24. ICU 植物人間
今日は久しぶりのICU。
このところ外科病棟が多かったから丁度いい気分転換になるかな、なんて思いつつフロアに行くと、ナース・ステーションに厳ついおまわりさんが座っている。
う〜ん、これはあんまりいいサインじゃない気がするんだけど・・・もしかして、また留置所から患者が来たって事なのかな?
とりあえずデイ・シフトのナースたちの方へと近づいた。
「おはよ、ジンジャー」
「おはよう、チカ」
椅子に座っているジンジャーの隣りの椅子に腰をおろして挨拶をしてから、そっと彼女の耳元で囁く。
「ねぇ、あそこにいるのっておまわりさんでしょ? また留置所の人でも来てるの?」
「あぁ、あれね。違うみたいだよ。ほら、そこの16号室の患者さん。彼女の家族が原因で見張っているみたい」
あれ? 思ったのと違ってたなぁ。
「どういう事?」
「私、昨日担当だったんだけど、16号室のミッシェル・アンダーウッドは、彼女の母親以外は面会謝絶なのよね。それで、昨日から凄い数の友達だとか親戚だとかって言う人がやってきていたんだけど、母親と口論が凄くってねぇ。だから、ドクターが母親以外は立ち入り禁止だっていったんだけど、その事で大立ち回りをした人がいてね。それでおまわりさんに警護してもらっているのよ。おまわりさん相手だったら、下手をすれば留置所に淹れられるって判っているから、おとなしく帰ってくれるのよね」
なるほど。確かにそう言う理由だったら、おまわりさんがいてもおかしくないのか。
「でも、ICUにいるって事は容態が安定してないって事でしょ? だったら心配してもおかしくないんじゃないの?」
「まぁね。その通りなんだけど。ただ、今回はちょっと違ってね。ミッシェルの夫も立ち入り禁止なのよ。彼女の母親曰く、彼がきちんと対処していればこんなことは起きなかったって言ってね」
「こんな事?」
「狂言自殺が、ある意味成功しちゃったって事」
それは・・・確かにまずい状況だ。
「なんかね、前にも数回した事があるんだって。それで、その時は半日ほどほったらかしておけば、そのうち起きてきていたらしいんだけど、今回はあの通り意識が戻らないのよ」
ふぅん、とそっとブラインドの隙間からミッシェル・アンダーウッドの病室を覗くと、ベントが付けられている。
このベントって言うのは、呼吸をサポートする機械で、これを使う事で体内に酸素を送り込んでいるのだ。
という事は、これ無しでは呼吸すらきちんとできない状態でいるという事で・・・かなり深刻な状態なんだという事は想像つく。
大変だな、と声に出さないもののそう呟いて小さくため息を吐いた。
「チカ、ちょっと手を貸して」
「は〜い」
呼んだのはエルダン。彼のあとをついていくと、連れて行かれた先は、今朝ジンジャーと話していた患者さんであるミッシェル・アンダーウッドの部屋だった。
「シモのチェックして、体の位置を変えるから」
「パッドは部屋にあるの?」
「ああ、そのクローゼットに入ってる筈だよ」
シモのチェックとはそのままのことで、おしっこやうんこをしているかどうかのチェック。
テレビの下にあるクローゼットを開けると、パッドが4枚と無数のタオルやシーツが詰め込まれている。
とりあえずパッドを2枚取り出して、タオルの代わりにワイプを取り出す。
それからミッシェルのベッドの横で計器を触っているエルダンとは反対側に行って、彼女の腕を戒めていたヒモを外した。
ミッシェルにはベントの他に 点滴の管や心電図用のワイヤなど色々なものが体中に付けられていて、意識の無い彼女がそれを取り外さないようにと戒めているのだ。
パッドの交換をするとなると、腕を戒めたままだと体を動かす事ができないから、こうやって外す事になるんだけど、気をつけてみておかないと目を離した瞬間に管を抜かれる事だってある。
でも、今の彼女はどう見たってそんな事できそうにないんだよねぇ。
エルダンの準備もできたようで、彼がグローブを嵌めるのを待ってからカーテンを閉める。
ICUはドアから何から全てガラスだから、通路から丸見えなんだよね。ま、患者の容態がすぐ見えるようにって言う配慮なんだけど、ケアの時にちょっと困るからカーテンで隠さなくちゃいけない。
「こっちに体を動かすから、パッドの交換をした方がいいかどうか言ってな」
「判ってるよ〜」
よいしょ、とパッドを掴んで彼女の体をエルダンの方へ向けてから、パッドを離す。
