ハイデッガー 〜ニーチェを愛し、殺し続けた男〜
ニーチェが天に投げたバトンの一本は、ニーチェがトリノで倒れた同年、
生まれたばかりの、未来の哲学者のもとに、静かに落ちた。
赤ん坊はまるで新しいおもちゃを得たように、笑いながら鋭い光を握りしめた。
鋭い切っ先が指を切る。
それでも彼は離そうとはしなかった。
彼の名は、マルティン・ハイデッガー。
血を滴らせながら、死ぬその瞬間までニーチェのバトンを握りしめ続けた男。
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1929年、フライブルクの古書店。
埃と黴の匂いがする片隅に、一枚の紙が落ちていた。
表紙もなく、裏表紙もなく、ただ血の染みと煤けた文字だけが残る。
ハイデッガーはそれを拾い上げた。
それは、一人の男の遺書だった。
その遺書はこう結ばれていた。
1889年1月3日 トリノにて
ツァラトゥストラはかく語りき
──ニーチェが書けなかった最後の言葉が綴られていた。
彼は店を出ると、雪の降る街を走った。
アパートに飛び込み、暖炉に火を入れ、
震える手で一枚一枚、読み始めた。
血反吐の味がした。
だがそれ以上に、運命を感じた。
ニーチェはこの遺書を俺に読ませるために生きたのだ。
自分の喉の奥から、ニーチェの血が逆流してくるような気がした。
「俺はニーチェに選ばれた。これは俺にしかできない」
ハイデッガーは呟いた。
「俺が、ニーチェの求めていた超人になる」
それから七年。
彼は狂ったように書き続けた。
存在。
此在。
技術。
ゲシュテル。
新しい言葉で、ニーチェの叫びを保存しようとした。
筆が乗った。
自分自身にニーチェが宿ったのだと感じた。
そうだ。
ニーチェが俺の手を取ってこの文を書かせているんだ。
それが、ニーチェの炎を冷凍保存していることだとは全く気づかずに。
炎を氷に変えていることだとは思わずに。
ハイデッガーは、静かな森の小道で舞っていた。
彼のその姿は、ニーチェの言った、末人──
そのものであった。
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1933年、フライブルク大学総長就任演説。
ハイデッガーは壇上で叫んだ。
自分にはニーチェが宿っていると信じていた。
そうだ、俺の手にはニーチェが渡してくれた光のバトンがある。
「総統は現在のドイツ的実存の唯一の可能性である!」
だが彼は気づかなかった。
握っているものが、
新しい、黒い、巨大な鉄の棒になっていたことに。
いつの間にか自分を握り返していることに。
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1936年、講義室。
黒板に「ニーチェ 力への意志」と大きく書かれたその日、
ハイデッガーは突然胸を押さえて倒れた。
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──夢を見た。
目の前に、ニーチェが立っていた。
1889年のままの姿で。
目は澄んでいて、狂気はない。
ただ、静かに微笑んでいる。
ハイデッガーは倒れながら、自分が何か鋭いものを握っていることに気がついた。
それは40年前、ニーチェが天に投げた、あの砕けたバトンの断片だった。
ハイデッガーは、そのバトンを今一度強く握りしめ、震える声で尋ねた。
「私はいつから間違っていたのですか」
声が掠れる。
「私は、あなたの──」
──後継者だ。
そう言い終える前に、ニーチェはハイデッガーが握っていたバトンを踏みつけた。
バトンの欠片が砕け散り、ハイデッガーの首を切り裂いた。
「いつから間違っていた? ──か」
まるで、優しく、まるで子供を諭すように言った。
「最初からだ」
その理由をニーチェは答えない。
ただ、背を向けて歩き始める。
トリノの街灯が遠ざかっていく。
ハイデッガーは必死に手を伸ばした。
灰が風に舞って、頬を打つ。
熱い。
でも、もう何も感じない。
最後に、ニーチェの声だけが、
静かに、確かに、響いた。
「早く俺を殺せ」
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1945年、パリ。
大戦から解放されたばかりの街は、まだ硝煙と腐臭がする。
カフェ・ド・フロールのテラスに座って、震える手でシガレットを吸っている男がいた。
彼の名は、ジャン=ポール・サルトル。
彼のそばに、ニーチェのバトンの欠片が落ちた。
眼の奥にまだ捕虜収容所の風景がこびりついていたサルトルには、
そのバトンは光り輝いているように見えた。
それを握った瞬間──
悪魔が微笑んだ。




