25.大丈夫、わかってますよ。
ソナを見送ったあと、私たちはそのまま屋敷へ戻った。
シルヴァンの背を追って静かな廊下を歩きながら、私は思考の海に潜った。
(……ソナの感が当たったとしたら、ヴォルガの侵攻が早まることになる)
原作小説の時間軸からずれているのか。
それともまだ正しい流れを辿っているのか。……判断が難しい。
あの小説の視点は、常にきらびやかな皇宮の中。
レデナンとプリシアの恋模様に固定されていた。
皇宮の外で起きている泥臭い軍事衝突や、辺境の細かな情勢については、
物語を盛り上げるための、書き割りの背景程度にしか描写されていなかったのだ。
断片的なキーワードは思い出せる。
けれど、その点と点を繋ぐための「いつ・どこで」という情報が、あまりに致命的に欠落していた。
胸の奥に、言葉にならないざわめきが残る。
執務室に入るなり、窓際で羽音がした。
伝書鳩だ。
止まり木にとまった小さな影から、シルヴァンが手早く筒を外し、書状を広げる。
読み進めるにつれ、その表情がわずかに引き締まっていくのが分かった。
「……前線の守備隊からだ。ソナの言う通り、不審な動きが出始めているらしい」
低く呟き、書状を畳む。
「騎士団だけでなく、防衛隊にも、警戒を回しておく必要があるな……」
朝食の時に見た明るい表情のシルヴァンとは別の顔だった。
領主としての顔だ。
私は一歩近づき、躊躇いながらも口を開く。
「……呪いがある状態で、指揮は取れるのですか?」
言葉を選んだつもりだったけれど、それでも本音の心配だった。
シルヴァンは、私を見ると小さく息を吐き、いったん視線を外した。
「直属騎士の団長は、頼もしい男だ。彼には随分、助けられている。
人を使うことは、基本的に彼に任せていて……私はその分、剣を振う」
命のやり取りをする場で、シルヴァンの呪いが、どれほどの枷になるか。
それを思えば、その役割分担が、決して軽い選択ではないことは分かる。
領主という立場にありながら、前線に立つ。
それは責任感であり、同時に負い目でもあるのだろう。
(戦いになれば。シルヴァンはきっと、誰よりも危険な場所に身を置く)
そう思った瞬間、胸の奥が、すっと冷えた。
「でも、戦場では感情論より理詰めで話すことが多いせいか……
比較的、言葉が呪いの影響を受けにくい」
私の表情に気づいたのか、
シルヴァンは、こちらを宥めるような声音で続ける。
「それでも、重要な局面で言葉が裏返っては困る。だから、筆談も併用しているし――」
そう言って、彼は自分の手元を示した。
「いくつか、ハンドサインも決めてある」
「ハンドサイン?」
「人差し指と中指を重ねて胸に添えれば、それは『呪い(逆さ)』だ。
逆に、拳を胸に当てれば、今の言葉は『本音』だ。という念押しのサインになる」
「……なるほど」
工夫の一つ一つが、
彼がどれほど慎重に、この立場と向き合ってきたかを物語っていた。
「……私はこれから、騎士団の本営へ向かう。
夕刻までには戻るつもりだ。戻り次第、情報は共有する」
そう告げてから、シルヴァンは部屋の入口に立ったままの私の方へ歩み寄り、
ふと、顔を覗き込んだ。
「……顔色が悪い。無理はするな。しっかり休んで」
その声に、私は背筋を正す。
「大丈夫です」
短く答え、微笑んでみせた。
けれど、彼の目はまだ納得していない。
私は、拳を作って胸に添える。
『本音です』
一瞬、シルヴァンが目を見開く。
次いで、少しだけ眉をひそめ、そのまま私の手を取った。
ぎゅっと、自分の手で覆われる。
「……サインを、間違えてる」
そう言って、彼は私の拳をほどき、
人差し指と中指を立てさせ、そっと胸元へと導いた。
意味が、『本音』から――『逆さだ』へと、すり替わる。
「……自惚れだったら申し訳ないが」
シルヴァンは、わずかに息を吸ってから、静かに続ける。
「私は、シェリーの気持ちには……それなりに、敏感に反応できていると思っている」
シルヴァンの視線が、私の手元からゆっくりと持ち上がり、
そのまま目が合った。
「君には、本音を口にしてほしい。……気を使わなくていい」
そう言って、私の頬に手を当てる。
距離が、近い。
「シェリー……」
至近距離で見つめられて、心臓が、跳ねる音がした。
少しだけ、恥ずかしそうなシルヴァンの顔が――
ゆっくりと、近づいてくる。
(えっ……待って……)
息をするのも、忘れそうになる。
空気が、ふっと柔らいだ。
――その瞬間。
「……大嫌いだ」
ぽろり、と。
あまりにも自然に落ちたその言葉に、二人そろって、固まった。
「…………」
「…………」
堪えきれず、私は吹き出した。
「……ふ、ふふ……っ」
シルヴァンは耳まで真っ赤になり、完全に視線を迷子にしている。
「い、今のは……っ」
「あはは、大丈夫です。分かってます、ちゃんと」
笑顔を向けると、安堵と羞恥が入り混じったように、
彼の表情が、くるくると忙しく変わった。
「~~~っ」
言葉にならない声を漏らしながら、
シルヴァンは悔しそうに『逆さだ』のハンドサインを作ってみせる。
そしてそのまま、逃げるように執務室を出て行った。
扉が閉まる。
私はまだ、頬に残る熱を感じながら、
ひとり、小さく息を吐いた。




