お母様の言うことを聞いていれば、私は幸せなはずだった
エリアーヌ王女は、自分が幸せではないと思ったことなど、一度もなかった。
朝、目を覚ませば侍女たちがカーテンを開ける。
柔らかな朝日が差し込むころには、母である王妃セレネが必ず娘の部屋を訪れた。
「おはよう、エリアーヌ。よく眠れた?」
「はい、お母様」
「そう。いい子ね」
その言葉を聞くたび、エリアーヌは嬉しくなった。
いい子。
お母様のいい子。
それで十分だった。
侍女が三着のドレスをベッドへ並べる。
白。
淡い青。
薄紅色。
「本日はどちらになさいますか、殿下?」
エリアーヌが口を開くより先に、セレネが薄紅色のドレスを手に取った。
「これにしましょう。この子には暖かい色のほうが似合うわ」
「はい、お母様」
エリアーヌは微笑んだ。
食事も同じだった。
「今日は蜂蜜を少しだけにしましょう」
「はい」
「果物はこちらを。昨日は葡萄を食べたでしょう?」
「はい、お母様」
「魔法の訓練は午後からにしましょう。午前中に無理をすると疲れてしまうから」
「わかりました」
誰と話すか。
どの侍女を側に置くか。
庭のどこまで歩いていいか。
どんな本を読むか。
何時に眠るか。
すべて母が決めてくれた。
エリアーヌは、それを窮屈だと思ったことがない。
なぜなら母は、自分のことを誰よりも知っているからだ。
幼いころ、母は重い病に倒れた。
そう聞かされていた。
その頃の記憶は、不思議なくらい曖昧だった。
暗い部屋。
薬草の匂い。
母の手。
そして――。
雪。
白い雪の中で、誰かが自分を抱いている。
青い宝石。
泣いている女性。
時々、そんな光景が夢に現れた。
けれど目覚めると、いつもほとんど忘れていた。
「エリアーヌ?」
「……はい?」
鏡越しに母と目が合う。
「どうしたの?」
「いえ。少し夢を思い出していただけです」
セレネの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「どんな夢?」
「雪が……」
「夢よ」
セレネはすぐに笑った。
「あなたは小さいころから変な夢をよく見る子だったもの」
「そうなのですか?」
「ええ」
母が髪を梳く。
優しく。
丁寧に。
「気にしなくていいの」
「はい、お母様」
セレネの指が娘の首元へ触れた。
そこには小さな青い宝石があった。
「これは絶対に外してはいけないわ」
「はい」
「大切なお守りだから」
幼いころから何度も聞かされてきた言葉だった。
だからエリアーヌは疑わなかった。
「エリアーヌ」
「はい?」
「こちらを向いて」
母の指が頬に触れる。
「あなたは私の大切な娘よ」
「はい、お母様」
「私の言うことを聞いていれば、何も怖いことはないわ」
エリアーヌは迷わず頷いた。
「はい」
◇
「……本当に、それでいいのか?」
ある日の昼食後。
廊下でエリアーヌを呼び止めたのは、四人いる兄のうち次兄のレオニスだった。
「何がですか?」
「母上のことだ」
レオニスは言いづらそうに頭を掻いた。
「お前も、もう子供じゃない。服くらい自分で決めてもいいだろ」
エリアーヌは目を瞬いた。
「でも、お母様のほうが私に似合うものをご存じです」
「食事まで?」
「体調を考えてくださっていますから」
「友人まで?」
「悪い人に騙されないようにしてくださっているだけです」
レオニスは黙った。
「兄様?」
「……嫌じゃないのか?」
「何がです?」
「全部だよ」
エリアーヌは少し考えた。
「嫌ではありません」
「本当に?」
「はい」
微笑む。
「お母様は私を愛してくださっていますから」
「愛してるなら、何をしてもいいのか?」
エリアーヌは答えられなかった。
そんなことを考えたことすらなかった。
「レオニス」
低い声。
廊下の向こうから長兄アーヴェルが歩いてきた。
「妹を困らせるな」
「でも兄上――」
「本人が幸せだと言っている」
アーヴェルはエリアーヌを見る。
「そうだろう?」
「はい」
「なら外野が口を出す問題ではない」
