薔薇の香り、訪れの朝
夜明け前の城は、まだ夢の余韻をまとっていた。
曇り硝子越しに差し込む薄紅の光が、
レアの磨いた銀食器にかすかな輝きを落とす。
燭台の炎がひとつ、ふたつと揺れ、
朝がこの館に戻ってくる気配を告げていた。
「お嬢様、朝でございます」
犬の面影を残す声は低く穏やか。
レアは軽く尾を振るように背筋を伸ばし、
寝台の脇に膝をついた。
純白のカーテンを引くと、淡い光が室内を洗う。
「……おはよう、レア」
まだ夢の中にいるようなご令嬢の声。
彼女の髪は月光のように白く、
その柔らかさに触れるたび、レアの胸に小さな温もりが灯った。
「お召し替えのお手伝いをいたしますね」
レアは滑らかな手つきで髪を梳き、
選び抜かれたリボンを結ぶ。
薔薇の香りの香水をひとしずく。
令嬢は鏡越しに微笑み、
「今日の香り、好き」と呟く。
「本日はお客様がいらっしゃいます」
「……お客様?」
「はい。お嬢様の、婚約者様にございます」
一瞬、鏡の中の令嬢の瞳が揺れた。
その揺れを、レアは見逃さない。
だが、何も言わない。
彼女はあくまで、主の影に徹する。
⸻
午後、城の庭に馬車の音が響いた。
レアは玄関ホールで控え、
訪問者を出迎える使用人たちの後ろに立つ。
漆黒の外套を纏った青年が現れた。
整った顔立ちに冷ややかな気品を漂わせ、
彼の後ろに、ひとりの男が続いた。
それは、闇のように静かな男だった。
黒髪をきっちり撫でつけ、瞳は灰色。
その男――ノアと呼ばれた執事は、
ただ一度だけ視線を上げ、レアを見た。
音もなく、ただ目が合う。
時間が一瞬止まるような感覚。
レアの耳がぴくりと動く。
……氷のような静けさ。
すぐに男は頭を下げた。
礼儀正しく、何の乱れもなく。
だがその一礼の奥に、得体の知れない“影”が蠢いた。
「ご機嫌麗しゅうございます、ヴィクトル様」
令嬢が微笑み、青年は優雅に手を取る。
「久しいですね、リリアーナ。お変わりなく」
穏やかに交わされる挨拶。
しかしレアの目は、常にその背後――ノアを見ていた。
黒手袋に包まれた指先。
まるで“人の温度”を拒むように。
彼が廊下の隅を通るたび、燭台の火がわずかに揺れる。
⸻
日が沈む頃、レアはご令嬢の部屋の前に控えていた。
客人たちはすでに帰り、静寂が戻っていた。
扉の向こうから、リリアーナの声がした。
「……レア、今日の彼、少し……変じゃなかった?」
「お疲れだったのかもしれません」
「そう……かしら」
短い沈黙。
それから、柔らかい声が続いた。
「ねぇ、レア。
あなたがいてくれて、わたし……安心するの」
レアは一瞬だけ、まぶたを伏せた。
胸の奥で、犬のような小さな誓いが鳴る。
「恐れ多いお言葉です、お嬢様」
カーテンの隙間から、夜風が吹き抜ける。
遠くで犬が一声吠えた。
その瞬間、廊下の燭台の影がゆらりと歪んだ。
……その影の中に、誰かの“笑み”があった。
⸻
夜が深まる。
レアは静かに窓辺に立ち、月を見上げた。
その瞳は犬のように澄み、
しかし奥底に、微かな牙の光を宿している。
「お嬢様……守り抜いてみせます」
月明かりが、その横顔を銀に染めた。




