荘子 〜戦場が見た蝶の夢〜
老子が姿を消して200年後。
春秋戦国時代。
天下はもう、ただの肉片だった。
秦は西から、趙は北から、斉は東から、楚は南から、七つの巨大な肉挽き器が同時に回り始めていた。
国境線は毎月塗り替えられ、昨日まで味方だった軍は今朝には敵で、昼にはもう屍の山だった。
人の首は通貨の代わりになった。
百個集めれば爵位、千個で領地、万個で王様。
戦場では首切り役人が算盤を弾きながら歩き、「今日はまた豊作だ」と笑った。
城は焼かれ、井戸には死体が詰められ、川は血で赤く染まり、その血の川を船で渡る兵たちは、
「次の戦で死ねるかどうか」が唯一の希望だった。
死ねなかった兵は、夜になると自分の首を自分で刎ねて、
「すまん、遅くなった」と仲間の屍の上に置いていった。
儒家は「礼を復興せよ」と叫びながら自分たちが一番先に逃げ、
墨家は「兼愛」を説きながら兵器を売り、
法家は「法治」を叫びながら民を家畜より下に扱った。
誰もが「俺の正義が正しい」と叫び、
誰もが「俺の道が唯一」と叫び、
叫びながら人を殺し、殺されながら叫び、叫び疲れて死んだら、次の奴が同じことを叫び始めた。
地獄という言葉すら生ぬるい。
ここはもう、人の形をした獣が人の形をした獣を食い散らかす、
──ただの巨大な胃袋だった。
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そんな、「もう哲学とか悟りとか、そんな優雅なもん吹き飛んだわ」という世紀末のど真ん中に、
一人の男が、のんびり歩いてた。
手に、老子が投げ捨てたはずの、まだ少し温かいバトンをくるくる回しながら。
彼の名は、荘子。
死体の山を足で崩し、笑いながら歩いていた。
突然、喉に剣を突きつけられた。
この地獄を一身に背負ったような刃だった。
刃が皮膚を裂き、血が一筋垂れる。
相手は低い声で訊いた。
「おい、生きていたいのか。死にたいのか。どっちだ」
風が、血の匂いも、遠くの叫び声も、すべての音を殺した。
荘子はゆっくりと顔を上げた。
傷口から零れる血が、首筋を伝って鎖骨に溜まり、ぽたりと地面に落ちる。
「──生か死か。究極の問いだな」
「なら死ね」
兵は剣に体重を乗せた。
荘子はにこっと笑った。
荘子は首をわずかに傾けて、自分から刃をさらに深く食い込ませた。
「こんな老いぼれを殺してどうする」
「意味なんてない。こんな地獄で、生きることに意味などないだろ」
「お前、生きる意味を探しているのか」
「違う。生きていることに意味などないと言っているんだ」
荘子は大声で笑い出した。
喉の奥から、まるで血の泡が弾けるような笑い声だった。
「同じだ。
意味がないと言うことは、意味があるということだ。
意味と無意味も、
価値と無価値も、
生と死も、
全部セットで成立してるのさ。
──例えば、塩化ナトリウムを知っているだろう」
兵が眉をひそめる。
この老いぼれ老人、何を言い出したのか、というような顔をした。
「塩は塩化ナトリウムって言うんだ。
これを水にぶちこむと、ぱっと見、塩は消える。
死んだ、って思うだろう?」
兵の目が「は?」とだけ動いた。
「でもな、よく見れば、塩は死んだんじゃない。
ただ、ナトリウムイオンと塩化物イオンに分裂して、水の中で自由に泳ぎ始めただけだ。
塩化ナトリウムにとっては死、でもイオンにとっては誕生だ」
荘子は血が滴る喉を鳴らして笑う。
「どっちが正しいってこともないし、どっちも正しい。
『塩化ナトリウムが死んだ』って言った瞬間、
『ナトリウムイオンが生まれた』ってことにもなってる。
だから、生と死は、別の視点では同じだ。」
──剣を持った兵は、目を白黒させた。
「何言ってやがる」
荘子は笑いながら続ける。
「塩は死んだように見えて、実は自由になってるってことさ。
生と死は同じなんだ。
そのそういや、昔、その塩を使って作った団子を猿にやったことがあるんだ。
『朝に3つ、夜に4つやるぞ』って言ったら、猿どもは大層怒りやがってな。
吠えて、牙を剥いて、まるで俺を殺す気だった」
兵の眉が跳ねた。
「で、どうしたかと言うと、
『じゃあ朝に4つ、夜に3つでいいな?』って言ったら、
同じ7つなのに、今度は手を叩いて大喜びしやがった」
「てめえ、ふざけてんのか!」
「ふざけてる?
