微笑の裏
城の朝は、夜霧に包まれた暗闇とは違い、柔らかな光でゆっくりと目覚める。
長い石の廊下に差し込む朝日が、冷たい石壁をほんのり暖かく染める。
だが、その温もりは主である若き伯爵には届かない。書斎の窓際に座り、封筒や書類の束を前に、静かに眉を寄せている。
まだ若く、整った顔立ちは柔らかな朝の光に照らされても冷静さを失わず、孤独と責務の重みを背負ったまま。
「伯爵様、おはようございます」
犬面のメイド、レアが廊下の奥から静かに現れる。
深紅と黒のゴスロリ風メイド服は、夜の戦いの余韻を残しながらも優雅に揺れる。
フリルの裾、レースの縁が光を受け、微かに赤く染まる。
顔は完全に犬で、耳と瞳が彼女の微細な感情を表していた。
表向きは控えめで従順なメイド。
声の柔らかさ、膝を折る所作、指先の動き――どれも完璧に計算されている。
しかし、その瞳の奥では冷徹さと警戒心が鋭く光る。
昨夜、影に潜んで刺客を排除した戦いの記憶が、まだ心の奥で震えていた。
伯爵はレアの微笑みに気づく。
何か違和感を覚えつつも、理由はわからない。
ただ、なぜか心が落ち着くような気もしていた。
彼女の表情は、普段と変わらず、微かな温かみを帯びている。
「昨夜は……よく眠れましたか?」
主の問いに、レアは微かに首をかしげ、耳を動かす。犬面だからこそ、微妙な感情は瞳と耳の動きに透けるが、声には表れない。
表向きの笑みは従順で柔らかい。
「ええ、問題ありません」
微かに尻尾が振れるような仕草が、ほんの一瞬、犬面に現れる。
人間にはわからないほどの微細な動きだが、主の心には、なぜか不思議な安心感が残る。
その後、城の廊下や庭園を歩きながら、二人は表面的な会話を交わす。
庭園の黒薔薇は朝日を浴びて深紅に輝き、露が葉や花弁にきらめく。
霧の残る石畳には、水滴が反射して小さな光の群れを作る。
レアは主に近づきながら、視線の端で庭園の影を警戒する。
昨夜の戦いで、刺客の痕跡は消えたが、陰謀の影はまだ城の外に潜んでいる。
犬面の鼻が、空気のわずかな変化を察知する。
微かな鉄の匂い、湿った革の匂い、遠くで踏まれた土の香り――すべてが彼女に次の危険の兆しを告げる。
「伯爵様、今日もお出かけのご予定でしょうか?」
声は柔らかく、笑みを添える。
しかし耳は微妙に傾き、背筋は静かに緊張している。誰にも気づかれることなく、影の守護者としての顔を備えたまま、主を見守るのだ。
黒薔薇の庭に、朝の光と霧が入り混じり、まるで時間がゆっくりと溶けるように漂う。
レアは静かに歩き、心の奥で誓う――主を、城を、影から脅かす者すべてから守ると。
日常の微笑みの裏に潜む忠誠と冷徹さ。
犬面メイドは今日も、表の世界と影の世界を同時に生きながら、静かに主を守り続ける。
廊下の石の冷たさ、黒薔薇の香り、朝霧に溶ける光――すべてが彼女の存在を際立たせる。
そして、微笑の裏で、影は再び城に忍び寄る――レアの戦いは、まだ始まったばかりなのだ。




