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哲学のバトン  作者: ゆう
東洋編
11/16

老子 〜やる気ゼロの最弱かつ最強のジジイ〜

──遠く、東の国。

古代中国、周の末期。


すべてが腐り、すべてが終わりを迎えようとしていた。


礼は形だけ、道徳は口だけ、戦争は毎年のように起き、人民は犬のように死んでいった。




そんな時代に、一人の老人がいた。

名を捨て、文字すら捨てた。


──老子。

そう弟子に呼ばれた男。


髪も髭も真っ白で、目はまるで死んだ魚みたいに濁っているくせに、時々、底なしの井戸みたいに深い光を宿した。


彼はもう何も欲さなかった。

だから彼は一人、国を捨て、国境を超えようとしていた。


荷物は小さな布一枚。

杖一本。


──そして、遠く西から運ばれてきた、ひんやりとしたバトンが握られていた。


老子は自身の哲学を残すつもりはなく、一つの書も作ってはいなかった。


だから彼が関所を越えれば、東洋哲学は永遠に失われる。


しかし彼は構わず歩みを進めた。



────────────────────────────



関所の吏、尹喜いんきという男がいた。

この男、星を読むのが得意で、ある夜、「東から来る紫色の気」を見て、聖人がこの地から西へ去ろうとしていたのを予期していた。


翌朝、ぼろぼろの爺さんがやってきた。

しかしその目には、確かに朝日の輝きが宿っていた。


一目でわかった。


こいつだ。



尹喜は土下座した。


「先生、どうかこの腐った世に、一筋の灯を残してください!


あなたの道を、書き残してください!

でなければ、人類は永遠に暗闇です!」



しかし老子は、


「知らん」


それだけ言って、歩き出そうとする。


尹喜は関所の門を閉めた。

兵を並べた。

本気で通さない。


「先生が書かなければ、私はここで死にます!」


老子はため息をついた。

まるで「しょうがねえガキだな」という顔で。


「そこまで言うなら、書いてやる」


そして三日三晩、筆を走らせた。

出来上がったのが、五千字。


ただの五千字。


表紙もない。

タイトルもない。

後に人々が勝手に『道徳道経』とか『老子』とか呼ぶようになったやつだ。


やる気は全くなかったので、一章目、冒頭一行目で、もう全部終わってる。



道可道、非常道。

名可名、非常名。

「言葉にできる道は、本物の道じゃねえ。

名付けられるモノは、本物のモノじゃねえ。」


つまり、


今から語る俺の言葉を信じる奴はバカだ。

俺の言葉を理解した気になった奴もバカだ。

でもな、

この五千字を読んで『わかった!』って胸を張る奴が一番バカだ。


そう冒頭から宣言したのだ。


老子はブッダと違って、遠回しにしなかった。

ブッダは教育者だったから、弟子が自分で気づくまで、わざと核心をぼかした。


しかし老子は「わかる奴だけわかればいい」と、核心をド直球でぶちこんだ。


お前が今「悟り」とか「私」とか「真理」とか言葉にした瞬間、もうズレてる。

「それ」なんだ。

言葉にした瞬間、「それ」ではなくなる「それ」。

言葉にして、ズレたまま満足するな。

ズレたまま死ぬな。


最後に老子は、こう締めた。


「最強になる方法?

何もしないで、ただ流れに任せ、

ただ水のように低きに流れて、

ただ赤ん坊のように無垢でいろ。


以上。


これが最強だ。

そして、これを読んでまだ最強があると思う奴は最弱だ」



書き終えると、老子は筆を投げ捨てた。


尹喜が「先生!もう少し!」と叫ぶのも聞かず、水牛にまたがった。


振り返りもせず旅立った。



西へ。



(終)



────────────────────────────




──いや、西へ一歩だけ足を踏み出し、

立ち止まり、

そしてただ一言、風に乗せて呟いた。


「しょうがねえな」


ゆっくりと首を振って、水牛の頭を東へ向けた。


──ただし。


彼は手の中のバトンを道に投げ捨てた。

「握れるものなら拾ってみろ」


風が止んだ。


もう誰も追いかけなかった。

追いかけたくても、足が動かなかった。


歩いているのは水牛ではなく、道そのものだったからだ。



東へ。



────────────────────────────



──200年後。

春秋戦国時代。


七つの巨大な肉挽き器が同時に回っていた。

国境線は毎月塗り替えられ、昨日まで味方だった軍は今朝には敵で、昼にはもう屍の山だった。


そんな地獄の中心で、一人の男が、のんびり歩いてた。


老子が道に投げ捨てたはずのバトンをくるくると回しながら。


ヤージュニャヴァルキヤから始まり、ブッダが血反吐吐きながら、老子が挑発して捨てた、東洋哲学二千年分の重すぎるバトン。


人類が血と汗と涙で運んできた「究極の真理」。

そのすべてを、まるでおもちゃのように弄んでいた。


それは、老子が「これで終わり」と重く蓋をした箱を、軽く蹴っ飛ばして開け、中身を全部ぶちまけて、


「お、これ、いいじゃん」

と拾い上げた男。


彼の名は──荘子。


自由奔放、天衣無縫。


老子の哲学を、「わざと言葉にして」、笑いながら遊んでいた。


老子一代で終わるはずだった哲学を、蝶のように舞い、笑いながらぶち壊し、


それでも全部受け継いでしまった史上最凶の天才。

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