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哲学のバトン  作者: ゆう
東洋編
16/16

エピローグ 〜2本の哲学のバトン〜

21世紀初頭。

──アパートの一室。



どこから入ったのか、蝶がいた。

モニターの冷たい光が顔を青く染める僕の足元に、ひらりと降り、そして、音もなく一本のバトンに変わった。


僕は左手で拾い上げた。


掌の上で、それは何の重さもなかった。


風が鳴った。

遠い、遠い空の底から、誰かが笑っている。


荘子だった。

朝日の輝きを瞳に宿したまま、いつものように、ただ笑っている。


「握ったか。きれいだろ。いい玩具だ」


僕は首を振った。


「いいや。慧能が命を賭け、栄西が海を渡り、道元が黙して血を吐き、親鸞が泥の中で握り潰してまで繋いできたバトンだ」


荘子の笑いが、一瞬だけ止まった。


風が止まった。


部屋の空気が、音を失った。



──その時、床に、小さな金属音がした。


ニーチェの投げた最後のバトンの欠片が、闇を裂いて落ちてきた。

鈍く、血の色に光った。


僕は右手で拾い上げた。


声がした。


ニーチェだった。

もう声とは呼べない、腐った喉の奥から絞り出されるような声だった。


「握ったな。お前が最後の一人だ。

さあ、血を吐いて踊れ。超人になれ」


僕は微笑み返し、左手に握られたもう一本のバトンを見せた。


「──奇遇だね。

ここに似たようなバトンがもう一本あるんだ。

これはね、東洋の風が運んできたバトン。

超人になれと言ったね。

超人なんて初めからない。

だから超人なんだ。」


ニーチェは一瞬訝しげに目を細め、

そして、ふっと微笑んだ。


「そうか。ありがとう。俺はここで、ついに死ねる。」


僕は荘子に向き直した。


「そしてこの西洋のバトンは教えてくれた。

醜さを愛せ。

人間は、蛾のように震えながら舞うから美しい」


荘子も一瞬訝しげに首を傾け、

次の瞬間、手を叩いて笑った。


「そうか。ありがとう。俺はまだ、死ねなくなった」



僕は2本のバトンを合わせた。


その音は遠く響き、あなたの耳へ、今、届いた。


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