レオニスは納得していない顔だった。
三兄カイルはもっと単純だった。
「母上は少し心配性なだけだろ?」
四兄ユリウスだけは何も言わなかった。
ただ時折、エリアーヌとセレネを遠くから見ていた。
父である国王も同じだった。
家族は何度かセレネへ忠告したことがある。
しかし、そのたびエリアーヌ自身が言った。
「私は大丈夫です」
だから誰も、それ以上踏み込めなかった。
本人が幸せだと言っているのだから。
◇
日常が変わったのは、王妃が三日間だけ王都を離れることになった日だった。
「夜更かしをしてはいけません」
「はい」
「甘いものも食べすぎないように」
「はい」
「知らない者とは話さないこと」
「はい、お母様」
「西側の庭には行かないこと」
「はい」
エリアーヌは少し首を傾げた。
「どうして西側は駄目なのですか?」
セレネの表情がわずかに固まる。
「古い建物があるからよ。危ないの」
「そうなのですね」
「ええ」
セレネは娘を抱きしめた。
いつもより強かった。
「いい子にしていてね」
「もちろんです」
馬車が城門を出ていく。
エリアーヌは姿が見えなくなるまで手を振った。
そして翌朝。
問題が起きた。
「殿下。本日はどちらになさいますか?」
侍女が三着のドレスを並べた。
青。
白。
緑。
「……え?」
「本日のお召し物でございます」
エリアーヌは三着を見つめた。
「お母様は……何と?」
「王妃陛下からは伺っておりません」
「そう……」
青を見る。
白を見る。
緑を見る。
どれがいいのだろう。
何を基準に選べばいい?
「殿下?」
「……お母様なら、どれを選ぶと思います?」
「申し訳ございません。私には……」
結局、三十分近く悩んだ。
昼食ではもっと困った。
「魚料理と鶏肉料理、どちらになさいますか?」
「どちらを食べればいいのです?」
「殿下のお好きなほうを」
「好きな……ほう?」
その言葉が妙に耳に残った。
好き。
自分はどちらが好きなのだろう。
わからなかった。
午後になっても落ち着かない。
本を読もうとしても、
――お母様なら、どれを許すだろう。
庭へ出ても、
――どこまで歩いていいのだろう。
自分の部屋でさえ、
――今は何をしていい時間なのだろう。
突然。
エリアーヌは怖くなった。
母がいない。
それだけなのに。
自分が何をすればいいのか分からない。
そして同時に、一つの考えが浮かんだ。
――城の外へ行ってみたい。
自分でも驚いた。
母なら絶対に許さない。
だから、やめるべきだ。
そう思った。
それなのに。
一時間後。
エリアーヌは護衛を二人だけ連れ、目立たない外套を羽織って王都の市場に立っていた。
◇
世界は、うるさかった。
「焼きたてだよ!」
「林檎、今日は安いよ!」
「そこの兄ちゃん、見ていかないか!」
人が笑う。
子供が走る。
商人が叫ぶ。
肉を焼く匂い。
果物の香り。
馬車の音。
城とはまるで違った。
エリアーヌは何度も立ち止まった。
「殿下、あまり離れませんよう」
「はい」
その直後。
甘い香りがした。
焼きたてのパン。
気づけば、小さな店の前に立っていた。
「いらっしゃ――」
店から出てきた少女が固まる。
エリアーヌと同じくらいの年頃。
栗色の髪を後ろでまとめ、頬には小麦粉。
「え……」
「?」
「お、おお、おお……!」
「大丈夫ですか?」
「王女殿下ぁ!?」
「しっ!」
護衛二人が同時に顔を覆った。
「も、申し訳ありません!」
「いえ……」
「まさか王女様がうちに……! お茶!? 椅子!? 父さん呼ぶ!?」
「落ち着いてください」
「無理です!」
エリアーヌは思わず笑った。
少女の名はミナといった。
「パン、見ていきます?」
「はい」
「どれにします?」
棚には十種類以上。
「……どれがいいでしょう」
「甘いのと塩味、どっちが好きです?」
「分かりません」
「柔らかいのと硬いのは?」
「分かりません」
「果物入りは?」
「……分かりません」
ミナが首を傾げた。
「じゃあ王女様、何が好きなんです?」
エリアーヌは口を開いた。
