深夜の廊下と、灯りに揺れる影
深夜の屋敷の廊下は、昼間の賑わいを忘れさせるほど静かだった。
オーク材の床は月光に照らされ、淡く銀色に光る。壁に掛けられた肖像画の瞳が、まるで生きているかのように暗闇で光を反射する。
その静けさの中に、微かに足音が響く。
長く滑らかな歩幅で、影がそっと揺れていた。
レアは廊下の陰に立ち、手袋をした手を軽く組み、静かに息を整える。
彼女の目は、淡い光の揺らぎの中から微かな異変を察知していた。
書斎の気配、庭の月光、そして遠くで寝静まる屋敷の住人たち──
すべてを胸に刻み込みながら、レアは影のように動く。
「……誰もいないはずなのに。」
レアは小さく呟く。
その声は自分の心にだけ届くように、極限まで静かだった。
夜の廊下は、昼間の温かみとは異なり、冷たく、深く、そして柔らかな陰影に包まれている。
その陰影の中に、今夜もまた、何者かの存在が潜んでいることを、彼女は感じ取った。
灯りに照らされた廊下の端、窓際に揺れる影。
それは風で揺れるカーテンのせいかもしれない。しかし、レアの感覚は、それが単なる風ではないことを告げていた。
柔らかく揺れる影の奥に、確かに“意志”のようなものが宿っている。
(……忍び寄る者か、それともただの気配か。)
その時、廊下の向こうから微かな足音が重なった。
音は規則正しく、しかし人間の歩幅とは少し異なる。
それは確かに、誰かが廊下を横切っている証拠だった。
レアは足を止め、呼吸を整え、影の動きに意識を集中する。
「お嬢様……。」
その声をかけるか否か、一瞬迷う。
主を巻き込む前に正体を確かめるべきか、ただ影を見守るべきか。
迷いはほんのわずかだったが、レアにとっては重要な判断だ。
しかし、廊下の向こうで影は止まり、すぐに消えるように見えなくなった。
まるで、こちらの動きを試すかのように。
「……ふむ。」
レアは静かに息をつき、影が消えた方向へ目を向ける。
その先には、暖炉の炎で照らされた書斎の扉が微かに揺れていた。
書斎の中では、リリアーナがまだ本を読んでいる。
深夜にも関わらず、瞳は瑞々しく、静かにページを追っていた。
「お嬢様、ただいまの足音は……?」
リリアーナは顔を上げ、静かに尋ねる。
その声には、好奇心と少しの驚きが混ざっていた。
夜の静けさの中で響く小さな声が、廊下の空気を優しく震わせる。
「……なんでもございません、お嬢様。」
レアは微笑みを浮かべ、柔らかく答える。
声の柔らかさで、主に不安を感じさせないようにする。
それが、メイドとしてのささやかな技であり、守るべき日常の秩序でもあった。
リリアーナは再び本に目を落とす。
ページをめくる音だけが、深夜の書斎と廊下に静かに響く。
そしてレアは、月光に照らされた床に影を落とし、静かに息を整える。
廊下の影は、まだ潜んでいる。
しかし、リリアーナのそばに立つレアの存在は、微かな危険すらも和らげる。
夜の屋敷は、静かに、しかし確実に守られていた。
「レア、どうしたの?」
リリアーナがふと顔を上げる。
深夜の静けさに溶け込むその声は、いつもと変わらず柔らかい。
「……なんでもございません、お嬢様。」
レアは微笑み、そっと頭を下げる。
廊下に漂う月光は、影を銀色に染め、夜の屋敷に優雅な静寂をもたらした。
その静けさの中で、影は息を潜め、次の動きを静かに待っている。




