23.いつから、だったのだろう。
私、レデナン・アスティエルは、
皇太子という器には、あまりに脆い子供だった。
臆病で、気弱で、自分が何者であるかを、いつも他人の視線で測っていた。
母上は、常に私の身なりを整え、完璧であることを求めた。
そこに情はなかった。
あるのはただ、「皇帝に育て上げねばならない」という使命感と、
自らの立場を揺るがさぬための、過剰な期待だけだ。
その期待に応えられない自分を、母上の失望を、私は誰よりも恐れていた。
一方で、父上は私に無関心だった。
声をかけられることもなく、視線を向けられることもない。
その背中は、私がこの世界から消えてしまっても構わないと、そう言われているようで。
胸の奥が、ひどく冷えた。
常に張り詰めた糸の上を歩かされるような日々。
そんな私の唯一の逃げ場であり、光だったのが、隣にいてくれるシェリーだった。
あれは、皇宮の回廊でのことだ。
母上が大切にしていた、異国の花瓶を、私が割ってしまった時。
恐怖で指先が震え、言い訳ひとつ、口にできずに立ち尽くしていた私の前に、
幼いシェリーが、凛然と立ちはだかった。
「皇后様、お聞きください。
これは殿下の過失ではありません。風が窓を叩き、不安定だった台座を揺らしたのです。
殿下はその時、むしろ花瓶を支えようと手を伸ばされました」
そんなのは、真っ赤な嘘だ。
けれど、彼女の理路整然とした説明と、一切の迷いがない瞳に、周囲の大人たちは感服した。
騒ぎを聞きつけた教師たちまでが「さすがは次期皇太子妃だ」と彼女を褒めそやした。
叱られずに済んだ安堵感の中で、彼女は私の顔を覗き込み、誇らしげに笑った。
「殿下に何かあれば、婚約者である私がフォローします。それが私の役割ですから。
殿下はただ、堂々としてくださっていればいいのです!」
――その瞬間、私は理解してしまった。
私が失敗しても、彼女がそれを「手柄」に変えてくれる。
私が問題を起こせば起こすほど、彼女はそれを解決して称賛を浴びる。
私が無能でいればいるほど、彼女は、より輝く。
これは、私たちの理想的な愛の形じゃないか。
私は、本気でそう思った。
勉強を放り出しても、式典の手順を忘れても、シェリーがすべて裏で整えてくれた。
私はただ、彼女の言う通りに堂々と椅子に座っていればよかった。
――ごと。
鈍い音で、意識が引き戻される。
書類の上に転がるペン。
その先で、インクが滲み、無様な黒い溜まりを作っていた。
文字を書きながら、眠ってしまったのだろう。
机の上には、私が眠っている間にも積み上げられた紙の束がある。
そこには、私の不在など意に介さない時間の流れが、そのまま形になっていた。
「……はあ」
思わず、ため息が漏れる。
はっとして、口元を押さえた。
(……ため息)
シェリーは、よく、ため息を吐いていた。
最初のうちは、気にも留めなかった。
それも、私を思ってのものだと――愛情表現の一つだと、思っていた。
だが、いつからか。
彼女の吐くその息は、私の胸に、確かに毒として残るようになった。
理由もなく、重い。
責められているわけでもないのに、逃げ場を塞がれるような感覚。
(いつから、だろうな……)
はっきりとしたきっかけは、思い出せない。
だが、
彼女の視線が、私を見ていないように感じる瞬間が増えた。
私に向けられているはずの瞳が、いつも、ほんの少しだけ先を見ている。
私ではない何かを、計っているような目。
彼女の導く声が、私を見下しているように聞こえることもあった。
そんな時だった。
私の前に、まるで隙間を縫うように現れたのが――
「殿下、お目覚めですか?」
背後からの声に、振り返る。
そこには、にこにこと微笑むプリシアがいた。
「ずっと、そこに居たのか?」
「気持ちよさそうに眠っていらしたので。起こしてはいけないと思いまして」
その言葉に、胸の奥がわずかに緩む。
一瞬、返す言葉を探して――机の上の黒が、視界の端に残っていることに気づく。
書類の上に広がったままの、黒いインクだまり。
「……書類が台無しになってしまった」
「仕方ありませんわ。殿下は、毎日お忙しいのですもの。
眠くなるなと言う方が無理です!」
咎めることもなく、評価することもなく、
ただ、肯定だけを差し出してくる。
プリシアは、シェリーのように「こうすべきです」とは言わない。
ただ私を見上げ、頬を染めて、私が欲しかった言葉だけをくれる。
「殿下は、世界で一番偉いですわ」
新しい婚約者の隣は――居心地が、よかった。
あまりにも。
何も考えなくて済むほどに。
(……こんな、つもりではなかったはずなんだが)
初めてシェリーに、婚約破棄を口にした時のことを思い出す。
本気などではなかった。
ただの勢いだ。感情が先に立ち、言葉が滑り落ちただけだった。
だが、その瞬間。
シェリーは、慌てた。
ほんのわずかな変化だった。
けれど、いつも余裕を崩さず、私を導く側に立っていた彼女の表情が揺れたのを、
私は見逃さなかった。
胸の奥に、得体の知れない感覚が走った。
それで、繰り返した。
事あるごとに、婚約破棄を口にした。
彼女が言葉を選び、必死に取り繕う姿を見るのが、いつの間にか当たり前になっていた。
まだ自分は、彼女にとって「必要な存在」なのだと確かめられた。
――そして、私はまた、堂々と椅子に座っていられるようになった。
もっと彼女を揺らしたくて、
シェリーに見せつけるように、プリシアと通じた。
そしてあの夜も、いつものように婚約破棄を突きつけた。
焦ると思った。
泣いて、縋ると思った。
だが。
彼女は。
「――失礼いたします、レデナン殿下」
重々しい扉が開く音がして、引き戻される。
立っていたのは、身の回りを世話させている侍従だ。
「ヴォルガ王国の特使を迎える晩餐会の時刻が迫っております。そろそろ、お支度を」
「……ああ、分かっている」
私は重い腰を上げた。
「殿下、頑張ってくださいね!」
「ああ……」
プリシアの励ましに短く答えながら、自分でも驚くほど、別の面影を探していた。
(いつから、だったのだろう……)
彼女のため息が、
私を思うものではなくなったのは。




