10.AC あたしは日本人です。
今日は普通病棟。
手元にある紙には今日の担当患者の名前一覧と病状その他の必要なことが書いてある。
で、その中に見つけたのは・・・・ミスター・レイムンド。
う〜ん。
「あれ、チカ、どうしたの?」
「えっ、ううん、別に。ただ、常連さんの名前を見つけただけ」
病院だから年に数回入院してくる患者さんもいる。その人たちのことを常連さん(レギュラー・カスタマー)と呼んでいる。
彼はメキシコ人だ。この辺りに住んでいるメキシコ人たちは、二世を除くと英語が喋れない人が多い。だから、子供や孫が患者の代わりに英語で話してくれたり、通訳をしてくれる。さすがに孫が5−6歳となると通訳をしてもらうわけにはいかないので、スペイン語の判る人が簡単なことを通訳してくれるか、テレビ通信システムを使って、その人にしてもらうことになっている。
それで、このミスター・レイムンドは、バリバリの英語の喋れないメキシコ人だ。
ま、とりあえず、患者さんに顔見せに行ってこなくっちゃ。
まず、患者さん全員に氷水を配って歩く。
この時に、誰が看護師で、自分が担当のCNAだって挨拶をする。そうすることで患者さんも誰に何を聞いたり頼んだりすればいいのか判るから。
「グッド・モーニング」
ノックをしてから、そう声をかけて中に入ると、ベッドにはレイムンドさん、その横の簡易ベッドに横になっているのは娘さんのマリアさん。
レイムンドさんの奥さんは体が丈夫じゃないらしくて、いつも付き添いは娘のマリアさんがしている。それからたまに、マリアさんの娘のワニタちゃんが一緒に泊まっていたりする。
「グッド・モーニング、チカ」
「グッド・モーニング、マリア」
挨拶をしてベッドを見ると、レイムンドさんはまだ寝ているようで静かだ。
申し訳ないけど、それを見てホッとした。
だって、レイムンドさん、うるさいんだもん。
「いつくらいに帰れそうですか?」
「う〜ん、昨日来たばかりだから、もう数日はここにいなくちゃいけないかも。今日は輸血をしなくちゃいけないって、さっきドクターが来て言ってたから。後はその検査結果次第じゃないかしら?」
そっか、ってことは検査結果が今のところは悪いってことで。ってことは赤血球が足りないんだろうか?
「とりあえず2ユニットの輸血をして、明日検査しましょうって。それでも検査結果次第でもしかしたら明日の輸血をしなくちゃいけないかもって言われちゃったわ」
2ユニットか。1ユニットは1パイントのことで、約470mlくらいかな。で、2ユニットってことは約1リットル。それは結構多いなぁ。
「相変わらず、貧血が酷いんですか?」
「そうなの。色が黒いから貧血って言われても判らないんだけどね」
いや、そんな茶目っ気たっぷりに言われても、返事のしようがないというか・・・
確かに、メキシコ人は肌の色素が濃いからよく日焼けした日本人の肌みたいで、少々貧血で青くなっても判らないかもしれない。
「マリア、そんな事言ってたら、また文句言われちゃうわよ」
「そうね、でも本人がそういってたんだから、大丈夫じゃない?」
「・・・ミスター・レイムンドも、相変わらずってことなんだね」
「そうそう」
まぁ、そんな軽口が言えるってことは、まだ大丈夫ってことなんだろうね。
そう思って、とりあえずマリアには何かあったら呼んでねと言って部屋を出る。
とりあえず、仕事仕事。
「オラ・チカ!!」(よぉ、チカ)
部屋に入った途端、元気なミスター・レイムンドの声。
「オラ、シニョーレ・レイムンド」
「コモ・エス・タ?」(元気かい?)
だから、あたしは日本人だってば。
ミスター・レイムンドは、初対面のときから、あたしにはなぜかスペイン語で話しかけてくる。
それを彼の家族たちは面白そうに見ているし・・・
「ムイ・ビエン。グラシアス。イト・ケタル?」(いいですよ、ありがとう。そちらはどうですか?)