彼女の体を支えてもらっている間に、あたしワイプを手にお尻チェック。
「あ〜、なんかちょっと汚れてるから拭くね。そのまま支えてて」
「オッケー」
ワイプを使って綺麗にして、それから用意していたパッドを交換するために古いパッドを丸めながら彼女の体の下に押し込む。
「床ずれとかない?」
「ん〜、そうだね。赤くなってる部分はあるけど、まだ皮膚は破れてないかな?」
「そうか。でもとりあえずクリームは塗っておこう」
「判った」
傍にあるテーブルからエルダンが言っていたクリームを手に取って、小指の先くらいの量をとりだして、それをミッシェルのお尻に塗りたくる。
それからエルダンと一緒に彼女の体をあたしの方に向けて、エルダンが古いパッドを取り払って、新しいパッドを拡げる。
そのついでにエルダン側の彼女のお尻の部分に枕を差し込んで、彼女の体の位置を変える。
申し訳ないけど結構大きな体だから、彼女の体を支えるだけで腕が疲れてしまう。
この仕事をしてて思うのは、フィットネスクラブに行かなくてもいいくらいの運動をしているんじゃないか、という事だ。もう、ほんっとうに肥満の多いこの国じゃあ、患者の手助けをしたり、ただ病院の中を歩くだけでもいい運動になる。
1度姪っ子に貰った歩数計をつけてた事があるけど、その時は一日に歩数は平均で2万歩だった。彼女がくれたのはエンジェルッチ(だったかな?)とかっていう、歩く事で天使を育てるものだったんだけど、仕事中以外は身につける事が無かったから、あっという間にエンジェルはぐれてしまって、親父エンジェルとか言うのになってしまったのは余談。(苦笑)
そうやって、ミッシェルの体の位置を替えてから、エルダンと2人でまた彼女の腕に付けられたヒモで腕の動きを戒めていると、なぜか抵抗を受けた。
思わず頭を上げてミッシェルを覗き込むと目を開けている。
「エルダン、目を覚ましたみたいだよ?」
「あぁ。でも、それだけだよ」
「それだけ?」
「目を覗き込んでみな。言ってる意味、判るから」
目を覚ましてもそれだけ、という言葉の意味が判らなかったあたしの顔にはハテナマークがついていたんだろう。エルダンが苦笑を浮かべている。
なのでとりあえず腕の拘束をきちんとしたかどうかを確かめてから、ミッシェルの顔を覗き込んだ。
彼女の目は開いている。
でも、そこには何も写っていないようにみえる。焦点が全く合っていないのだ。
「ねぇ、エルダン、これって・・・・」
「脳みそが灼かれてんだよ」
「フライって・・・・」
フライというのは、医療方面でのスラングみたいなもので、薬物を摂取し過ぎたり、アルコールの摂取し過ぎで、脳みそがそれらによって侵されて全く機能しなくなった状態を示す言葉だ。
「薬もやってたらしいんだよな。だから、違法薬物摂取をして十分おかしくなったところで、狂言自殺でさらに睡眠剤をしこたま飲んだらしいよ。それも今回が初めてじゃなかったらしいから、既に脳みそが限界まできていたんだろうな」
「じゃあ、植物人間と同じってこと?」
「そうだな。体はここにあるけど中には誰もいないって言う状態だよ」
ノーバディー・ホーム、と口にしたエルダンはやりきれないという顔で彼女を見下ろしている。
「でも・・・確か、トライクを入れることになってるよね?」
「ああ、母親がどうしても娘をこのまま死なせたくないって言い張るからね。彼女は娘はちゃんと反応しているって言い張っている」
「えっ? でも・・・」
どうみたって、何かに反応しているようには見えないんだけど。
「ドクターも他のナースも彼女が無反応だって事は判ってるよ。けど、身内がそう言いはっているんだから、それを違うって否定できないんだよ」
トライクって言うのは、喉の器官に穴を開けてそこからチューブを差し込んで呼吸の補助をする事。今は口からチューブを差し込んでベントに繋いでいるけれど、これだと口腔内が乾燥してケアが大変だし、そこから感染があるかもしれないので、長期間はできないのだ。
だから、呼吸の補助が必要な患者はある一定期間過ぎると、トライクに変える事が多い。
ただ、この時に家族と相談してトライクもベントも外して死なせる事も視野に入れていくようにする。
あたしからすればこの状態で無理にトライクを入れて生かしても、植物人間状態でただそこに体があるだけの方が見ていて辛い気がする。
それでも、彼女の母親は娘を死なせたくないんだろう。
