12.MS PE(肺動脈塞栓症)
「よお~、チカ」
呼ばれる声に振り返ると、そこには今朝ベッドの中にいたディートリッチさんが部屋のドアのところに立って手を振っている。それも病院のガウンじゃなくて、既に自分の服を着込んでいる。
「あれ? もう服に着替えてる? 帰る気満々ですね。」
彼は今朝までずっとCBI(Continuous Bladdar Irrigation)をしていた16号室の患者さん。火曜日に手術をして木曜日である今朝までずっとCBIをしてた。
普通は24時間くらいなんだけど、出血が止まってなかったから大事をとってということで今朝まで継続してた。何とか昨日の夜にはカテーテルにも血液が混入する事もなくなり、朝一番に来たドクター・スコットから帰ってもいいという許可が下りたらしい。
帰宅許可が下りたからと言ってすぐに帰れる訳はないんだけど・・・それでも嬉しかったらしくって、朝からナースに早くカテーテルを取れとか点滴を外せとか、いろいろと催促をしていて。
(結局ドクターの許可がおりなくて、とりあえずカテーテルはバッグをズボンの中に仕舞うサイズに交換という事で帰宅ということになっちゃったけど)
「でもまだペーパー、出来てないと思いますよ?」
「そんなの判っとる。けどな、ペーパーが出来てから着替えてたら、孫息子を待たせる事になるからな。だったらとっとと着替えておいた方がいいだろう?」
「アパートに帰るんですか? それとも彼のところにしばらくいるんですか?」
「そんなもの、アパートに決まっとる。可愛い犬も待ってるし、どのくらい荒らされたのか自分の目で見たいからな。」
そうだった、そういえば彼のアパートに火曜日の夜に空き巣が入ったんだったっけ。
昨日も彼の担当だったからその時に、夜中に孫から電話があって空き巣が入ったと聞かされた、と言ってた。なんでも昨夜誰もいないはずの彼のアパートから変な物音がする、と孫息子のところにアパートのほかの住人から連絡がいき、それに慌てた孫息子から病院に入院中のディートリッチさんの携帯に、今どこにいるんだって電話が掛かってきたらしい。ディートリッチさんは入院しているに決まってると返事をして、それでじゃああの物音は何なんだ、と言うことになって、孫息子がわざわざスペアのキーを使って中を見たら荒らされていたとか・・・・そのあとで警察を呼んで検証してもらって、電話で何回かディートリッチさんに何がないかを確認して、と結構慌しい夜だったとか。
なので本当は昨日帰りたかったらしいんだけど、それはドクターの許可が下りなかった。
だから余計に待ちきれないのかもしれない。
「でも、それまではウロウロしないで、ちゃんと病室の中にいてくださいね。あとでヴァイタルサインをチェックしに行きますから。」
「今すぐ来てもいいぞ。他にする事ないだろ。」
いや・・・・そんなことはない。何もする事がないなんて有り得ない。今だって他の患者さんのトイレの手伝いをしていたし、清拭の手伝いをしなくちゃいけない患者もたくさんいる。
それに、今も言ったようにヴァイタルサインチェックもしなくちゃいけない。
「あ~、判りました。じゃあすぐに行くから部屋で待っててくださいね。」
とはいえそんなこと言ってもどうせ判らないだろうし。
ぼやきたい言葉をグッと噛み締めて、笑顔で手を振った。
「じゃ、何か用があったらナースコール押してくださいね。」
20号室の患者さんの清拭の手伝いをして、その片づけを済ませてから部屋を出ると、なにやら浮き足立った雰囲気を感じて、周囲を見回すとどうやら人が17号室の前に集まっているのが見える。
「あれ、何かあったの?」
「あっ、チカ。コード・ブルーだって。」
「えぇっ!」
部屋の前にいたハウスキーパーのジョディーに何気なく掛けた声に返ってきた返事にびっくりして、言われた部屋を見るとドアが閉まってる。
「ちょ、ちょっと、コードってこの部屋のこと?」
「そう、いきなりだったみたいよ。」
いきなりって・・・・そりゃそうだろう。だって、この部屋はディートリッチさんの部屋なんだから。
朝からずっと家に帰るんだって楽しみにしていたのに・・・・
コードブルーって言うのは病院内で使われる隠語みたいなもので、いきなり呼吸が止まって心臓停止状態になった患者が出たときに発せられることになっている。あたしも今までに何回かナースステーションに向かって叫んだ事がある。これになると、ナースステーションのデスクに座っている人が各方面に緊急救助のための人手を呼ぶ事になり、大抵はER付きのドクターが飛んでくる。
そして今回も部屋の中に入ると丁度ERのドクターが中にいるメンバーに指示を出しているところだった。
「IV(点滴)確保。心臓の動きをチェックして。それから血圧もチェック。」
血圧チェックと聞いて、慌てて部屋の中を見回すけど何もない。なので慌てて部屋の外へ走り出て、とにかく目に付く最初のヴァイタルマシンを引っ掴んで部屋に戻る。
