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黒薔薇の牙 ―忠義を纏うメイド―  作者: 櫻木サヱ
霧に潜む影

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17/17

薔薇の香り、訪れの朝


夜明け前の城は、まだ夢の余韻をまとっていた。

曇り硝子越しに差し込む薄紅の光が、

レアの磨いた銀食器にかすかな輝きを落とす。

燭台の炎がひとつ、ふたつと揺れ、

朝がこの館に戻ってくる気配を告げていた。


「お嬢様、朝でございます」


犬の面影を残す声は低く穏やか。

レアは軽く尾を振るように背筋を伸ばし、

寝台の脇に膝をついた。

純白のカーテンを引くと、淡い光が室内を洗う。


「……おはよう、レア」


まだ夢の中にいるようなご令嬢の声。

彼女の髪は月光のように白く、

その柔らかさに触れるたび、レアの胸に小さな温もりが灯った。


「お召し替えのお手伝いをいたしますね」


レアは滑らかな手つきで髪を梳き、

選び抜かれたリボンを結ぶ。

薔薇の香りの香水をひとしずく。

令嬢は鏡越しに微笑み、

「今日の香り、好き」と呟く。


「本日はお客様がいらっしゃいます」

「……お客様?」

「はい。お嬢様の、婚約者様にございます」


一瞬、鏡の中の令嬢の瞳が揺れた。

その揺れを、レアは見逃さない。

だが、何も言わない。

彼女はあくまで、主の影に徹する。



午後、城の庭に馬車の音が響いた。

レアは玄関ホールで控え、

訪問者を出迎える使用人たちの後ろに立つ。


漆黒の外套を纏った青年が現れた。

整った顔立ちに冷ややかな気品を漂わせ、

彼の後ろに、ひとりの男が続いた。


それは、闇のように静かな男だった。

黒髪をきっちり撫でつけ、瞳は灰色。

その男――ノアと呼ばれた執事は、

ただ一度だけ視線を上げ、レアを見た。


音もなく、ただ目が合う。

時間が一瞬止まるような感覚。

レアの耳がぴくりと動く。

……氷のような静けさ。


すぐに男は頭を下げた。

礼儀正しく、何の乱れもなく。

だがその一礼の奥に、得体の知れない“影”が蠢いた。


「ご機嫌麗しゅうございます、ヴィクトル様」

令嬢が微笑み、青年は優雅に手を取る。

「久しいですね、リリアーナ。お変わりなく」

穏やかに交わされる挨拶。

しかしレアの目は、常にその背後――ノアを見ていた。


黒手袋に包まれた指先。

まるで“人の温度”を拒むように。

彼が廊下の隅を通るたび、燭台の火がわずかに揺れる。



日が沈む頃、レアはご令嬢の部屋の前に控えていた。

客人たちはすでに帰り、静寂が戻っていた。

扉の向こうから、リリアーナの声がした。


「……レア、今日の彼、少し……変じゃなかった?」

「お疲れだったのかもしれません」

「そう……かしら」


短い沈黙。

それから、柔らかい声が続いた。


「ねぇ、レア。

あなたがいてくれて、わたし……安心するの」


レアは一瞬だけ、まぶたを伏せた。

胸の奥で、犬のような小さな誓いが鳴る。


「恐れ多いお言葉です、お嬢様」


カーテンの隙間から、夜風が吹き抜ける。

遠くで犬が一声吠えた。

その瞬間、廊下の燭台の影がゆらりと歪んだ。


……その影の中に、誰かの“笑み”があった。



夜が深まる。

レアは静かに窓辺に立ち、月を見上げた。

その瞳は犬のように澄み、

しかし奥底に、微かな牙の光を宿している。


「お嬢様……守り抜いてみせます」


月明かりが、その横顔を銀に染めた。


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