庭の微風、囁く気配
朝の庭園は、日差しを受けた花々が揺れ、露に濡れた葉がきらきらと輝いていた。風が静かに吹き抜け、花の香りを運び、鳥のさえずりが朝の空気に溶け込む。
リリアーナは庭園をゆっくり歩きながら、昨日の書斎での穏やかな時間を思い返していた。羽根ペンで文字を綴る手の感触や、インクの匂い、紙の質感――あの時の落ち着きが、朝の光に包まれて再び呼び覚まされる。
「おはようございます、お嬢様。」
レアの犬面の声が、庭園の静寂に柔らかく響く。瞳は周囲を鋭く見渡し、花々の間に潜む小さな動きさえ見逃さない。
「おはよう、レア。今日も綺麗ね、庭園。」
「はい、お嬢様。風が強い箇所もございますので、転倒なさらぬようご注意ください。」
レアの声には冷静さと、ほんのわずかな緊張感が混ざる。犬面の表情は変わらないが、瞳の光が微かに鋭くなったように見えた。
庭の奥ではルイーザが花の手入れをしている。小さな花籠を抱え、淡い色の花を丁寧に並べる所作は、まるで庭全体の美を守る儀式のようだ。
アルフォンスは銀のトレーを片手に、水差しや道具を整え、優雅で落ち着いた空気を庭全体に広げる。カトリーヌとエリスも、香炉や掃除道具を携えて庭の片隅を整えていた。
リリアーナはふと立ち止まり、微かな違和感を感じる。空気の揺れ、風の音、鳥のさえずりの微妙な変化――普段なら感じない小さな異変が、庭のどこかから漂ってくる。
「……何かしら、この風。」
リリアーナは微かに眉を寄せ、周囲を見渡す。花々は揺れ、鳥たちは飛び立たずに枝に止まっている。しかし、庭の奥にある茂みの影が、わずかに揺れた。
レアの犬面の瞳もその影を捉え、身体を少しだけ緊張させる。
「お嬢様、茂みの奥に……」
「……誰もいないわね?」
リリアーナは微笑むように言うが、瞳の奥には小さな不安が滲む。犬面のレアは微かに鼻を鳴らし、影の存在を確かめるように静かに動く。
庭の奥で、黒い影が微かに揺れる。ノアの影だ。まだ攻撃はせず、ただ存在を知らせるかのように静かに潜む。その動きは、風に紛れてリリアーナには気づかれない。
だが犬面の守護者の視線は逃さず、背筋をぴんと伸ばし、微かな気配に備える。
リリアーナは再び歩き出し、庭の花に手を触れる。露の冷たさが指先に伝わり、香りと光が心を落ち着かせる。
「やっぱり、この庭は心が落ち着くわ。」
「はい、お嬢様。日常は確かに守られています。」
レアの声には安堵と警戒が混ざり、犬面の瞳が微かに光を反射する。
日差しは高く昇り、庭園は黄金色の光に包まれる。鳥のさえずりが再び活発になり、花々は風に揺れ、朝の時間がゆったりと過ぎていく。
しかし、庭の奥に潜む影――微かに揺れる黒い気配――は、静かな日常に微妙な緊張を忍ばせる。
リリアーナは庭の花々に微笑みかけ、レアと共にゆっくり歩く。日常は優雅で穏やかだが、影は確かにそこにある。犬面の守護者がいる限り、館の穏やかさは守られる。しかし、読者には、微かな影が日常の裏に潜むことがしっかり伝わるのだ。




