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哲学のバトン  作者: ゆう
西洋編
6/16

ハイデッガー 〜ニーチェを愛し、殺し続けた男〜

ニーチェが天に投げたバトンの一本は、ニーチェがトリノで倒れた同年、


生まれたばかりの、未来の哲学者のもとに、静かに落ちた。




赤ん坊はまるで新しいおもちゃを得たように、笑いながら鋭い光を握りしめた。


鋭い切っ先が指を切る。

それでも彼は離そうとはしなかった。


彼の名は、マルティン・ハイデッガー。


血を滴らせながら、死ぬその瞬間までニーチェのバトンを握りしめ続けた男。



────────────────────────────



1929年、フライブルクの古書店。


埃と黴の匂いがする片隅に、一枚の紙が落ちていた。


表紙もなく、裏表紙もなく、ただ血の染みと煤けた文字だけが残る。

ハイデッガーはそれを拾い上げた。


それは、一人の男の遺書だった。


その遺書はこう結ばれていた。


1889年1月3日 トリノにて

ツァラトゥストラはかく語りき

──ニーチェが書けなかった最後の言葉が綴られていた。


彼は店を出ると、雪の降る街を走った。

アパートに飛び込み、暖炉に火を入れ、

震える手で一枚一枚、読み始めた。


血反吐の味がした。


だがそれ以上に、運命を感じた。


ニーチェはこの遺書を俺に読ませるために生きたのだ。


自分の喉の奥から、ニーチェの血が逆流してくるような気がした。


「俺はニーチェに選ばれた。これは俺にしかできない」


ハイデッガーは呟いた。


「俺が、ニーチェの求めていた超人になる」


それから七年。


彼は狂ったように書き続けた。

存在。

此在。

技術。

ゲシュテル。


新しい言葉で、ニーチェの叫びを保存しようとした。


筆が乗った。

自分自身にニーチェが宿ったのだと感じた。


そうだ。


ニーチェが俺の手を取ってこの文を書かせているんだ。


それが、ニーチェの炎を冷凍保存していることだとは全く気づかずに。

炎を氷に変えていることだとは思わずに。


ハイデッガーは、静かな森の小道で舞っていた。


彼のその姿は、ニーチェの言った、末人──


そのものであった。



────────────────────────────



1933年、フライブルク大学総長就任演説。


ハイデッガーは壇上で叫んだ。


自分にはニーチェが宿っていると信じていた。

そうだ、俺の手にはニーチェが渡してくれた光のバトンがある。


「総統は現在のドイツ的実存の唯一の可能性である!」


だが彼は気づかなかった。


握っているものが、

新しい、黒い、巨大な鉄の棒になっていたことに。


いつの間にか自分を握り返していることに。



────────────────────────────



1936年、講義室。


黒板に「ニーチェ 力への意志」と大きく書かれたその日、


ハイデッガーは突然胸を押さえて倒れた。



────────────────────────────



──夢を見た。


目の前に、ニーチェが立っていた。

1889年のままの姿で。


目は澄んでいて、狂気はない。

ただ、静かに微笑んでいる。


ハイデッガーは倒れながら、自分が何か鋭いものを握っていることに気がついた。


それは40年前、ニーチェが天に投げた、あの砕けたバトンの断片だった。


ハイデッガーは、そのバトンを今一度強く握りしめ、震える声で尋ねた。


「私はいつから間違っていたのですか」


声が掠れる。


「私は、あなたの──」


──後継者だ。


そう言い終える前に、ニーチェはハイデッガーが握っていたバトンを踏みつけた。


バトンの欠片が砕け散り、ハイデッガーの首を切り裂いた。


「いつから間違っていた? ──か」


まるで、優しく、まるで子供を諭すように言った。


「最初からだ」


その理由をニーチェは答えない。

ただ、背を向けて歩き始める。


トリノの街灯が遠ざかっていく。

ハイデッガーは必死に手を伸ばした。


灰が風に舞って、頬を打つ。

熱い。


でも、もう何も感じない。


最後に、ニーチェの声だけが、

静かに、確かに、響いた。


「早く俺を殺せ」



────────────────────────────



1945年、パリ。


大戦から解放されたばかりの街は、まだ硝煙と腐臭がする。


カフェ・ド・フロールのテラスに座って、震える手でシガレットを吸っている男がいた。


彼の名は、ジャン=ポール・サルトル。


彼のそばに、ニーチェのバトンの欠片が落ちた。


眼の奥にまだ捕虜収容所の風景がこびりついていたサルトルには、

そのバトンは光り輝いているように見えた。


それを握った瞬間──


悪魔が微笑んだ。

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