08.あんな阿保、比べるまでもございません。
執務室の扉を軽く叩くと、中から「入れ」と短い声が返った。
相変わらず、低くて落ち着いた声。
「失礼いたします、シルヴァン様」
「……貴方か。何か用か」
机の上には書類の山が積まれている。
シルヴァンは眉間に皺を寄せながら、一枚ずつ丁寧に目を通していた。
私は胸の前で両手を組み、意を決して言葉を口にした。
「あのっ! お、お仕事を手伝わせていただけませんか? こうして何もせず過ごすのは、どうにも落ち着かなくて……」
ペンを握る手が止まった。
彼が静かにこちらを見やる。赤い瞳が、わずかに驚きの色を帯びた。
「仕事を?」
「はい。王都では、皇太子妃教育を受けておりましたから。書簡の整理や文書の分類くらいなら、お役に立てるかと思います」
一拍の沈黙。
しばらく考えたあと、シルヴァンはため息をひとつついた。
「……書類の整理くらいなら、頼もう」
「ありがとうございます!」
机の端に積まれた未分類の書類を手に取り、内容を確認する。
報告書、命令書、請願書――それぞれを素早く分け、順に並べていく。
王都でやっていた実務と、ほとんど変わらない。
「……驚いた」
ふいに、シルヴァンが呟いた。
顔を上げると、彼は素早く仕分けされた書類の山を見て、きらきらと目を輝かせていた。
思わず笑みがこぼれる。
「皇太子妃教育は、礼儀作法だけじゃないんですよ。政治文書の扱いも一通り学びますから」
「……なるほど」
赤い瞳が、ふと私の手元に落ちる。
ペンを走らせる指先を見つめながら、彼がぽつりと呟いた。
「仕事ができるのに……なぜ」
「……あー、婚約破棄のことですか?」
苦笑いを浮かべながら答える。
「相手があまりにも横暴で、傲慢で、我儘で、救いようのないほど頭の湧いたうぬぼれ野郎だったので、愛想が尽きまして」
「え」
「あ」
いけない。ついうっかり。一切オブラートに包まれない直球が飛び出してしまった。
はっとしてシルヴァンを見る。驚いている。
「……殿下は、そんなに酷い人なのか」
「はい」
「え」
「あ」
……いけない! ついうっかり即答してしまった!
どれだけあの阿呆を嫌っているんだ私は。
(やばい……完全に引かれた……)
冷や汗が背筋を伝う。
せっかく少しずつ距離が縮まってきたと思っていたのに。
どうしよう。空気が重い。完全にやらかした。
沈黙の中で、カタ、と、ペンが置かれる音がした。
シルヴァンが小さく息を吸い、ゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳が、まっすぐこちらを向く。
「……私は」
「え?」
「私は……その、幾分かは……マシだろうか」
少し視線を逸らしながら、硬い声でそう言う。
まるで、自分でも何を言っているのかわからないとでも言いたげな表情だった。
その仕草に、胸がきゅっと鳴った。
「マシどころか! 比べものにならないほど素敵です!!!」
「――っ」
シルヴァンの目が驚きに見開かれる。
……またやらかした。全力で叫んでしまった。
慌てて口を押さえ、気まずそうに書類で顔を隠す。
沈黙。
しばらくして、恐る恐る書類を下げて彼を見る。
シルヴァンはペンを握ったまま、うつむいて固まっていた。
その頬はかすかに赤が差し、耳の先まで染まっている。
「……うるさい。仕事の邪魔だ」
かすかな独り言。
聞こえなかったふりをして、私は頬を押さえた。
(はい! 本日も1ツン、いただきました!!)
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その日を境に、私は本格的にシルヴァンの執務を手伝うようになった。
最初は書類の整理だけだったのが、日を追うごとに報告書のまとめ、文書の清書、返信の代筆――と、少しずつ仕事が増えていった。
シルヴァンは最初こそ遠慮していたものの、いつの間にか、書類の半分が私の机の上に積まれるようになった。
それでも、彼は感謝の言葉ひとつ口にしない。
「おそい」(早い)
「見づらい」(やかりやすい)
「余計なことをするな」(ありがとう)
もはや、逆さ言葉で彼の本音が理解できるようになっていた。
慣れってすごい。聞き流しってちゃんとリスニング力つくんですね。
ツンデレリスニング検定たるものが存在するとしたら、1級程度は楽に取得できる自信がある。
(なんかもう、わかりすぎて素直な子に思えてきたな……)
なんて、この時の私は完全に余裕ぶっていた。
けれど、そんな油断を見透かしたかのように――ちょっとした事件が起きたのだった。




