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哲学のバトン  作者: ゆう
東洋編
10/16

ブッダ 〜「うまい」の一言で全てを破壊した男〜

ヤージュニャヴァルキヤからおよそ350年後。


当時のインドは、彼の教えを読み違えた人たちで溢れていた。



「苦行こそが解脱への唯一の道だ」


そう信じ込む者が雪崩を打って増殖し、どれだけ地獄みたいな苦しみに耐えられるかで悟りのパーセンテージが測れると本気で思われていた。


「俺はもう哲学は極めた。

ウパニシャッドの深淵も覗き込んだ。

しかし、ヤージュニャヴァルキヤが指した“あれ”に、本当に辿り着けたのか?」


それを証明する唯一の方法は、どんな拷問レベルの苦行にも、顔色一つ変えず、むしろ至福の笑みを浮かべてられるかどうか。


こうしてインド全土で、苦行バトルロイヤルが開催されていた。


日に当たらず、

食わず、

寝ず、

立ったまま、

腕を上げたまま、

火のそばで焼かれながら、

氷の上で震えながら。


苦しければ苦しいほど偉い。

痛みがデカければデカいほど、本物の悟りに近い。

みんなが本気でそう信じていた。


痛みを勲章にして、

苦しみをステータスにして、

誰もが「俺が最もヤージュニャヴァルキヤに近い」と証明しようとしていた。


そんな狂気の時代だった。


そんなそんな狂気の坩堝に、現れたのが──


肋骨が浮き、目が窪み、立つことすら奇跡のような痩せ細った男。

一国の王子という身分を捨た。

黄金の宮殿も、象も、女たちも、全部捨てた。


6年間、息の根が止まるほどの苦行を続けた彼は、その骨ばった手には、350年前にヤージュニャヴァルキヤが放ったバトンが、まだ熱を持って握られていた。


男の名は、ゴータマ・シッダールタ。


──インド全土で「最強の苦行者」は誰か?と聞けば、誰もが同じ名前を挙げた。


ゴータマ・シッダールタ。


一日一粒の豆で生き、息を止めて気を失い、肋骨が皮膚を突き破りそうなほど痩せ細っても、なお微動だにしないその姿は、もはや人間の形をしていたかどうかも怪しかった。


五人の最強苦行者たちは、彼を「俺たちの頂点」と呼び、


「こいつがヤージュニャヴァルキヤのバトンに一番近い」と信じて疑わなかった。


誰もが思った。


「この男は必ず解脱する。そして俺たちもその後を追える」



そんな苦行界のレジェンドが、ふらふらと歩いてきた。

骨が浮いた手には、ヤージュニャヴァルキヤの熱いバトンが握られていた。


ある初夏の夜明け前、満月が西の空に沈もうとていた。

しかし窪んだ彼の目には太陽の輝きがあった。


彼は木の下にドカッと座ると、乳粥をすすった。


「うまい」


たった一言で、6年間の地獄が全部茶番になった。


そばにいた五人の修行仲間は、目を見開いたまま固まった。


それはそうだろう。

彼たちにとっては、その日常の普通の一言こそ恐怖だった。


昨日まで「餓鬼道の王」だった男が、普通に椀を持って、普通に「うまい」と言った。


それは、地獄の王が突然、


「実は天国楽しそうだから行くわ」


と言い出したような、ありえない背信行為だった。


「裏切り者」

「堕落した」

「もうお前は終わりだ」


五人は吐き捨てて去っていった。


だがシッダールタは、

ただ静かに、次のひと口をすくった。


──それは当時のインド全土が信じて疑わなかった「苦しみこそ尊い」という価値観への、たった一人での宣戦布告だった。


シッダールタは、静かに笑った。


深い、深い笑みだった。


そして彼は座り直し、静かに目を閉じた。


そのとき、声が降ってきた。


「お前は何者だ?」


闇が、ニヤリと歯を剥いた。


この質問は毒だ。


答えれば、

「俺は言葉で定義できる何かだ」と自分で認めることになる。

自我を再び立て直すことになる。

永遠に逃れられない檻に戻ることになる。


生かし、殺す、最後の罠。


だがシッダールタは、ゆっくりと目を開け、人差し指を地面に下ろした。

指先で、土に触れた。一本の線が自然に描かれる。


「これが大地だ。俺はここに座ってる。それだけだ」


──その瞬間、東の空が割れた。

燃えるような朝日が、世界を一瞬で金色に染め上げる。


彼が座っていた木は、後に「菩提樹」と呼ばれ、

彼自身も「仏陀(目覚めた人)」と呼ばれることになる。


だが、そんな名前はどうだっていい。


35歳の男は、この木の下で、ただの「それ」になった。


「私」ではなく、

「王子」でもなく、

「苦行者」でもなく、

「アートマン」でもなく、

「悟った者」でもなく、

ただ、


ここに在る、


という、

ただそれだけになった。



名前も、

肩書も、

王子の血筋も、

6年間の苦行で稼いだ勲章も、

「悟った」という事実すら、


全部、ゴミ箱に放り投げられた。


残ったのは、言葉にしようとした瞬間に、もう「それ」ではなくなる、

ただの「それ」。


ヤージュニャヴァルキヤは350年前、「私とは何か」を問い、

「これでもない」「これでもない」と刃を振るい続け、最後に残った”見ている者”──認識するもの──を、「これが本当の私だ」と掲げた。


だがシッダールタは、その最後の砦すら、容赦なく突き抜け、破壊した。

「私などない」


それは「見ている者」すら、ただの幻だということ。



彼は立ち上がった。

35歳の、ただの男が、ただ歩き出す。


「お前は、本当は誰でもない。

だから、誰にもなれる。

だから、誰にも縛られない。」


その言葉を握りしめて、


東へ。



────────────────────────────



──遠く、東の国。

古代中国、周の末期。

すべてが腐り、すべてが終わりを迎えようとしていた。


一人の老人がいた。


名を捨て、文字すら捨てた。


彼は一人、衰えた国を見限り国境を超えようとしていた。


──老子。

そう弟子に呼ばれた男。


彼の手には、遠く西から運ばれてきた、ひんやりとしたバトンが握られていた。


彼が関所を越えれば、東洋哲学は永遠に失われる。



しかし彼は構わず歩みを進めた。


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