部屋に戻ってナースたちの間を縫って、ディートリッチさんの左側に場所を見つけてすぐにマシンをセットする。それと同時にすぐに血圧を測るためにスイッチを押した。
ウィーンと低いモーター音を響かせてマシンが血圧を測りだしたのが判る。だけど、1回目は計れなかったみたいで、すぐに2回目のチェックを始める。だけど、それでも測れない。
ってことは、低すぎるか弱すぎるって事。
「マシンじゃ測れません。マニュアルを取ってきます。」
そういい残して、すぐに部屋を飛び出して、手動式の血圧計を取りに行った。
部屋に戻ると既に点滴で強心剤を注入しているところだった。
それを横目で見ながらとにかく早くと思いつつ血圧を測る。
「82オーバー40」
最初に上の方の数値を言ってから、下の数値をいう。
それを記録係をしているジョーンが書きとめているのが目の端に写る。
「ドーパミン追加」
「はい」
ドーパミン注入を待ってから、もう一度血圧を測る。
「52オーバー32」
「52・・?」
すぐ目の前で故宮を助けるための器具を装着していたレイが呟くようにあたしの言った数値を繰り返す。
言いたいことは判る。だって、本当に低い数値なんだもの。
反対側のベッドに設置されていた心電図には既に彼の心臓が動いてないかのように殆どない波線があらわれているだけで。
「CPR開始」
部屋に響いたドクターの声に反応して、テリーがすぐにディートリッチさんの胸の横に立とうとするから、あたしは彼の側においていた血圧計を動かして場所を開ける。
あたしが場所を開けたのとテリーがCPR(人工呼吸)のために胸を押し始めたのが殆ど同時だった。
だけど、背中を向けて血圧計を動かしていたあたしの耳に、何かが折れる音が聞こえた。
「っ!」
テリーが人工呼吸のために心臓付近を押したのと同時に、彼が押したあたりの肋骨が折れた音。
そうと判って息を呑んでしまったのはあたしだけじゃない。
だけど、今は折れた肋骨よりも彼の心臓を再び動かす事の方が重要だから。折れた骨は治すことが出来るけど、停まってしまった心臓を再び動かす事は、今手を止めてしまうと不可能になってしまうから。
「AEDの準備」
「1分経過」
指示を出すERドクターの声と、記録係のジョーンのカウントダウンだけが部屋に響く。
「あと10秒・・・5,4,3,2,1、脈拍チェック」
その声と同時にCPRをしていたテリーが手を止める。
「ヘイ、チカ。替われるか?」
「あっ、はい」
テリーの呼ばれて慌てて彼が今までいた位置に移動して場所を替わる。
目の前に横たわっているディートリッチさんの胸の部分が陥没していて、本当に肋骨が折れてしまっている事が判るけど、あえてその部分には目をつぶる。
今はそんな事を気にしている場合じゃないから。
「チェックできました」
「続けます」
脈拍が確認されたところで、テリーから場所を受け継いだあたしが掛け声を返してからCPRを開始する。
その間10秒以下。マニュアルどおり。
男のテリーに比べると力が無いだろうけど、それでも真上からぐっぐっと押すようにする。既に肋骨は折れきってしまってるのか、ありがたい事にあたしが押している時にはそれ以上の骨が折れる音はしない。
「チカ、さっそく役に立ってるな。」
「そうだね、ちゃんとクラス受けといてよかった。」
目の前でエアポンプを使って肺に空気を送っているレイとは、つい10日ほど前に受けたCPRのクラスで一緒だった。なので彼も慣れたものだ。
「チカ、CPRの更新したばっかりだったの?」
「そ、それもほんの10日ほど前にね」
「どおりできちんと出来てるはずだ。」
あたしの前にCPRをしていたテリーがうんうんと頷きながら褒めてくれる。
「あと10秒・・・」
ジョーンのカウントダウンをする声が聞こえてきた。
「チカ、代わろうか?」
「あ~、うん、助かる」
ちょっと考えてから声を掛けてくれたICUのナースのサラに同意する。多分もう少し出来るだろうけど、無理をするよりはあとでまた代わる方がきっと上手に出来ると思うから。
「2,1、脈拍チェック」
その声にあわせて脈拍をチェックしている他のナースたちの邪魔にならないように、サラと場所を交代する。
「チェックできました。」
「続けます」
「AEDの準備もしておけよ。」
「はい。」
ドクターの指示で、既にAEDのためのパッドは取り付けられている。
「あと10秒・・・」
「脈拍チェックのあと、AED使用」
その声にまた部屋の中が緊迫したムードになる。AEDの担当となっているボビーがちゃんとマシンがチャージされているのをチェックしている。
「脈拍チェック」
「AED準備完了」
「チェックできました」
「クリアー!」
ボビーのクリアーの声と同時に、他の数人も同じようにクリアーと叫んで、誰も患者に触ってないかを確認して、そのままAEDをオンにする。
それと同時にディートリッチさんのからだが跳ねる。
「CPR継続!」
「「「はい!」」」
ドクターの声にみんなで返事を返しながら、今度はサラがCPRを始めた。