言葉が出ない。
好きな色。
好きな料理。
好きな本。
好きな場所。
自分は何が好きなのだろう。
「……分かりません」
四度目だった。
ミナは笑わなかった。
「じゃあ、これ食べてみます?」
蜂蜜と木の実を使った小さなパン。
「どうしてこれを?」
「私が好きだから」
「それだけですか?」
「それだけです」
エリアーヌは一口食べた。
甘い。
木の実が香ばしい。
「……おいしい」
「でしょ?」
「はい」
「じゃあ、それ好きってことでいいんじゃないですか?」
エリアーヌはパンを見つめる。
「これが……好き」
自分の口から出た言葉なのに、不思議だった。
◇
翌日もパン屋へ行った。
その次の日も。
ミナは王女だからといって、必要以上に特別扱いしなかった。
「王女様、そこの袋取ってください」
「私が?」
「私いま手が粉だらけなんで」
「……はい」
そんなことを頼まれたのは初めてだった。
市場を一緒に歩いた。
「どっち行きます?」
エリアーヌは反射的に、
「どちらでも――」
と言いかける。
止まる。
右には広場。
左には花屋。
「……左へ行きたいです」
「じゃ、左!」
「理由は聞かないのですか?」
「なんで?」
「……いえ」
誰も理由を求めなかった。
誰も正解か不正解かを決めなかった。
エリアーヌは少しずつ知った。
赤より青が好き。
魚より鶏肉が好き。
蜂蜜は好きだが、たくさん入っているものは苦手。
恋愛小説は少し退屈。
冒険譚は好き。
花を見るのは好きだが、摘むのは好きではない。
そして。
ミナと話すのが好きだった。
◇
三日目。
二人で市場の古本屋を覗いた。
「これ面白そう」
ミナが一冊の古い本を取った。
『北方諸王国の歴史』
表紙には、青い花の紋章。
それを見た瞬間。
エリアーヌの頭が痛んだ。
「っ……」
「王女様?」
雪。
炎。
誰かの声。
『エリアーヌ!』
「……誰?」
「え?」
「今……誰かが……」
ページを開く。
そこには、二十年近く前に滅亡したアルセリア王国について書かれていた。
青い花を王家の紋章とする北方の小国。
最後の王族は全員死亡。
そう記されている。
挿絵の女性が首から下げていたのは――。
青い宝石。
エリアーヌは無意識に自分の首元を握った。
「王女様?」
「……帰ります」
「え?」
「ごめんなさい。今日は……」
怖かった。
なぜ怖いのか分からなかった。
その夜。
エリアーヌは夢を見た。
雪の中。
知らない女性が泣いている。
『生きて』
その女性が自分を誰かへ差し出す。
受け取った人物の顔は見えない。
ただ。
紫色の光だけが見えた。
◇
夕方。
王妃セレネが帰城した。
「お母様!」
エリアーヌは母へ抱きついた。
怖い夢も。
青い花も。
全部忘れたかった。
「ただいま、エリアーヌ」
「お帰りなさいませ」
「寂しくなかった?」
「最初は少し。でも――」
エリアーヌは笑う。
「私、お友達ができました」
セレネの手が止まった。
「……お友達?」
「はい。ミナという子です。パン屋で働いていて――」
「誰が許可したの?」
声が違った。
「え?」
「その娘と話すことを、誰が許可したの?」
「……誰も」
「そう」
セレネは笑った。
いつもの笑顔。
なのに。
エリアーヌは一歩下がりたくなった。
「もう会ってはいけません」
「え?」
「身元も分からない平民でしょう? あなたを利用するかもしれない」
「ミナはそんな人ではありません」
「エリアーヌ」
「本当に優しい子です。それに――」
「もう会ってはいけません」
いつもなら。
「はい」
それで終わっていた。
けれど。
『王女様はどうしたいんです?』
ミナの声。
左へ行きたい。
蜂蜜のパンが好き。
冒険の本が好き。
青が好き。
そして――。
「……嫌です」
セレネの笑顔が消えた。
「今、何と言ったの?」
「私は……ミナに会いたいです」
怖い。
心臓が痛いほど鳴る。
「ミナは私のお友達です」
「その娘に何を吹き込まれたの?」
「何も」
「嘘よ」
「お母様?」
