最後の言葉たち
「吉村さん、検温ですよ!」
女の看護士に呼ばれて、省吾は、ベッドに起き上がった。もう、そんな時間か、病院にいると、時間の感覚までおかしくなってくる。隣のベッドを見る。居ないようだ。もう、煙草でも吸いに行ったかな?そこへ、看護士の雪村がしゃなりしゃなりとやって来て、体温計で省吾の体温を測定する。体温計は、36.6度、別に異常はないようだ。それにしても、と省吾はサイドテーブルの置き時計を見る。午前7時10分過ぎだ。まだ、朝御飯まで、時間があるな、と思いつつ、合い部屋の病室を出る。病院の廊下は、広く長い。所々に、ポツンと寂しげに長椅子が置かれてある。もう、入院して、5カ月か。長いような短いような、よう分からん。
彼は、肺癌を患って、この総合県立病院に入院した。肺癌は、担当の山根医師によると、ステージ4だそうだ。専門的なことは、よく分からない。重症なのは、彼自身で自覚している。2か月前に外科手術もして貰った。左肺を摘出して、今は、抗がん薬治療だ。省吾にとっての悩みは、脱毛である。とにかく、髪の毛が抜けてくる。格好悪くて仕方ない。それで、急きょ、病院のコンビニで黒いニット帽を購入し、被っている。
医者は、最善を尽くすと言ってるが、本人の悩みなど関係ないだろう。辛いあたりだ。
廊下の長椅子に座っていると、斜め前の自販機が目に止まった。コーヒーでも飲むか?ポケットを探る。小銭入れがあった。中に300円あるようだ。飲むか?
黒い缶コーヒーを買う。ガチャンと自販機で落ちてきた。パカンとふたを開けて、ゴクゴクと喉ごしていく。うまい。目が覚めてくる。それにしても、と辺りを見回す。
すると、長くて暗い廊下の向こうから、人影が近づいてくる。誰だろう?
「おお、吉村、もう起きとったか?」
隣のベッドの笹岡さんだ。省吾は、年配ということと、彼に親しみを込めて、彼を、とっつあんと呼んでいる。
「うん、さっき起きたよ、今コーヒー飲んでたとこ」
「俺さ、さっき医者に呼ばれてさ、行ったら、あとどれくらいもつか分からんって言われたよ、正直、堪らんな、病院は?」
「同感、同感、僕もさ、自分で思うんだ、今までの人生を振り返ったりさ、あれこれと」
「でも、あんま、考え過ぎんなよ。人生、考えても一緒だから」
ふたりで仲良く長椅子に座る。笹岡さんは、もうこの病院に入院して長くなるという。彼は、大腸癌だ。患って、もう2年になるらしい。笹岡さん、いや、とっつあんには、今年39歳になる良子という娘さんがいる。もう結婚して子供も居るから、とっつあんの孫だ。
「お孫さん、何て名前でしたっけ?」
「琉唯とかいったな、中学3年生だよ。近頃の子は妙な名前だ。覚えにくくてかなわん」
「でも、可愛いでしょう、お孫さんですよ」
「あんなもの、おもちゃみたいなもんだ。俺にしたら、物足りんよ」
その時、ふたりの病室の扉が開いて、中から、看護士の雪村が顔を出して、
「笹岡さん、吉村さん、朝食ですよ、部屋に戻って下さい」
「はい、はい」
ふたりは、ベッドに戻った。朝御飯がプレートに乗せられている。とっつあんが、隣のベッドから省吾に囁いた。
「さっきの缶コーヒー、旨かったか?」
「どうですかね?」
朝食は、食パン2切れと苺ジャムと味噌汁とバナナ1本とヨーグルト
である。あまり腹は膨れそうにない。気は進まないが、喰わねば死ぬと思って食事を始めた。
「どうですか?身体の調子は?今朝はいかがです?」
「まあ、可もなく不可もなく、って具合ですかね?どうも」
「また運動で、廊下でも歩いて下さいね、散歩のつもりで」
「どうも」
とにかく雪村看護士は、運動しろと勧める。分かってはいるが、どうも面倒臭いのだ。堪らん。隣で、とっつあんがクスクス笑ってる。どうにでもしろ。
食事は、20分ほどで終わった。隣を見ると、とっつあんの朝食も完食している。元気なものだな。
また、とっつあんが、食後の一服に行こうという。彼によれば、食後の一服は、抗がん剤一袋に匹敵するらしい。本当かよ?
