03.悪魔様、お初にお目にかかります。
王都を離れて、もう三日。
馬車の窓の外は、森と山と空――ただそれだけ。まるで景色のリピート再生。
「……景色、変わらなさすぎじゃない?」
ため息をつくと、向かいの席のメイド――エマが苦笑した。
「辺境ですもの、お嬢様。森しかございません」
「森しかないにも限度ってものがあるでしょ。せめて牛とか旅人とか……」
「魔物なら、出るそうです」
「それは出なくていい」
やり取りのたびに、車輪がごとんと跳ねた。
腰が痛い。もう文明のある場所に帰りたい。でも、帰る場所なんてもうない。
(……国境の悪魔、か)
シルヴァン・グランヴェール。
戦場で百人を斬ったとも、夜な夜な亡霊に取り憑かれているとも噂される、国境を護る辺境伯。
小説の中では一度だけ名前が出てきたけれど、見た目の説明もなければセリフもなかった。
(……そんなモブキャラに嫁ぐことになるなんて……大丈夫なのかな……)
「お嬢様、緊張されてますか?」
「してるに決まってるでしょ……悪魔とご対面だなんて人生初よ」
「噂と違って、お優しい方かもしれませんよ」
「……だったらいいけどね」
その瞬間、窓の外を黒い影がよぎった。
森が切れ、古びた石の門が見える。灰色の空の下に、尖った屋根と塔。
――あれが、悪魔が住む屋敷。
私は深く息を吸い、背筋を伸ばした。
やがて車輪が止まり、外から馬のいななきと鎧のきしむ音が聞こえた。
扉が開くと、冷たい風が頬を撫でる。辺境の空気だ。
屋敷の前には黒服の使用人たちが整然と並んでいた。
皆、同じ仕草で一斉に頭を下げた。
「長旅でお疲れのことと存じます。グランヴェール伯爵家へようこそお越しくださいました、シェリー・エルフォード様」
先頭に立つ白髪の執事が、落ち着いた声で告げる。
悪魔の屋敷の使用人とは思えない、丁寧で落ち着いた響きだった。
「旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」
促され、石造りの玄関をくぐる。
――そして、私は目を瞬いた。
(あれ? ……普通、だ)
壁は白く、陽光が降り注ぎ、床は磨き抜かれている。絨毯は王都のどの屋敷より厚く、壁には紫の花の刺繍のタペストリー。血の跡どころか、埃ひとつ見当たらない。
(ぜんぜんホラーな雰囲気じゃない……むしろ、うちの屋敷よりも綺麗かも?)
歩きながら隣のエマが小声でつぶやく。
「お嬢様……とても素敵なお屋敷ですね」
「う、うん」
そのとき、案内していた執事が足を止めた。
廊下の突き当たりに、重厚な扉がある。
「こちらでございます。旦那様がお待ちです」
ノックの音が響く。
「旦那様、シェリー・エルフォード様をお連れいたしました」
短い沈黙のあと――低く落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
扉が開く。
部屋の奥には、ひとりの男が立っていた。
いよいよ悪魔とご対面。そう思っていた私は――息を呑んだ。
「……ようこそ、我が屋敷へ」
(…………………………あれ?)
黒髪に、血のような赤い瞳。
背は高く、鍛えられた体をしているのに、どこか線の細さを感じる。
獣じみた荒々しさはなく、静かな佇まい。
(お、おもってたのと違う!! しかも美形……!)
予想していた悪魔の姿とは程遠い。
無表情だけど、顔立ちは驚くほど整っていて、冷たさよりもどこか陰を感じさせた。
一瞬、見惚れていた私に、男がわずかに眉を寄せた。
いけない、沈黙しすぎた。はっとして口を開く。
「お初にお目にかかります、シェリー・エルフォードと申します」
慌てて頭を下げると、彼は短く頷いた。
「……王都からの道は、悪路だっただろう」
思っていたよりずっと穏やかな言葉に、少しだけ力が抜ける。
「ええ、少し揺れましたけれど……無事に辿り着けてほっとしておりますわ」
丁寧に微笑むと、彼はほんの一瞬だけ目を細めた。
「そうか」
その言葉には、硬さと共に、どこか安堵の色が混ざっていた。
彼は続けて何か言いかけて、口を閉じる。赤い瞳をわずかに伏せた。
「? ……なにか?」
「いや……」
小さく首を傾げると、彼は小さく息をつき、視線を外した。
それから、控えていた使用人に向かって言う。
「令嬢を部屋に案内しろ」
低く静かな声。それだけ言って、彼は背を向けた。
――なるほど、無口なのは噂通り。
けれど、あの阿保皇太子に比べたら可愛いものだ。
嫌味もなければ、意味不明なマウントもない。しかも顔がいい。
屋敷も綺麗で使用人も丁寧と来た。
(これは……意外と、やっていけるかも?)
そう思うと、胸の奥で小さく笑いがこぼれた。