「脈拍、ゼロ」
そうやってCPRとAEDを数回繰り返して。
だけど、ついに微かに感じ取れていた脈拍も感じられなくなり、取り付けたままだった心電図の方も今では波型を表すこともなく。
「死亡時刻11:42AM」
もう一度CPRをしようとしたテリーが、動かそうとした腕をドクターのアナウンスに引き止められる。
あたし、テリー、サラ、アマンダ、それにジーンの5人が交代でCPRを続ける中、ERドクターの指示で点滴のラインを使って強心剤注入も続けられていたけど、微かな希望もなくなってしまった。
目の前のディートリッチさんが息を吹き返すことはなくて・・・・
途端に静まり返った部屋の中、彼を迎えに来ていた孫息子が、微かな嗚咽を漏らす。
そんな彼にドクターが小さな声で静かに彼が亡くなったことと、それまでにしてきた事を説明しているのを横目に、他のセクションから来たナースたちやその他が部屋から出て行く。
「グッド・ジョブ(よくやった)。チカ」
「お疲れ様、頑張ったね。」
部屋に残って最後の片づけを始めたあたしに、顔見知りのメンバーがそう声を掛けて慰めてくれる。
それに頷いて返すものの、それもあまり慰めになってなくって。
CPRによる蘇生率がそれほど高くないことは知っている。だけど、だからと言ってそう簡単に駄目だったって諦められるわけがない。
「チカ、ポスト・モーテム・ケアするんでしょ? 手伝うわ。」
そうして誰もいなくなった部屋に、ディートリッチさんの担当のナースだったジーンが入ってきた。
「でも、待たなくていいの?」
「もう帰っちゃったから。彼の持ち物は後で取りに来るって言ってから、それはナースステーションに持って言っておけばいいと思うわよ。」
ポスト・モーテム・ケア(Post Motem Care)っていうのは、死後の葬儀社がやってくる前にしておく最後の清拭の事。病室にいた身内が部屋を出て行ってから始めることなんだけど、来ていたディートリッチさんの孫息子は、どうやら既に帰ってしまったらしい。
ふと時計を見ると、ディートリッチさんが亡くなってからまだ15分しか経ってないのに・・・
「そっか・・・」
クローゼットの中から彼の持ち物を纏めて、それらを全て袋に詰めている間に、ジーンが清拭のためのタオルとかを持ってきてくれた。
「ねぇ、服とかどうする? このままで大丈夫よね。」
聞かれて、彼が服を着ていたことを思い出す。
腕の部分は点滴その他のために切られていたけれど、全体的には乱れた感じはしない。
「うん、大丈夫だと思う。もし駄目だったら、葬儀社のほうで家族が持ってきた服に着替えなおさせると思うもの。」
少しづつ清拭を始めるあたしの向こう側で、ジーンは点滴を外している。
「それで、何が原因? 心臓発作?」
ふと、気になっていた事を聞いてみる。
だって、朝はずっとあれだけ元気に歩き回っていたのに、いきなりのコード・ブルー。
一体なぜなのか、あたしは知りたかった。
「う~~ん、多分PEだと思う。ドクターはミスター・ディートリッチの孫息子に所見は言ってなかったけど、多分同じ意見じゃないかな?」
「PEかぁ・・・」
PEというのはPulmonary Embolism、つまり肺の塞栓症のこと。
これは大抵DVT(Deep Vein Thronbosis-深いところにある静脈の血栓症)で作られた血栓が、そこから移動して肺に入りそこで静脈を塞栓してしまう事によって起こる症状。この場合は心臓じゃないから、それもあってCPRでは蘇生できなかったって事もある。
「あたし、PEって言葉では理解していたつもりだったけど、あんな風に患者を死なせてしまうものだなんて知らなかった。」
「そうね、心臓発作みたいにいきなり倒れちゃうから、すぐには判断がつかないわよね。特にチカみたいに初めてだとね。」
だから気にするな、と言外に言われてる気がする。
「孫息子が言ってたけど、数年前に検査したときに数箇所肺に小さなPEが見つかって、その時にドクターに薬を飲むことを勧められたらしいけど、頑として受け付けなかったって。だから、いつかこうなると覚悟はしていたって。」
「そっか・・・・」
それでも、やっぱり助かってもらいたかったな。
「さ、早くしてしまわないと、他の患者さんの面倒もみなくちゃね。」
タオルをランドリーバッグに入れていたあたしの肩を軽く叩いて、ジーンが部屋を出て行く。
そうだ、あたしの患者は彼だけじゃない。
他の患者さんだっている。多分今は他のCNAたちが面倒をみてくれているだろう。彼らにだって患者がいるんだから、いつまでも任せっぱなしにしている訳にはいかない。
バッグをギュッと縛って、それからカーテンを閉めて、あたしはそのまま部屋を後にした。
今回はシリアスです。
たまにこういった人の死と向き合うこともありますが、それも病院というところで働いていると仕方ないと思っています。
それでもできるだけのことをして、頑張っていきたいですね。