「あなたはそんなことを言う子じゃなかった」
その言葉に。
何かが引っかかった。
「そんなことを……言う子?」
「エリアーヌ」
「私が変わるのは、いけないことなのですか?」
セレネが黙る。
「私は今日、青いドレスを着ました」
「……」
「鶏肉のほうが好きでした」
「……」
「冒険のお話が好きでした」
「やめなさい」
「私は――」
「やめなさい!」
エリアーヌはびくりと震えた。
セレネ自身も、自分の声に驚いていた。
沈黙。
そして。
王妃は娘を抱きしめた。
「ごめんなさい」
「お母様……」
「怖いの」
初めて聞く声だった。
「あなたが変わってしまうのが怖いの」
エリアーヌは何も言えない。
「あなたは知らないのよ。外の世界がどれだけ残酷か」
セレネの手が震える。
「私はあなたを失いたくない」
「私は、いなくなりません」
「分からないでしょう!」
強く抱きしめられる。
痛いほど。
「お母様……痛いです」
セレネの腕が緩む。
「……ごめんなさい」
その夜。
セレネは魔法を使わなかった。
◇
翌朝。
エリアーヌは部屋から出ようとした。
扉の前に兵士が立っていた。
「申し訳ございません、殿下」
「どういうことです?」
「王妃陛下より、しばらくお部屋で休まれるようにと」
「私は元気です」
「命令ですので」
窓から外を見る。
庭にも兵士。
ミナに手紙を書いた。
侍女へ渡す。
翌日。
返事は来ない。
もう一通。
来ない。
三日目。
エリアーヌは侍女へ尋ねた。
「私の手紙は届いていますか?」
侍女の顔色が変わる。
「……申し訳ございません」
「どういうこと?」
「王妃陛下が……」
エリアーヌは理解した。
その夜。
初めて母の命令を無視して部屋を出た。
秘密の階段を使う。
西側へ。
――西側の庭には行かないこと。
母の言葉が頭に浮かぶ。
だからこそ。
行った。
古い離宮。
使われていないはずだった。
けれど。
扉には新しい鍵。
「何があるの……?」
「エリアーヌ」
背後から母の声。
振り返る。
セレネが立っていた。
悲しそうな顔だった。
「どうして、ここへ来たの?」
「お母様こそ」
「部屋へ戻りなさい」
「嫌です」
セレネの瞳が揺れる。
「ミナへの手紙を止めましたね」
「あなたのためよ」
「ここには何があるのです?」
「関係ありません」
「私に関係するのでしょう?」
「エリアーヌ」
「青い花は何ですか?」
セレネの顔から色が消えた。
「……何?」
「アルセリアという国を知っていますか?」
「誰から聞いたの?」
「本で読みました」
「その本はどこにあるの?」
「なぜです?」
「答えなさい!」
まただ。
エリアーヌは胸が苦しくなる。
母が怖い。
でも。
今度は逃げなかった。
「私の首飾りと同じ宝石が描かれていました」
「……」
「お母様」
エリアーヌは青い宝石を握る。
「これは、本当にどこで手に入れたものですか?」
長い沈黙。
「……部屋へ戻りなさい」
「答えてください」
「戻りなさい」
「嫌です」
「エリアーヌ!」
「嫌!」
セレネが首元から銀色の石を取り出した。
エリアーヌは初めてそれを意識して見た。
「お母様……?」
「ごめんなさい」
セレネは泣いていた。
「本当に、ごめんなさい」
紫色の光。
「お母様を見て」
身体から力が抜ける。
「……ぁ……」
「私を見なさい」
怖い。
見てはいけない。
「あなたはいい子でしょう?」
「……はい」
口が勝手に動いた。
「今日は何も見なかった」
「……はい」
「アルセリアなんて知らない」
「……はい」
「ミナという娘にも会っていない」
「……はい」
涙が落ちる。
なぜ泣いているのか分からない。
「お母様の言うことを聞いていれば幸せなの」
「……はい」
「そう。それでいいの」
視界がぼやける。
焼きたてのパンの匂い。
『何が好きなんです?』
指が動く。
「エリアーヌ?」
『どっち行きます?』
左。
自分で決めた。
「私は……」
「お母様を見なさい」
「私は……ミナに……」
セレネの顔が歪んだ。
「忘れなさい!」
紫色の光が強くなる。