彼女の意識が戻る可能性があるのであれば、それも判る。でも、今の彼女はどう見ても植物人間状態で、今目を開いたのもただの条件反射のようなものだ。痛みだって伝える事はできないし、時々目を開く以外、何もしない。
「あたしだったら、このまま死なせてもらいたいな」
「そうだな。俺もそう思う」
「でも、家族も辛いだろうね」
「ああ、特に彼女の娘は辛いだろうな」
「なんで?」
「彼女の6歳の娘が第一発見者だったんだよ。いつまでもベッドで起きてこないからって起こしにいったら、口から泡拭いて痙攣していたんだと。それで慌てて夫だって言う男が救急車を呼んだって聞いてる」
それは・・・・そんな姿を6歳の子供が見たと聞いて、その子供の精神状態が気になる。
悪いけど、薬をして更に睡眠剤飲んだのは彼女だから、この状態を引き起こした事に対してあまり同情の余地はない。
でも、そんな姿を幼い子供が発見したとしたら、これからそれが彼女の心に傷を作るんじゃないか、と心配になってしまう。
「それで、母親は夫を面接謝絶にしているの?」
「ああ、それもあるな」
「それだけじゃないってこと?」
「ミッシェルがICUに来たのは3日前なんだ。その時も俺が担当していたんだけど、ドクターが彼女の脳は機能していないから、このままの状態になるだろうって夫に言ったら、生命維持器を取り外してくれって言ったんだよ」
それは、判らないでも無いけど。でも冷たい気もする。
自分の中ではそれが一番の手段だと思う。でもそれをいとも簡単に受け入れる人が夫となると、話はまた別だよ。
もしあたしのダンナがそんな事をあっさり受け入れるような男だったら、きっと化けてでるね。
「で、ドクターがそれをミッシェルの母親に告げたら、彼女は絶対に生命維持器を外させないって言って、ここで大げんかをやらかしたんだ」
「でも、夫の方が権限を持っているんじゃないの?」
「普通で考えりゃそうなんだけどね。今回は彼が彼女をあの状態で長期間放置したからああなった可能性というのもあって、彼の判断だけではできない事になっているんだよ」
「でも、お母さんが言うからトライクを付ける事になったんでしょ? でも、夫は反対しているんだよね?」
「生命維持器を外す事はいつでもできるけど、死んだ人間を生き返らせる事はできないから、とりあえず生かす方向でいくだけだよ」
確かにそれはそうだ。
「ただ、それを良しとしない夫が何かと言うとナースに絡んでくるし、2人の友達だという人間が徒党を組んでやってきて、部屋の中や通路で大騒ぎをして、他の患者やその家族が迷惑を被って、おまけにナースにも被害がでてしまってさ」
それで、ナースステーションにいるおまわりさんの事が判った。
「・・・なかなか、凄い話だね」
「本当だ。多分弁護士もでてくるだろうし、下手したら警察沙汰にもなる可能性が無い訳じゃない」
「あっ、そうか。夫が彼女を放置していたって事で?」
「そうだ。いくら過去に数回狂言自殺をしたことがあってその度に何も無かったとは言え、今回はあの状態になってしまっているからな。おまけに娘が発見しなかったら、そのままベッドで死んでいた可能性だってあるし」
「そうだね」
汚れ物を袋にいれながら、あたしはもう一度彼女を見る。
もう目は閉じられていて、ただ眠っているように見えるけど、そこには誰もいない。
あたしは頭を振って、汚れ物の入った袋を手にして病室をでた。
後日談
結局あれから1ヶ月ちょっと入院してから、彼女は長期療養型のホームへと移された。病院側としてはもっと早く移したかったんだけど、ホームがトライクを入れて1ヶ月以上経たないと受け入れないと言ったので、ICUから普通病棟に移して1ヶ月を待ってからホームへと移動させたらしい。
それでもやっぱり最初の3ヶ月ほどは月に2−3回数日単位で病院に戻ってきていた。
何でも合併症を患わせやすいんだとか・・・
もちろん、そのうちの何日かあたしもケアをしたんだけど、目を開く事はあってもその焦点が合っている事は一切無かった。
そんな中、娘の傍で一生懸命面倒を見ている母親の姿がとても印象的だった。
母親から、娘の娘、つまり孫を引き取って育てているという話も聞いた。夫だった男とは一切連絡も取っていないんだとか。
もちろん病室に彼がやってくる事は無い。というより、裁判所から彼女に近づく事を禁止されたらしい。
複雑な気持ちでそれを話す母親の話を聞いてやるくらいしか、あたしに出来る事はなかった。




