20.……やっと、聞けました。
「……私は、シルヴァン様の婚約者ですもの」
その言葉が落ちたあと、
ラベンダー畑を渡る夜風が、ふたりの間をすり抜けた。
しばらく、シルヴァンは何も言わなかった。
私の手を握ったまま、額を当てた姿勢で、ただ静かに息をしている。
月明かりに照らされた睫毛が、わずかに震えているのが分かる。
きっと、言葉を探している。
私が何も言わずに待っていると、やがて、低く、かすれた声が落ちた。
「あなたは……私に、優しすぎる」
顔を上げたシルヴァンは、困ったように笑っていた。
それから、まるで自分を納得させるように、小さく息を吸った。
「……今からここで話す私の言葉は、そのまま受け止めてほしい」
月明かりに照らされた横顔から、わずかな緊張が伝わる。
私は、静かにうなずいた。
「手紙で書いたように……私は普段、思ったことを、そのまま口に出すことができない。
心に浮かんだ言葉とは反対のものが、口から出てしまう」
夜気に混じるラベンダーの香りの中で、その言葉だけが、はっきりと私に届く。
彼の口から直接答えを聞けたことで、
ようやく、頭の中で渦巻いていた疑問が散っていくのを感じる。
「――呪いだ。……随分前から、背負っている」
指先が、私の手の上で、わずかに震えた。
その小さな揺れが、彼がどれほど長い間、この事実を一人で抱えてきたのかを物語っている気がした。
私は息を整えてから、問いかける。
「……どうして、呪いのことを教えてくださらなかったのですか」
シルヴァンはすぐには答えなかった。
視線を落とし、言葉を探すようにしてから、ぽつりと口を開く。
「強く思った感情ほど……歪んで、逆さに出る。
すべての言葉が等しく反対になるわけではない、厄介な性質を持っている」
少しだけ、唇を噛む。
「だから、呪いのことを知ったところで、言葉での意思疎通は難しい。
それに――」
そこで、ほんの一瞬、言葉が途切れた。
「王宮からの指令は、婚約だ。結婚ではない。
……ほとぼりが冷めれば、あなたは王都へ戻る。
そう、最初から決められているのだと思っていた」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
婚“約”指令。
確かに、私自身もどこかで感じていた違和感だった。
けれど――。
「……たぶんそれ、考えすぎです」
思わず、苦笑が混じる。
「俺の気分次第で許してやってもいいんだぞ~?
って、皇太子が自分の優位をちらつかせたいだけだと思います。
私の心を弄んで、楽しんでるだけですよ」
雑すぎる皇太子のモノマネをしながら言う私に、ぱちくりと、シルヴァンの目が瞬く。
「まさか……そんな」
「まさかな性格してるんです、あの男」
被せぎみに言い放つ。
シルヴァンは一瞬、言葉を失ったように固まるが、
それでも納得できないのか、ゆっくりと首を横に振る。
「あなたを、本気でこんなところに置くわけがない」
「本気ですよ。別の想い人が現れたそうなので」
「べ、別の想い人……? どういうことだ。そんなの、無茶苦茶だ」
「無茶苦茶な男なんです……」
誠実さとは正反対の男の思考など、シルヴァンには想像もつかないのだろう。
世の中の男が皆、彼のようだったら、きっと世界は今よりずっと平和なはずだ。
……残念ながら、そうではないけれど。
――いけない。
シリアスな場面だというのに、あの阿呆皇太子のせいで、空気がずれてきてしまう。
私は頭を振って、忌々しい男の顔を追い払った。
「まあ……とにかく、そういう単純な男なので、深い意味なんてないですよ。
私みたいな可愛げのない女で、向こうもつまらなかったんでしょうね」
話を区切るつもりで、皮肉を込めて言った、その瞬間。
「――あなたは、自分を過小評価しすぎだ!」
少し強い声ば飛んできて、思わず肩が跳ねる。
次の瞬間、両肩に、温かな手が置かれた。
顔を上げると、シルヴァンが真っ直ぐにこちらを見つめている。
「シルヴァン、様……?」
近い距離で、視線が絡む。
外せない、というより――外そうという発想すら浮かばなかった。
夜風に揺れるラベンダーの香りが、ふたりの間を、静かに満たしていく。
「あなたは、優しい人だ。そして、聡明で、明るくて……」
シルヴァンは、ほんの一瞬だけ息を吸う。
視線が外せない。
逃げ場のない沈黙が、私たちの間に落ちた。そして――
「――強くて、美しい」
はっきりと。
迷いも、照れも、言い訳もなく。
その言葉が落ちた瞬間、世界の音が、すっと遠のいた気がした。
強く、美しい。
胸の奥で、その言葉を何度もなぞる。
意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
けれど、理解した途端、熱が、じわじわと頬まで上がってくる。
それを見て、シルヴァンは、ゆっくりと息を吐いた。
長い間、胸に溜め込んでいたものを、ようやく吐き出したみたいに。
「……やっと、言えた」
小さく、けれど確かに、嬉しそうな声。
浮かべた笑顔は、驚くほど柔らかくて。
今まで見たどの表情よりも、彼らしかった。
その顔を見た瞬間、胸の奥が、言葉にならない温かさで満たされた。
それは、今までずっと探していたものに、ようやく触れられたような、
そんな感覚だった。




