ブッダ 〜「うまい」の一言で全てを破壊した男〜
ヤージュニャヴァルキヤからおよそ350年後。
当時のインドは、彼の教えを読み違えた人たちで溢れていた。
「苦行こそが解脱への唯一の道だ」
そう信じ込む者が雪崩を打って増殖し、どれだけ地獄みたいな苦しみに耐えられるかで悟りのパーセンテージが測れると本気で思われていた。
「俺はもう哲学は極めた。
ウパニシャッドの深淵も覗き込んだ。
しかし、ヤージュニャヴァルキヤが指した“あれ”に、本当に辿り着けたのか?」
それを証明する唯一の方法は、どんな拷問レベルの苦行にも、顔色一つ変えず、むしろ至福の笑みを浮かべてられるかどうか。
こうしてインド全土で、苦行バトルロイヤルが開催されていた。
日に当たらず、
食わず、
寝ず、
立ったまま、
腕を上げたまま、
火のそばで焼かれながら、
氷の上で震えながら。
苦しければ苦しいほど偉い。
痛みがデカければデカいほど、本物の悟りに近い。
みんなが本気でそう信じていた。
痛みを勲章にして、
苦しみをステータスにして、
誰もが「俺が最もヤージュニャヴァルキヤに近い」と証明しようとしていた。
そんな狂気の時代だった。
そんなそんな狂気の坩堝に、現れたのが──
肋骨が浮き、目が窪み、立つことすら奇跡のような痩せ細った男。
一国の王子という身分を捨た。
黄金の宮殿も、象も、女たちも、全部捨てた。
6年間、息の根が止まるほどの苦行を続けた彼は、その骨ばった手には、350年前にヤージュニャヴァルキヤが放ったバトンが、まだ熱を持って握られていた。
男の名は、ゴータマ・シッダールタ。
──インド全土で「最強の苦行者」は誰か?と聞けば、誰もが同じ名前を挙げた。
ゴータマ・シッダールタ。
一日一粒の豆で生き、息を止めて気を失い、肋骨が皮膚を突き破りそうなほど痩せ細っても、なお微動だにしないその姿は、もはや人間の形をしていたかどうかも怪しかった。
五人の最強苦行者たちは、彼を「俺たちの頂点」と呼び、
「こいつがヤージュニャヴァルキヤのバトンに一番近い」と信じて疑わなかった。
誰もが思った。
「この男は必ず解脱する。そして俺たちもその後を追える」
そんな苦行界のレジェンドが、ふらふらと歩いてきた。
骨が浮いた手には、ヤージュニャヴァルキヤの熱いバトンが握られていた。
ある初夏の夜明け前、満月が西の空に沈もうとていた。
しかし窪んだ彼の目には太陽の輝きがあった。
彼は木の下にドカッと座ると、乳粥をすすった。
「うまい」
たった一言で、6年間の地獄が全部茶番になった。
そばにいた五人の修行仲間は、目を見開いたまま固まった。
それはそうだろう。
彼たちにとっては、その日常の普通の一言こそ恐怖だった。
昨日まで「餓鬼道の王」だった男が、普通に椀を持って、普通に「うまい」と言った。
それは、地獄の王が突然、
「実は天国楽しそうだから行くわ」
と言い出したような、ありえない背信行為だった。
「裏切り者」
「堕落した」
「もうお前は終わりだ」
五人は吐き捨てて去っていった。
だがシッダールタは、
ただ静かに、次のひと口をすくった。
──それは当時のインド全土が信じて疑わなかった「苦しみこそ尊い」という価値観への、たった一人での宣戦布告だった。
シッダールタは、静かに笑った。
深い、深い笑みだった。
そして彼は座り直し、静かに目を閉じた。
そのとき、声が降ってきた。
「お前は何者だ?」
闇が、ニヤリと歯を剥いた。
この質問は毒だ。
答えれば、
「俺は言葉で定義できる何かだ」と自分で認めることになる。
自我を再び立て直すことになる。
永遠に逃れられない檻に戻ることになる。
生かし、殺す、最後の罠。
だがシッダールタは、ゆっくりと目を開け、人差し指を地面に下ろした。
指先で、土に触れた。一本の線が自然に描かれる。
「これが大地だ。俺はここに座ってる。それだけだ」
──その瞬間、東の空が割れた。
燃えるような朝日が、世界を一瞬で金色に染め上げる。
彼が座っていた木は、後に「菩提樹」と呼ばれ、
彼自身も「仏陀(目覚めた人)」と呼ばれることになる。
だが、そんな名前はどうだっていい。
35歳の男は、この木の下で、ただの「それ」になった。
「私」ではなく、
「王子」でもなく、
「苦行者」でもなく、
「アートマン」でもなく、
「悟った者」でもなく、
ただ、
ここに在る、
という、
ただそれだけになった。
名前も、
肩書も、
王子の血筋も、
6年間の苦行で稼いだ勲章も、
「悟った」という事実すら、
全部、ゴミ箱に放り投げられた。
残ったのは、言葉にしようとした瞬間に、もう「それ」ではなくなる、
ただの「それ」。
ヤージュニャヴァルキヤは350年前、「私とは何か」を問い、
「これでもない」「これでもない」と刃を振るい続け、最後に残った”見ている者”──認識するもの──を、「これが本当の私だ」と掲げた。
だがシッダールタは、その最後の砦すら、容赦なく突き抜け、破壊した。
「私などない」
それは「見ている者」すら、ただの幻だということ。
彼は立ち上がった。
35歳の、ただの男が、ただ歩き出す。
「お前は、本当は誰でもない。
だから、誰にもなれる。
だから、誰にも縛られない。」
その言葉を握りしめて、
東へ。
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──遠く、東の国。
古代中国、周の末期。
すべてが腐り、すべてが終わりを迎えようとしていた。
一人の老人がいた。
名を捨て、文字すら捨てた。
彼は一人、衰えた国を見限り国境を超えようとしていた。
──老子。
そう弟子に呼ばれた男。
彼の手には、遠く西から運ばれてきた、ひんやりとしたバトンが握られていた。
彼が関所を越えれば、東洋哲学は永遠に失われる。
しかし彼は構わず歩みを進めた。




