立ち上がると、一番下になっていたジェイソンの両脇を抱えるようにしてメンテナンスのお兄さんとボブがジェイソンを立たせる。
後ろ手に掴まれたまま立ち上がらされたジェイソンからは、ついさっきまでの威勢の良さは全く見えず、黙って俯いたまま男たちに連れられて行く。
行き先はもちろん5号室。
そんな彼らを見送っていると、その向こうに呆然と立っているメアリーのママの姿が目に入った。
口を両手で押さえて、大きく見開かれた目が見える。
まぁ、そりゃそうだろう。
暢気に煙草を吸って戻ってきたら、自分の娘のいる病室の前で大捕り物をしていたんだから。
あたしだってビックリだもん。
あたしは少しだけドアを開けて、メアリーのママが入ってきやすいようにしてから部屋の奥へ移動して、クリブで今もすやすやと眠っているメアリーにそっと触れる。
この子が無事でよかったよ〜。
この日、メアリーのママはこのあと2回しか煙草を吸いに出かけなかった。(3時間おきくらい?)
きっと娘が心配だったんだ、と思いたい。