ふたりで並んでゾロゾロと合い部屋を出る。喫煙出来るのは、病院1階の隅の喫煙ルームだ。ここは、3階だから、とりあえず降りなければならない。省吾は肺癌で吸えないから、おつき合いということになる。廊下を急ぐ。とっつあんは、吸いたくて堪らないのだろう。廊下を行くと、何人かの看護士たちや、患者たちとすれ違う。皆、忙しそうに先を急いでいる。彼らを見送って、廊下を右に曲がり、突き当たりにあるエレベーターで、1階まで降りる。エレベーターに乗ると、とっつあんが、しみじみとした口調で、独り言のように呟くのを聴いた。
「俺なら、もう死なんて受け入れているんだがな........................」
それで、省吾が、
「まだ、諦めるには早いですって」
と、答えた。何か、とっつあんが寂しげに見えたからだ。
エレベーターが、1階に着く。出るや否や、もう、とっつあんは、パジャマのポケットから、煙草の準備をしている。よっぽど、吸いたいのだろう。聞く話によると、最近は、煙草の吸える病院も、めっきり減ったらしい。ここは、特別なのか?
喫煙ルームは、ガラス張りの個室になって、中は、空調が効いている。ふたりはが入ると、早速、とっつあんが、煙草のキャメルを吸う。何でも、今では、一番安い煙草の銘柄だそうだ。省吾は、もう大分前から禁煙しているから、分からない。そこで、省吾は、そばに設置した自販機でコーラを買いおつき合いする。
「しかし、それにしても」
と、とっつあんが言う。
「煙草の吸いにくい時代になったもんだ。俺が子供の頃なんか、会社でも、駅でも、灰皿が煙草で山積みだったよ、変わったものだ」
「へえー」
「そうだ、お前、知ってるか?俺の親父に聞いた話だが、戦時中はな、特攻隊ってあったろう?飛行機に乗って、敵の戦艦で自爆した若者達さ。あの連中な、最後に、飛行機に乗る前に、上官から、天皇陛下様からの賜物だって言われて、菊の御紋入りの煙草を一本吸って、搭乗したそうだ。死に土産だな。可哀想なものさ」
「そうなんですね?」
と、コーラの缶を飲みながら、省吾は感心して言った。
「最近、俺も死を意識しだしてな、これも癌のせいだろうが」
「ええ?」
「でも、まあ苦しんで死にたくはないな、誰だってそうだろうが?」
「僕もそうですよ、肺癌ですからね?死ぬのが恐いですよ」
「何、言ってんだ。お前、もう死んでるようなものだぜ、何が恐い?」
「ふーん、そうですか」
「生きるも一瞬、死ぬも一瞬さ、俺はそう思う」
そこで、煙草が終わった。もう、とっつあんは満足げな顔をして、戻るかと省吾に尋ねて、ふたりで病室に戻った。
病室のベッドに寝転がって、省吾が、イヤホンでミスチルの曲を聴いていると、カーテンが開いて、雪村看護士が、採血に来た。
「ごめんなさいね、チクッとしますよ」
いくつになっても、これは苦手だ。血がこぼれ出す不快感は、どうしても拭えない。雪村看護士は、4本のサンプルを採取すると、さっさと病室を後にした。
何だか、小腹が減ったな、コンビニでも行くか?
そう思って、省吾は、鍵のかけた引き出しから財布を出すと、病室を出る。そして、廊下を歩きながら、考えた。
実際、彼自身、死は徐々に近づいている。彼は、正直、死が恐ろしい。現実の死を受け入れるなんて、僕に出来るんだろうか?
とっつあんは受け入れていると言った。でも、どうして?
コンビニも、1階の玄関脇にある。まずは、エレベーターだ。乗って、1階の玄関に出る。
来院客で混雑しているようだ。歩きにくいのなんのって。子供達まで走り回って、まるで繁華街かショッピングセンターだ。
コンビニに辿り着く。
店の中まで混んでいる。人混みをかき分けて、省吾は、何とか書籍コーナーの前へと出た。何やら文庫本も置いてある。
ふと、ある一冊に目が止まる。
「死にゆく者への祈り」
とある。ふーん、と気になって、手に取る。著者はジャックヒギンズというらしい。英国の作家だ。バックページのあらすじを読んで、少し興味が湧いた。どうせ、入院生活だ。暇つぶしに読むか?
