影の気配
夜の帳が城を包み込む中、微かな気配が廊下の端から忍び寄っていた。
霧が石造りの塔の影をぼやかし、蝋燭の炎が揺れる度に壁の陰が長く伸びる。
黒薔薇の香りは甘く、かすかに金属の冷たさが混じる。
夜の城は静かだが、誰もが息をひそめているかのような緊張感を纏っていた。
犬面のメイド、レアはその廊下を音もなく進む。
黒と深紅のゴスロリ服は光を受けて赤く映え、フリルやレースが揺れるたびに、微かに蝋燭の光を反射する。
耳がぴくりと動き、鼻先がかすかに震える。
彼女の感覚は、人間の目には見えないものすべてを捕らえる。
空気の微妙な揺れ、遠くで擦れる石の音、濡れた花弁の匂い――それらが刺客の接近を知らせた。
「……来る」
口元に微かな声が漏れる。
犬面のため、表情は読み取りにくいが、瞳の奥に鋭い光が宿っている。
身体の筋肉は一瞬にして戦闘態勢へと切り替わる。扇子を手に取り、袖を整えながら、石畳を静かに踏む。
廊下の向こうで、影が揺れた。
黒い外套に包まれた人物が、冷たい刃を振りかざす。レアの耳が微かに動き、鼻先がその存在を告げた。
人間なら見落とすほどの速度で、影を追い、距離を詰める。
動きは舞踏のように滑らかだ。
扇子で刃先を逸らし、短剣で相手の攻撃を封じる。フリルの裾が揺れ、レースの縁が光を受けて赤く染まる。
闇と光、黒薔薇の影と戦う姿が溶け合い、静かで美しい戦いの絵が生まれる。
敵の刃は夜霧に吸い込まれるように止められ、反撃は一瞬で制圧される。
倒れた刺客は息を止め、影となって廊下に溶ける。レアは静かに立ち上がり、呼吸を整える。
「……異常なし」
声は穏やかで、普段通りのメイドの口調だ。
だがその瞳の奥には、微かな警戒と冷徹さが潜む。主に何も知られることなく、忠誠を果たした瞬間だった。
廊下の向こうで若き伯爵は、書斎の窓際で書類に目を落としている。
何も気づかないその姿に、レアは微かに視線を送る。犬面であるがゆえに微妙に耳や瞳が動き、忠誠心を確かめる。
主の安全を守ることが、彼女の存在理由なのだ。
夜霧が城を覆い、黒薔薇の庭園が幽かな光に照らされる。
レアは静かに廊下を進み、戦いの痕跡を消す。誰も知らない夜の守護者として、影の中で任務を果たす犬面メイド――その姿は冷たく、しかし美しい。
静寂が戻ると、再び廊下には蝋燭の揺らめきと霧の香りだけが残った。
レアは主のそばに戻り、表向きの微笑みを浮かべる。
「お茶の用意をいたしましょうか?」
声は柔らかく、忠実なメイドそのもの。
だが瞳の奥で、影の世界は決して終わらないことを知っている――。
夜はまだ深く、城には霧と影が絡み続ける。
黒薔薇の庭園を歩きながら、犬面メイドは今日も、静かに、しかし確実に主を守り続ける。