「ビエーン」(良いよー)
うんうん頷いて、1人で楽しそうなんだけど、あたしとしては納得してないんだけど。
「シニョーレ・レイムンド。ヨ・ソイ・ハポネサ」(レイムンドさん、あたしは日本人なんだけど)
「シー、シー、シニョーラ」(はいはい)
判ってる、とは言ってくれるだけど、それでも口から出てくるのはスペン語ばかりで。
「アキ・オ・———」
だから、スペイン語判らないんだってば。
「ハポネサ。ポキート・エスパニョール」(日本人。スペイン語ちょっとだけ)
「シー、シー」
判ってないだろ、まったく。
横からマリアが笑っているのが聞こえる。
「マリア、いつも言ってるけど、ミスター・レイムンドにあたしは日本人で、スペイン語喋れないって言ってくれる?」
「言ってるわよ、いつも。でもチカはパパが名前を覚えてる数少ない病院のスタッフだし、なぜかいつもスペイン語なのよね」
「名前覚えてもらえて光栄だと思うけど、スペイン語は喋れないんだってば」
「他の人にはここまで話しかけないんだけどね。チカにはいつも話しかけてるわよね」
きっと、見かけじゃない? そう付け加えるマリアに、思わず脱力してしまう。
あたしはそこまでメキシコ人に似ているんだろうか? 自分ではそう思わないけど、もしかしたら似ているのかもしれない。
だって、昔住んでいたテキサスでは、たまに買い物に1人で行くと、スペイン語で声をかけられていた。アメリカに来たばかりだったから、てっきりあたしの聞き取りができないだけなんだと思っていたけど、あとで彼らが話していたのはスペイン語だって判って、がっくりしたのを憶えてるもの。
それに・・・・
「名前がチカだしね・・・」
「そうそう、それもあるかもしれないわね」
スペイン語で、チカは小さい女の子という意味があるらしい。ちなみに小さい男の子はチコだ。
なので、よく名前の綴りがCHIKAではなく、CHICAとスペイン語にされてしまうことがある。たまにチコだったりもするし。男の子じゃないって言うの、まったく。
そういえば・・・・
チカと名前を言うと、いつメキシコを離れたんだ、なんて聞いてくる患者さんだっていた。メキシコのどこに住んでいたんだって、聞かれたこともある。
日本人だっていったら、どうしてメキシコ人の名前を使っているんだって、言われたことだってある。チカは日本人の名前だっていったら、そんなわけない、なんて言われたこともある。
日本人のあたしが言っているんだから間違えるわけないっていうのに、信じてもらえないあたしはどうすればいいんだろう、と途方に暮れることもある。
ホント、名前でこんな苦労するなんて思ってもいなかった。
「そういえば、チカはネイティブ・アメリカンにも間違えられるんだっけ?」
ネイティブ・アメリカンはインディアンのこと。アメリカ全土に色々な部族の子孫が今も残っているんだけど、あたしの住んでいる辺りはチェロキーが多い。
「そうなんだよね。たまにどこの部族の出なんだ、って聞かれちゃう。聞かないでチェロキーだろうって言い切る人もいるしね」
「なんて答えるの?」
「チェロキーだろうって言い切る人にはノーって返事をして、部族を聞かれる時は日本人ですって言うことが多いかな?」
「私にはネイティブ・アメリカンには見えないけど、そう見えるのかしらね」
「う〜ん、どうなんだろう? ま、口を開けばアクセントが違うから、判ってくれるみたいだけどね。なんせ、日本人アクセントがあるから」
学生時代、アメリカに住むなんて夢にも思っていなかったし、英語は嫌いだったから真面目に勉強しなかった。だから、どうしても日本語アクセントの強い英語しか喋れない。
あたしの周囲には、大学で英語を専攻したって言う人ばかりだからちょっと気が引けちゃうけど、こればかりは仕方ないと諦めている。
なので、見た目はメキシコ人やネイティブ・アメリカンかもしれないけど、喋ると判るみたい。とはいえ、今度はフィリピン人かっていわれちゃうけど。
多分、この町には日本人はあたししかいないみたい。フィリピン人がかなりの人数いるせいか、アジア人と見るとフィリピン人とすぐに言う人が多いんだよね。
よく言われるのが、中国人、フィリピン人、韓国人、メキシコ人にネイティブ・アメリカンと、日本人以外ばっかり。
自分では日本人顔をしていると思っているんだけどね。
まぁ、別に何人でもいいけど、たまには「どこから来たの?」って聞かれてみたいです。
「そうだ、イヌークですって言ってみれば?」
マリアが笑いながらそんなことを言って来た。
人ごとだと思って楽しんでいるのは見え見えなんだけどね。
でもつい、「おっっ、それは面白そう」って思っちゃった。
イヌークって言うのはエスキモーのこと。確かに北アメリカのネイティブ・アメリカンと呼ばれる人たちであるし、エスキモーって意外と日本人に似てるんだよね。
「それ、いいかも。今度どこの部族って聞かれた時に覚えてたら、イヌークですって言ってみる」
マリアと笑い合っていると、不思議そうにミスター・レイムンドがマリアに何を話しているのかを聞いてくる。
あたしに説明できるわけないから、マリアが笑いながらスペイン語で説明すると、ミスター・レイムンドも面白そうに頷いている。
きっとマリアにそれは面白そうだって言っているんだろうな。
「パパがジュースが欲しいって言ってるんだけど、持って来てくれる?」
「もちろん、何がいいの?」
とマリアに聞きながら、数少ない知ってるスペイン語の単語を思い出す。
「テネモス・デ・ナランハ・ピーニャ・オ・マンツァーナ」(オレンジ、パイン、それにリンゴがあります)
他にもあるけど、単語を知らないから言えないんだよね。
「ナランハ」(オレンジ)
「アルゴ・マス?」(他には?)
「ノー」
オレンジジュースだけってことで、とりあえず取りにいく。
どっちにしてもここで油を売ってたら起こられちゃうものね。
「マリアも何かいる? コーヒーとか」
「そうね、コーヒー持って来てもらおうかしら」
「確か好みは・・・ウン・カフェ・ソロ、でしょ?」(ブラックコーヒー)
「そうそう、よく憶えてるわね」
「いつものだから、これくらいはね」
ミスター・レイムンドが入院するとマリアが泊まり込むから、何度もそれが続くとマリアの好みもつい憶えてしまう。
さ、とりあえずジュースとコーヒーをとってこよう。