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哲学のバトン  作者: ゆう
西洋編
5/16

ニーチェ ~神の墓碑を立てた者の遺書~

カントが凍らせた哲学の墓に、もう誰も祈りに来ない。


瓦礫は冷えきっていた。


この場所は2000年の哲人たちの終焉の地。




しかしただ一人。


まるで高熱に浮かされたように、割れそうな頭を抱えて、彼はよろよろと歩いてきた。


彼の名は、フリードリヒ・ニーチェ。


生まれつき体が弱く、頭が軋む音を立てるほどの頭痛に苦しみ続けてきた彼は、今まさに死にかけていた。


彼はかすれた視界の中、カントが閉じた棺桶を蹴り飛ばした。


蓋が開くと、中から何かが転がり落ちた。


それはかつて「神」と呼ばれたものと、

カントが砕いた哲学2000年のバトンの欠片だった。


──ああ。


ニーチェは、冷たくなったその瞼に、そっと指を這わせた。


そして……静かに閉じた。


コペルニクスが地を奪い、

ガリレオが天を奪い、

ダーウィンが血を奪い、

ヴォルテールが舌を奪った。

その最後の息の根を、


今、俺が止めた。

──俺たちが殺した。



神は死んだ。



────────────────────────────



これは私、フリードリヒ・ニーチェの遺書である──。


神が生きていた時代。

かつて、人はこう考えていた。


強いことは善い。

弱いことは悪い。

獅子は美しく、羊は醜い。


それが自然で、まっすぐな価値だった。



ところが、弱者どもが群れをなして叫んだ。


「暴力はいけない」

「憎しみはいけない」

「謙虚であれ、慈悲であれ」


彼らはまず、愛と純粋さをもって強く生きた一人の男を十字架にかけた。


その男の名は、


──イエス。


「自分を愛せよ」「敵を愛せよ」「抵抗するな」


そう言いながら、誰にも屈せず、誰も憎まず、十字架にかけられても呪わなかった。


イエスこそ、自分の意思に忠実で、誰にも支配されない生を生き抜いた強人だった。


しかし弱者ども──当時の司祭階級どもは、

愛と純粋さで生きた人類史上稀に見る強者──イエスを、

当時の権力という別の強者に殺させた。


自分の手は決して汚さずに。


そしてその「殺した行為」そのものを

「神の愛」「人類を救う犠牲」と言い換え、

イエスを殺した権力者たちに、


「お前たちこそが永遠の罪人だ」

と宣告した。


こうして、

「殺された強者」の名を借りて、

「殺させた強者」に罪を着せ、

自分たち弱者は「赦す側」に立った。


これが弱者の、人類史上最も狡猾で最も完璧な復讐だった。


こうして、価値観は永遠にひっくり返った。


強い者は憎まれ、弱さが美徳と呼ばれるようになった。


それは弱者のための世界だった。



しかし、弱者を守ってくれた神はもう死んだ。

──俺だって弱い。

孤独だ。

誰にも愛されない。

それでも毎朝、頭痛と嘔吐を押して原稿用紙に向かってきた。


なぜだ。


痛くても、愛されなくても、誰にも理解されなくても、

それでも『もっと強くなりたい』『もっと書きたい』『もっと生きたい』という、


この胸の奥で燃える小さな炎が、死にかけた今も消えない。

これこそが、人間が最後に残した唯一の本物の衝動だ。


その炎を自覚し、目を背けず、

ただひたすらに強さを目指して生きる者。

──超人。


神という絶対的な審判者が消えた今、超人は堕落しない。

自分自身で価値を作り、自分自身で肯定し、虚無の大地に自分で勝利を刻みつけて生きていく。


逆に、

「ただ穏やかに生きたい」

「健康で、長生きできればそれでいい」

「争いは嫌だ、眠れれば十分だ」

と、熱も欲も失い、ぬるく生きてぬるく死ぬ者たち。

──末人。


何も欲さず、何も生み出さず、ただ「幸せでした」と呟いて終わる、最も軽蔑すべき存在。


俺は、そうはなりたくないんだ。


なりたくなかったんだ。


だから殺した。


お前らの代わりに俺が殺してやった。

血反吐を吐いて、神を殺した。



──俺はもう死ぬ。


だから、誰か。


俺の代わりに超人になってくれ。


まっすぐに生きろ!


神にも、国家にも、道徳にも、誰にも強制されず、

自分で価値を決め、自分で実行し、自分で肯定して生きろ!


それ以外に、俺達が本当に満足して生きる道はない!


なぜなら。

神はもう死んだからだ。

古い価値はもう死んだからだ。


カントの言うように、お前たちの外に、正しいことなど最初から存在しなかった。


俺は神を殺し、墓標を立てた。


人類がよってたかって殺してきた神のとどめは、俺が刺した。


目を覚ませ。


神が死んだ世界だからこそ人間は舞える。

蛾のように醜くていい。

だから人間は美しい。



この先は自分で作れ。価値は作れるんだ。

人間は強い。


踊れ。


虚無の上で、血を吐きながらでも、笑いながらでも、踊り続けろ。


それが人間に残された、唯一の尊厳だ。


遠くへ行け。


俺たち人間は、神が死んだ世界で、まだ舞える。



1889年1月3日 トリノにて

ツァラトゥストラはかく語りき


────────────────────────────


ニーチェは砕けたバトンの欠片を握りしめた。

手に血が滲み、遺書に染み込んだ。


──いい拇印代わりになった。


そう言い、彼は遺書を投げ捨てた。


その代わりに、手に血が滲んだまま、カントが叩き割ったバトンの欠片をさらに強く握りしめた。


哲人たちが命をかけて繋いできたバトン。


その砕けた断片には、まだ光が残っている。


──頼む。


ニーチェは血の味を噛みしめながら、握りしめていたバトンの欠片を天に放り投げた。


ニーチェの投げたバトンは無数に砕け、鋭く光を放ちながら、遠く、天へと消え、


彼は倒れた。


血と涙と笑みを撒き散らして、彼が立てた神の墓標の下で。


1889年1月のことだった。



────────────────────────────



無数に分かれたバトンの一本は、そのわずか、8ヶ月後。


1889年9月26日。


生まれたばかりの、未来の哲学者のもとに、静かに落ちた。



赤ん坊は、まるで新しいおもちゃを得たように笑顔になった。


切っ先が赤ん坊の指を切る。


それでも赤ん坊は泣かずにその鋭い光を握りしめた。


カントが終わらせた哲学を、「もう一度、ゼロから」始めた男。


──マルティン・ハイデッガー。


その人だった。


ニーチェが付けた火種は、確かに燃え上がろうとしていた。


黒い煙を上げて。


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