腹が減っていたから、ポテトチップスとメロンパンとミックスセーキを買う。以上、4点のお買い上げ。店を出るとき、入れ違いに、若いチャラチャラした女の子を見た。化粧も濃い。でも、何か、ああいう娘って、魅力的なんだよな。その時、さっき、とっつあんが言ってた言葉を思い出した。
「人間な、性欲捨てたら、生への執着は弱くなるものだ」
本当かよ?僕なら、食い気に走るだろうな、と思う。
病室に戻ったら、もうお昼になっていた。昼食を済ませて、いつも通り、きちんと服薬して、午後は、買ってきた文庫本を読む。
「死にゆく者への祈り」
読み進むにつれて面白くなってきた。何でも、テロリストの主人公が、とある誤解からスクールバスを誤爆してしまい、神父と盲目の娘の家に身を寄せるという発端だ。彼は、敵から命も狙われている。なかなかに興味深い展開である。そこまで読了して、一旦、本を閉じた。
「おお、読書とは感心だな。何を読んでるんだ?」
振り向くと、隣のベッドから、とっつあんが、ニヤニヤしてこちらを眺めている。
「死にゆく者への祈りです。なかなかのスリラーアクション小説ですよ」
「それなら、俺も以前に読んだことがある。イギリスも油断ならん国だな、しかし、お前は命を狙われているわけじゃない、安全なものだよな?」
「日本ですからね、それに僕はテロリストじゃないし」
「誰しも、罪を犯せば、罪悪感に悩むさ。そんな人生の嵐よりも、死の静寂のほうがマシさ」
そんなこんなで、その夜の夕食も終えて、またとっつあんが、煙草を吸いに行こうと言う。どうも、ひとりで吸うのは寂しいらしい。仕方なく、省吾はダラダラとついていった。
喫煙ルームで、省吾が、しけた顔をして缶コーヒーを飲んでいると、とっつあんが、興味深げに、
「お前の実家は、仏教か?」
と、尋ねてきた。
「ええ、浄土真宗ですが?」
「俺さ、昔、子供時代に仏教の説話集を読んだことがあってさ、その物語、聞くか?」
「どんな話です?」
「ある男がな、道に迷って人里離れた廃屋に泊まりこむんだ。すると、人食い鬼の集団が現れて、その男、喰われかけるんだ。ところが、急に場面が変わって、いつの間にか、その男は、山道を旅している。長い旅をな。どうだ、不思議な話だろう」
「なぜ、そうなったんです、その男?」
「さあ、でも、死ぬのもそんなもんかもしれんぞ。人生も夢みたいなものだからな、うたかたの夢さ。泡みたいなもんだ」
そう言って、とっつあんは、煙草のキャメルを灰皿の上で押し潰した。僕には言う言葉がなかった。
病室に戻ると、もう夜の8時を過ぎていた。寝よう。ベッドに入り、ウトウトとしていたが、なかなか寝つけない。それを見透かしたように、隣のベッドから、とっつあんが、
「眠れんか?ああん」
「ええ、少し」
「暗くなったら、眠くなる。死ぬのも、それと同じだ」
「本当に、死を達観しているんですね、尊敬しますよ」
「だって、お前が死ぬのをちゃんと確かめてから、身体は死んでいく。いわば、父親さ。それに、優しい永遠の墓場がお前を待ってる、母親みたいなもんさ、安心すればいい、恐くなんてないさ」
僕の心に、少しずつ変化があったような気がした。
その時、カーテンをサラッと開いて、とっつあんが顔を出し、満面でニコニコと笑って、
「それに、生きてたって、ロクなことはないからな?そうだろ?ウフフ」
と、カーテンをピシャリと閉じた。
僕は、とにかく眠ることが出来た。久しぶりの安眠のような気がした。いい気分だった...............。
それから、数日して、朝に目覚めると、隣のベッドは、空になっていた。雪村看護士に聞くと、笹岡さんは、朝に様子を見に来たらベッドで眠るようにして急死していたらしい。僕は、ショックを隠せなかった。そして、その場に、いたたまれなかった。
廊下に出て、長椅子で一服する。しばらく休息すると、冷静さが戻ってきた。でも、何だか物足りなさを感じてしょうがない。
そこで、とっつあんが省吾に残してくれた言葉を思い出す。いくつか思い出していると、何だか心が少し軽くなる。死って、それほど恐くないのかもしれない気もしてきた。死の間際に、とっつあんは、「もっと死を学べ」とも言ってた。どうせ僕も死ぬんなら、死の研究でもしたら、気が軽くなって、目標にもなるかもしれないな。
自販機で、缶コーヒーを買って飲む。頭が冴えてきた。それにやる気も湧いてきた気がする。具体的な目標って良いよな。
それにしても、と省吾は感慨するのだ。カーテン越しのとっつあんのニコニコ顔で、
「生きてたって、ロクなことはないからな?」
と言った笑顔が、省吾の印象に残る。かもしれない気もする。とにかく、人間、死ぬときは死ぬ。そんなものだ。だんだんと、気が軽くなってきた。
もう一度、自分を見つめ直してみるか?「面白い」。
「吉村さん、検温の時間ですよ?」
と、雪村看護士が顔を出して、声を掛けてきた。
「はいはい」
人生って、不思議なものだ。何があるか分からない。だからこそ、面白いのかもしれない。病室に戻りながら、そう省吾は考えるのであった.....................。