「嫌……」
「忘れなさい!」
「嫌!」
エリアーヌの意識が途切れた。
◇
翌日。
王女は笑っていた。
「体調は?」
レオニスが尋ねる。
「とてもいいです」
「市場へ行ったそうだな」
「いいえ」
レオニスの眉が動く。
「パン屋の娘を知っているか?」
「いいえ」
「ミナという名前だ」
「存じません」
完璧な笑顔。
「私には、お友達はいませんから」
レオニスの顔から血の気が引いた。
部屋を出る。
廊下には長兄アーヴェル。
「どうだった?」
「兄上」
レオニスは拳を握った。
「俺たちは間違ってた」
「……」
「本人が幸せだと言ってるから大丈夫だって」
アーヴェルは目を閉じた。
「私もそう思っていた」
「今でも?」
「……いや」
三兄カイルが壁を殴った。
「母上に直接聞く」
「待て」
今まで黙っていたユリウスが初めて強く言った。
三人が見る。
「証拠がいる」
「証拠?」
「ずっと気になっていた」
ユリウスはエリアーヌの部屋を見る。
「妹は母上が病気だったころの話をする。でも、俺は覚えている」
「何を?」
「その頃、母上は病気じゃなかった」
沈黙。
「何だって?」
「俺は小さかった。でも覚えている。母上は何度も北の離宮へ行っていた」
アーヴェルの表情が変わる。
「北……」
「それと」
ユリウスは続けた。
「エリアーヌが城へ来たのも、その頃だ」
◇
六日間。
ミナは毎日、城門へ来た。
「王女様に会わせてください」
「お帰りください」
「手紙だけでも!」
「王妃陛下の命令です」
七日目。
「君がミナか?」
レオニスが声をかけた。
「……はい」
「妹に何をした?」
冷たい質問。
「何もしてません」
「君と会ってから変わった」
「それって悪いことですか?」
「何?」
「王女様、自分の好きな食べ物すら知らなかったんですよ」
レオニスは黙る。
「服も、行きたい場所も、本も。何も」
「……」
「私はただ聞いただけです」
「何を?」
「あなたは何が好きなんですか、って」
レオニスは長い間黙っていた。
「……ついてこい」
◇
調査には時間がかかった。
王妃の部屋を勝手に調べることはできない。
国王も最初は信じなかった。
「セレネが娘へそんなことをするはずがない」
そう言った。
アーヴェルは反論できなかった。
自分も数日前まで同じことを思っていたからだ。
そこでユリウスが古い使用人を探した。
二十年前から城に仕えている者。
何人も口を閉ざした。
王妃を恐れている者。
本当に何も知らない者。
そして。
一人の老侍女が震えながら証言した。
「王妃陛下は……北から赤子を連れて戻られました」
国王が立ち上がった。
「何?」
「私たちは、遠縁の姫君だと……」
「私は聞いていない」
「陛下には、王妃様から説明すると……」
その夜。
国王自身がセレネの私室を調べることを命じた。
隠し扉が見つかった。
地下室。
魔術書。
催眠術式。
記憶への干渉。
人格誘導。
しかし。
それだけではなかった。
子供用の古い玩具。
小さな靴。
エリアーヌが初めて書いた文字。
幼いころの絵。
すべて丁寧に保存されていた。
そして一冊の日記。
『北方の離宮を制圧。王家の生存者を確認。』
次。
『赤子が一人。特殊な魔力反応あり。処分は保留。』
国王の手が震える。
『この子は私を見ると笑う。』
『今日、初めて指を握った。』
『殺せない。』
『この子に罪はない。』
さらに数年後。
『エリアーヌが私を母と呼んだ。』
『嬉しかった。』
『怖くなった。』
『いつか真実を知れば、私を憎むだろう。』
『なら、知らなくていい。』
『あの子が傷つく記憶など必要ない。』
『私が幸せにする。』
最後のページ。
『あの子には私が必要だ。』
そして。
何度も。
同じ文章。
『私が必要だ。』
『私が必要だ。』
『私が必要だ。』
レオニスは何も言えなかった。
愛情だった。
少なくとも最初は。
けれどいつからか。
愛することと所有することの境界が消えていた。
◇
「そこまでよ」
セレネが階段の上に立っていた。