いやいや、俺は超真面目に答えてるよ。
朝に4つ、夜に3つ。
おおもとが減るわけじゃないのに、人間は好き勝手に境界線を引いて、多い少ないとわめいてる。
生と死も同じだ。
今日死のうが、明日死のうが、それは境界線を引いて遊んでるだけなんだ」
兵の剣が小刻みに震える。
「……俺はただ、殺すか見逃すか訊いてるだけだ!」
「ここまで聞いて、まだ訊くか。
生きたいさ。
おかしいだろう。
こんなに老いぼれになっても、身体は生きたいと言っている。」
兵士はニヤリとした。
「ようやく正直になったな」
荘子はその顔を笑ってじっと見つめた。
「もっともだろう。
身体などあるから生きたいと思ってしまう。
それが苦しみなのさ。
そして、お前も今、意味を求めて苦しんでいる」
荘子は、初めて真っ直ぐ兵の目を見た。
兵が持つ剣が僅かに震えた。
荘子は、
──動かすな
と剣の刃を握った。
手から血が吹き出し、剣をつたった。
「……痛くないのか」
「痛いさ」
荘子は笑った。
「でもそれは、この身体が勝手に痛がってるだけだ。
『俺』に相談もせず、勝手に叫びやがる。
礼儀知らずだろ?」
荘子はさらに剣を握った。
「この剣で俺を殺せても、『俺』は殺せない」
兵士の顔から汗が一筋、血と混じって落ちた。
「意味が分からない」
荘子はふっと息を吐いて、持っていたバトンをぽんと放り投げ、くるくる回るバトンを指一本で受け止めた。
「すぐ意味を求める癖があるな。
『殺される俺』と『生きてる俺』、どっちが本当の俺だ?」
荘子は兵の顔を覗き込んだ。
血の臭いと一緒に、静かな笑みが流れる。
「今朝、死体の上で、蝶になる夢を見たんだ。
ふわふわ飛んで、花の蜜を吸ってた。
気持ち良かったぞ。
生まれたての娘の頬に止まったら声を出して笑ってた。
初めて笑ったと母親が喜んでいた」
兵の瞳が揺れた。
その眼をまっすぐ見て、荘子は優しく笑った。
「そんな、娘の頬に止まった蝶が俺が本当の俺で、
今ここにいる、殺されそうな俺が蝶が見ている夢かもしれない。
どっちも夢で、どっちでもないかもしれない。
本当は区別なんてつけられないのに、俺たちはつけようとしてる」
風が、ふっと二人の間を抜けた。
血の匂いを少しだけ、薄めて。
兵は剣を下ろした。
手が震えて、もう握っていられなかった。
「……俺の、娘も同じか」
「ああ、同じだ」
荘子はにっこり笑って、兵の肩を優しく、ぽんと叩いた。
兵の肩は大きく揺れた。
視界が歪む。
「俺の娘は、生後3時間で殺された。
昨日まで『俺達は仲間だ』と酒を飲んでいたやつに笑って殺された。
そんな人生に何の意味がある?
娘が生きた意味は?
俺が生きた意味は?」
兵士は剣を握ったまま、足元の地面を見つめた。
剣の影が震えていた。
荘子は笑いながら言った。
「今、この瞬間も、蝶がお前の娘の夢を見ている。
誰も蝶の夢を殺せはしない」
剣を握る手が、自分の手ではないみたいに震えていた。
剣が、がらんと音を立てて、地面に落ちた。
落ちた剣の先に荘子の血がぽたりと垂れた。
荘子は目を細くした。
「だから俺たちは、昼寝でもしよう。
死体が柔らかくて寝心地いいぞ」
兵士は膝から崩れた。
膝が地面にめり込む。
顔を上げて、空を見た。
荘子も同じ空を見上げて呟く。
「お前が今ここで剣をおろしたことで、
どこか遠くの知らない子供が、急にぱっと笑い出したかもしれない」
兵は顔を上げた。
頬を伝う熱いものが、涙だと気づくのに少し時間がかかった。
──俺に「泣く」という感情がまだあったのか。
荘子は相変わらず笑顔だった。
「俺が死ねば、どこかの誰かが急に生き返る。
俺が生きてれば、どこかの誰かが急に首を刎ねる。
そうやって、物事は全部繋がってるのさ。
お前と、娘も同じだ」
「……お前、本当に頭がおかしいな」
「ああ。
でもお前、今泣いてるだろ?
