09.する気がないって、どういうことですか?
まだ少し眠気を残した朝。
鏡越しに映る自分の表情を見つめながら、エマに身支度を手伝ってもらっていた。
「お嬢様、今日のお召し物はどうなさいますか?」
開かれたクローゼットには、色とりどりのドレス。
けれど今手元に残っているのは、落ち着いた色味のものが中心だ。
「淡い色のドレスは、すべてクリーニングに出しておりまして……」
「あー……そっか、そうだよね」
エマの言葉に、私は頷いた。
――最近は、シルヴァンが好みそうな、明るいけれど控えめな色の服を選ぶことが多かった。
王都にいた頃は、威厳を求められ、どうしても重厚なデザインばかり揃えていた。
けど、この屋敷ではそんな威圧感も必要ない。
むしろ、柔らかな色味の方が、あの静かな雰囲気に馴染む気がするし、
そもそも私はこういう色の方がずっと好きだった。
(……いっそ、濃色ドレスは思い切って処分して、新しいの買い足そうかな)
そんなことを考えながら視線を流していると、
一着、淡いミント色のドレスが目に留まった。
「これは?」
「……お背中が大きく開いたデザインですが……よろしいのですか?」
背中――その一言で、思い出す。
シェリーの背には、大きな火傷の痕がある。
幼い頃、皇太子と共に誘拐されるという事件があった。
自爆を図った犯人の爆発から、皇太子を庇ったときに負った傷だ。
その後、彼女はその背中を誰にも見せずに生きてきた。
貴族社会では“傷”は醜聞に等しい。
特に女性にとっては致命的な欠点とされた。
(……そうだ)
シェリーの記憶をたどりながら、私はもう一つ思い出す。
“今の私”が、皇太子を嫌いで嫌いでならない大きな理由。
(あの男は、この火傷を“醜い”と言ったんだった)
シェリーは彼を救った。
そしてその結果、背中を焼かれた。
それでも皇太子は、その痕を見た瞬間――一言、
『なんて醜いんだ』
そう言った。
思い出した瞬間、胸の奥が冷たくなる。
あの夜、鏡を叩き割り、泣いたシェリーの記憶。
それでも――彼女は皇太子を慕い続けた。
傷物になってしまったことを、自分の罪のように背負いながら。
真面目すぎて、潔癖で、優しすぎる女性。
それが“物語の中のシェリー・エルフォード”だった。
あの夜、鏡を割って泣いた自分は、たしかにシェリーだったけれど――
今思い返すと、まるで別の誰かの記憶を眺めているようで、不思議なほど冷静だ。
私は、もう彼女じゃない。
転生者としての記憶を取り戻した私は、その理不尽にどうしても納得がいかない。
(命を救ってもらっておいて、よくそんな酷いことが言えるわ)
(好きな人を守るために負った傷が、どうして醜いのよ)
傷は恥じゃない。
あれは、シェリーの愛の形だ。勲章だ。
私はそっと、ミントグリーンのドレスを手に取った。
「今日はこれを着るわ」
エマが目を瞬く。
「ですが……お背中が――」
「いいの。火傷が見えても構わない」
エマの目が驚きに揺れる。
私は小さく笑って続けた。
「シルヴァン様にも、いつかは知られること。
結婚してから知るより、今のうちに見ておいてもらった方がいいでしょ」
おそらく、彼はこの火傷のことを噂で知っているだろう。
シェリーの火傷の話は有名だ。
けれど、どんな傷なのかまでは知らないはず。
皇太子以外、誰にも見せてこなかったのだから。
私は髪を指先で梳いた。
「髪を下ろしているし、少し見えるくらいよ。問題ないわ」
「……お嬢様がそうおっしゃるなら」
エマはまだ心配そうに眉を下げていたが、私は笑って見せた。
◇ ◇ ◇
午後の昼下がり。
今日もシルヴァンの仕事を手伝うために、私は執務室へ向かっていた。
いつもと同じ時間。いつもと同じ扉の前。
けれど――手を伸ばしかけた瞬間、中から声が聞こえた。
「旦那様、そろそろシェリー様にも、本当のことをお話しされてもよろしいのではございませんか?」
アダンの声。
自分の名前が出てきて、思わず動きが止まった。
(本当のこと……?)
聞くつもりはなかった。
でも、体は勝手にドアへと寄り、息を潜めていた。
「いや……彼女には、話さない」
「何故ですか」
「……このまま接していれば、きっと彼女は耐えられなくなる。王都に帰るだろう」
「それで……よろしいのですか?」
「……ああ」
一瞬、肺の奥がすっと冷える。
(……耐えられなくなって、帰る……? えっ、どういうこと……?)
アダンの声が少しだけ強くなる。
「旦那様。……旦那様にも、支えになってくださる方は必要です」
「お前たちが居る。私は、それで十分だ」
少しの沈黙。
「……――私は、彼女と結婚する気はない」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。
言葉の意味がすぐに理解できない。
けれど、心のどこかで、その響きだけは痛いほど突き刺さった。
(結婚する気が、ない……?)
その時だった。
扉が、静かに開いた。
ラベンダーを生けた花瓶を手に、アダンが立っていた。
驚いたように、私を見る。
「シ、シェリー様……」
「お、おはようございます、アダンさん。……お花を飾りに?」
できる限り、平静を装って笑う。
唇が引きつるのを、どうにか誤魔化しながら。
「いえ……旦那様に、お届けものを……」
「そ、そうですか――私は、ちょうど今、お仕事を手伝いに来たところでして」
ちょうど今、なんてわざとらしすぎただろうか。
演技めいた笑顔のまま、ゆっくりと扉の内へ足を踏み入れた。
執務室の空気は、静かで、いつもと変わらないように見えた。
けれど、自分の中でだけ、何かがわずかに音を立ててひび割れていた。