隣にはエリアーヌ。
穏やかな笑顔。
空虚な瞳。
「セレネ」
国王の声が震える。
「説明しろ」
「何を?」
「エリアーヌは誰だ?」
セレネは娘を見る。
そして微笑んだ。
「私の娘よ」
「血の話をしている!」
「血?」
セレネの顔から笑顔が消えた。
「それが何?」
「セレネ!」
「私が育てたの!」
地下室に声が響いた。
「熱を出した夜に眠らず抱いていたのも私! 泣いたときに慰めたのも私! 歩き方を教えたのも、文字を教えたのも私!」
「ならなぜ、意思を奪った!」
「守るためよ!」
「何からだ!」
「全部よ!」
セレネは泣いていた。
「この世界から! 真実から! 私から!」
最後の言葉。
全員が黙った。
セレネ自身も。
「……私から?」
エリアーヌが呟いた。
セレネが振り返る。
「エリアーヌ?」
瞳に、ほんのわずかな揺らぎ。
「お母様は……私を傷つけるの?」
「違う!」
セレネが娘を抱く。
「私はあなたを愛している!」
「……はい」
「私はあなたのお母様よ」
「……はい」
「私の言うことを聞いていれば幸せなの」
「……はい」
「そうでしょう?」
「……はい」
「王女様!」
ミナの声。
セレネが振り返る。
「なぜ、その娘がここにいるの」
ミナは震えていた。
王妃。
王。
四人の王子。
怖くないはずがない。
それでも。
前へ出る。
「王女様」
「……」
紙袋からパンを取り出す。
蜂蜜と木の実。
「これ、好きですか?」
「……知らない」
「じゃあ食べてみてください」
「必要ないわ」
セレネが遮る。
ミナは見ない。
「好きじゃなかったら、嫌いって言っていいです」
エリアーヌの指が動く。
「食べたくなかったら、食べないって言っていい」
「黙りなさい」
「私と友達になりたくなかったら、それでもいい!」
ミナの目から涙が落ちる。
「でも、それを決めるのは王女様です!」
市場。
パン。
花屋。
左。
青いドレス。
鶏肉。
冒険譚。
『何が好きなんです?』
「……ミナ?」
セレネがエリアーヌの顔を両手で挟む。
「私を見なさい!」
紫色の光。
「あなたは私の娘」
「……はい」
「私の言うことを聞けば幸せなの」
「……はい」
「私はあなたを愛している」
「……はい」
涙。
「私も……」
セレネの顔が緩む。
「そうよ」
「私も、お母様が好きです」
セレネが微笑む。
「エリアーヌ……」
「髪を梳いてくださったことも」
「ええ」
「眠れない夜に側にいてくださったことも」
「ええ」
「熱を出したとき、手を握ってくださったことも」
「全部覚えているのね」
「はい」
エリアーヌは泣いた。
「だから……分からないんです」
「何が?」
「どうして……」
声が震える。
「どうして一度も、私が何をしたいか聞いてくれなかったの?」
セレネの笑顔が止まった。
「あなたのためよ」
「どうして私の友達を消したの?」
「守るため」
「どうして私の記憶を奪ったの?」
「あなたを守るため!」
「私が嫌だと言っても?」
「あなたには分からないの!」
「分からないから聞いてほしかった!」
エリアーヌが叫んだ。
初めてだった。
「間違ってもよかった!」
「エリアーヌ……」
「嫌いなものを選んでもよかった!」
「やめて」
「誰かに騙されることだってあったかもしれない!」
「やめなさい」
「それでも!」
エリアーヌは胸を押さえる。
「私の人生だった!」
セレネが泣いている。
「あなたを失いたくなかったの……」
「私はここにいます」
「違う!」
「お母様」
「あなたが私を必要としなくなったら……!」
そこで。
すべてが止まった。
エリアーヌはようやく理解した。
母は自分を守りたかった。
それだけではなかった。
母自身も、捨てられるのが怖かったのだ。
エリアーヌはゆっくり手を伸ばす。
セレネの頬へ触れる。
「お母様」
「……何?」
「私はあなたを嫌いになりたくありません」
セレネの瞳が揺れる。
「だったら――」
「でも」
エリアーヌは首を横に振った。
「あなたの言うことを全部聞く娘には戻れません」