──ほら、どこか遠くで誰か笑った」
荘子は満足そうに頷いて、またバトンをくるくる回しながら歩き出した。
背後には、さっきまでの殺気はもうどこにもなかった。
ただ、初めて「生きてる」という感覚の中で、子供のように泣いている一人の男がいるだけだった。
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その夜、兵は死体の山の上で寝た。
本当に寝心地が良かった。
翌朝、彼はまだ生きていた。
軍旗はもう別の色に変わっていた。
味方だったはずの部隊が、今度は自分を敵と呼んでいた。
彼は腰の剣を抜いて、自分の首に軽く当ててみた。
少し血が滲んだ。
痛かった。
「俺に断りなく身体が痛がりやがる──か」
そう呟いて、剣を地面に突き刺して立ち上がった。
ふと、落ちていた書簡が目に入った。
昨日の変な男が落としたものだ。
折りたたまれた書簡。
開いてみた。
彼に文字は読めなかった。
ただ、墨の線が竹の上で蝶のように跳ね、舞い、風に揺れているように見えた。
彼はしゃがみ込み、書簡を抱きしめた。
「ここにいたのか」
泣きながら、久しぶりに彼は、笑った。
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──老子のバトンは、まだ温かい。
ヤージュニャヴァルキヤから始まり、ブッダが血反吐吐きながら、老子が挑発して捨てた、東洋哲学二千年分の重すぎるバトン。
人類が血と汗と涙で運んできた「究極の真理」。
そのすべて。
それは、老子が「これで終わり」と重く蓋をした箱を、軽く蹴っ飛ばして開け、中身を全部ぶちまけて、
「お、これ、いいじゃん」
と拾い上げたものだった。
次の受け手は、誰だっていい。
戦国が終わらない限り、この狂気のリレーは続く。
でも、たまにこうして、一瞬だけ、肉挽き器の歯車が空転する瞬間がある。
──それで十分だろ?
蝶か、人間か。
どっちでもいい。
夢の中で殺し合うのも、悪くない。
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──これは兵士には読めなかった、
だが風だけが読めた、荘周最後の文字である。
夜は静かだ。
血の匂いも月明かりに消える。
どれだけ笑っても、今夜のように、すうっと胸の奥が冷たくなる夜がある。
──俺はそろそろ寝たい。
だから、誰も。
誰も俺の代わりになんてなるな。
何も背負わなくていいから、
ただ一緒に寝よう。
道も、真理も、悟りも、なんにもない。
だから、
自分で何も決めなくていい。
自分で何も実行しなくていい。
自分で何も肯定しなくていい。
それ以上も以下もない。
なぜなら、
「俺」なんて最初からいなかったからだ。
「お前」なんて最初からいなかったからだ。
老子が言ったように、
道可道非常道。
名前をつけられるものは、もう本物じゃない。
俺は蝶となり、飛んでいく。
人類がよってたかって「真理」を負い続けてきたなんて笑い話だ。
夢の中でこそ、蝶は自由に飛べる。
この先は作らなくていい。
価値なんて最初からなかった。
「私」なんて、そもそもいなかった。
蝶のような雪片となり舞え。
屍の上で、血の匂いの中で、笑いながら、そのまま好きなように。
俺たちは自由だ。
舞ってもいい。
どこにも行かなくていい。
夢の中で、何ももたず、蝶でいていい。
本名を名乗るのにも、もう飽きた。
ただ──風が求めるなら、こう書いておこう。
いつの世とも分からぬ誰かの夢の中で
荘周
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彼は無数の蝶のような白い影となって、夜空に優しく光を放ちながら、遠く、天へと消えた。
ただ誰かと一緒に寝るために。
彼の笑い声だけが月夜に響いていた。
東へ。
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荘子の笑い声が消えた後も、彼が空転させた歯車の音は、千年もの時代を越えて響き続けていた。
黄梅山・東禅寺。
雪が降りしきる冬の朝、ぼろぼろの藁靴を履いた一人の木こりが寺の門を叩いた。
背中に薪を負い、手には霜がびっしり張りついている。
顔は煤と風で真っ黒だが、目には朝日の輝きがあった。
「文字の読み書きができないなら話にならんが、米つきの雑用ならさせてやる」
「ありがとう!朝4回、夜3回がんばるよ!」
文字は一文字も知らないのに、なぜか彼の声には遠い戦場で誰かが笑ったような響きがあった。
米つき場で米をつく雑用係として採用された男の名は、
──慧能。
彼の手の中には、光るバトンが握られていた。
東洋哲学を文字から解放し、禅として東洋哲学に海を越えさせた男。