「エリアーヌ」
「私は私になりたい」
「やめて」
セレネの銀色の石へ手を伸ばす。
「やめなさい」
「ごめんなさい」
「エリアーヌ!」
石を引きちぎる。
床へ叩きつけた。
砕ける。
紫色の光が消えた。
エリアーヌは膝から崩れ落ちた。
セレネが抱き止めようとする。
エリアーヌは一瞬だけ迷った。
そして。
その手を拒まなかった。
けれど。
自分から抱き返すこともしなかった。
◇
真実は時間をかけて明らかになった。
セレネは二十年前、戦争で滅亡したアルセリア王家の最後の赤子を見つけた。
命令では処分されるはずだった。
しかし殺せなかった。
連れ帰った。
育てた。
愛した。
そして。
失うことを恐れた。
幼いエリアーヌが過去について尋ね始めたころ、最初の記憶操作を行った。
それから少しずつ。
危険な記憶を消した。
嫌な人間から遠ざけた。
友人を選んだ。
本を選んだ。
服を選んだ。
食事を選んだ。
いつしか。
娘の人生まで選ぶようになった。
国王は実の父ではなかった。
四人の王子とも血は繋がっていなかった。
そしてセレネも。
血の上では母ではなかった。
その事実を知った夜。
エリアーヌは泣いた。
翌朝も。
その次の日も。
自分が誰なのか分からなかった。
そんな彼女の部屋へ、四人の王子がやって来た。
「……兄様」
呼んでから俯く。
「ごめんなさい」
アーヴェルが眉を寄せる。
「何がだ?」
「私は……皆様の妹では……」
「それが?」
「え?」
「私は二十年近く、お前の兄をやっている」
アーヴェルは腕を組む。
「今さら他人だと言われても困る」
レオニスが笑う。
「俺なんか母上に文句言ってまでお前に口出ししてたんだぞ。責任取れ」
「何の責任ですか……」
カイルが肩をすくめる。
「俺は難しいこと分からないけど」
エリアーヌを見る。
「妹だろ?」
最後にユリウス。
「……ごめん」
「え?」
「もっと早く気づけたかもしれない」
「兄様のせいでは――」
「それでも」
ユリウスはエリアーヌの頭を撫でる。
「これからは、嫌なら嫌って言え」
涙が溢れた。
「兄様……」
その日。
エリアーヌは知った。
血が家族を作ることもある。
けれど。
血だけが家族を作るわけではない。
◇
セレネは王妃としての権限を一時的に失った。
記憶干渉魔法についても調査されることになった。
エリアーヌはしばらく母に会わなかった。
嫌いだからではない。
好きだからこそ。
何を感じているのか、自分で考える時間が必要だった。
数週間後。
エリアーヌは市場を歩いていた。
今度は顔を隠していない。
人々が見る。
頭を下げる者もいる。
それでも以前ほど怖くない。
「遅いですよ、王女様」
パン屋の前。
ミナが腕を組んでいる。
「ごめんなさい」
「今日は新作あります」
店に入る。
三つのパン。
蜂蜜と木の実。
林檎。
チーズ。
「さて」
ミナが笑う。
「どれにします?」
エリアーヌは三つを見る。
以前なら。
『分かりません』
そう答えていた。
母ならどれを選ぶだろう。
身体にいいのはどれだろう。
王女らしいのはどれだろう。
そんなことを考えていた。
エリアーヌは林檎のパンを指さした。
「これにします」
「蜂蜜じゃなくて?」
「はい」
「どうして?」
エリアーヌは少し考える。
そして笑った。
「今日は、これが食べたいから」
「じゃあ、それにしましょう」
パンを受け取る。
小さな選択だった。
国を動かすわけでもない。
誰かの命を救うわけでもない。
歴史書に残ることもない。
けれど。
エリアーヌにとっては、自分の人生を取り戻すための大切な一歩だった。
「ミナ」
「はい?」
「明日は蜂蜜にするかもしれません」
「いいんじゃないですか?」
「明後日はチーズかも」
「好きにしてください」
エリアーヌは笑った。
「はい」
その言葉を。
今度は誰かに言われたからではなく。
自分で選んで口にした。
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