02.辺境送り、承知しました。
翌日の王宮、レデナンの執務室。
「殿下、シェリー様との婚約破棄、プリシア様とのご婚約が正式に受理されました」
侍従の報告に、レデナンは眉を寄せた。
「……そ、そうか。なるほど……うん……うん……」
うん、と三度頷きながらも、その声には落ち着きがなかった。
手にしていた羽ペンの先が、書類の上で無意味に震えている。
「ずいぶん早かったな。……本当に、受理されたのか?」
「はい。公爵家からも同意の印が」
「ふ、ふうん。そうか……そうか……」
そう言って背もたれに身体を預ける。だが、表情は苦い。
書類の端を無意識に指で折り曲げながら、彼は小さく息を吐いた。
――まさか本当に、あの女が去るとは。
いつも毅然としていて、何を言っても最終的には許してくれる。
そういう女だと思っていた。
「シェリー様のこと……本当に、よろしかったのですか?」
「なにを言う。あれは自分から破棄を選んだのだ。私のせいではない」
そう言いながらも、心の奥で何かがざらりと動いた。
「……どうせ、今頃後悔して泣き喚いているさ」
声を少し強め、レデナンは無理に笑ってみせる。
その笑い声が執務室に響いた、まさにそのとき。
「殿下ーっ!」
高い声が廊下から飛び込んできた。
次の瞬間、勢いよく扉が開き、花のような笑顔を浮かべたプリシアが駆け込んでくる。
「お出かけしましょう、殿下! 今日はお天気も良いですし、街に出ればきっと気分も晴れますわ!」
机の上の書類が風で揺れた。
レデナンは一瞬、困ったように眉を下げる。
「プリシア、今は執務中だ」
「すぐに終わるでしょう? ね、少しだけ! シェリーお姉様がいなくなって、殿下も寂しいでしょう? 私が慰めて差し上げます!」
「…………」
その言葉に、執務室の空気がかすかに揺れた。
傍らに控えていた執事が慌てて口を挟む。
「殿下、本日は報告書の確認と、外交文書への署名が――」
「後で片づける」
「しかし……」
「少しくらい構わんだろ。すぐ戻る」
執事の言葉を遮って、レデナンは軽く笑った。
「たまには、私だって息抜きが必要だ」
「うんうん、そうですよ殿下!」
プリシアが嬉しそうに笑い、殿下の腕に手を絡ませる。
ふたりの姿が仲睦まじく見えるほど、侍従の胸には重たいものが沈んだ。
妃教育を幼いころから受け、政治や礼儀、経済の知識まで身につけていたシェリー。
実際、殿下の政務の半分は、彼女の助言で成り立っていたと言っても過言ではない。
それに比べて――プリシアは、まるで温室の花。
何も知らぬまま、甘やかされ、ただ可憐であることだけを褒められて育った。
人前での立ち居振る舞いも、外交文書の読み書きもおぼつかない。
(殿下は本当にプリシア様とご結婚なさるおつもりなのだろうか……)
執事の溜息は、空気に吸い込まれて消えた。
レデナンとプリシアが、並んで執務室を出る。
廊下を歩きながら、プリシアはレデナンを見上げて言う。
「殿下……」
「ん?」
「わたし……お姉様に、ひどいことをしてしまいました」
しゅんとしたその声に、殿下はため息をついた。
「気にすることはない。あれは……シェリーが自分で選んだことだ」
「でも……きっとお姉様も寂しくて泣いてると思います」
その言葉に、レデナンの足が止まる。
「寂しがる……と、思うか? あの不愛想な女が?」
「ええ。お姉様だって人間ですもの」
「そ、そうか……」
レデナンは目を逸らし、咳払いをした。
プリシアが小さく首をかしげる。それから少し考え込むように視線を落としたあと、ふと顔を上げた。
「殿下……」
「なんだ?」
「お姉様に、新しい婚約者を作ってあげませんか?」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
プリシアは真面目な顔で言った。
「お姉様にも誰かがいれば、きっと寂しくありません。ね、殿下もその方が安心でしょう?」
「そ、そんな簡単に言うな。あんな気の強い女の相手なんて、そうそう務まるものか」
「うーん……」
プリシアは顎に指を当て、しばらく考えこんだ。
そしてぱっと表情を明るくする。
「シルヴァン・グランヴェール伯爵はどうでしょう!」
「な……!? あの“国境の悪魔”だと!?」
レデナンの声が裏返った。
廊下に控えていた近衛も一瞬ぎょっとした顔をする。
「人の心を持たないと言われている恐ろしい男だぞ……!」
「でも、すごい方なんでしょう? 戦でたくさん手柄を立てて、辺境伯になられたって。綺麗なお城も持ってるって聞きました!」
プリシアは純粋な笑顔で言う。
まるで、それが最高の提案であるかのように。
レデナンの眉間に深い皺が寄る。
「冷徹で血も涙もない男だ。戦で流した血のせいで、夜な夜な亡霊に取り憑かれているとも聞く」
「そんなに恐ろしい方なのですか……? でも、領民には慕われていると聞きました」
「……噂だ。どこまで本当かは知らん」
レデナンはそう言いながらも、どこか言葉を濁した。
恐れよりも――別の感情が胸の奥で渦を巻いている。
(……シェリーを、あんな化け物のもとにやるなど)
思い浮かべた光景に、胸の奥がざらつく。
苦く笑い、首を振った。
「駄目だ。いくらなんでも、あんな冷血漢に……」
言葉の途中でふと口を閉ざす。
脳裏に浮かぶのは、冷たい眼差しの悪魔に怯えるシェリーの姿。
そして、そのとき自分を思い出す彼女――そんな都合のいい幻想。
レデナンは自嘲気味に笑い、肩をすくめた。
「……いや、逆に悪くないかもしれんな」
「え?」
突然の心変わりに、プリシアが驚いたように瞬きをする。
彼は視線を逸らし、窓の外の青空を見た。
――そんな冷たい男のもとへ行けば、彼女もいずれ気づくだろう。
どれほど自分が、優しく、正しかったかを。
そう思いながら、レデナンは静かに笑った。
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「……鬼畜かよ」
第一声がそれだった。
昼下がり、王宮から届いた封書を開いた瞬間、目を疑う。
内容:婚約指令。
お相手:辺境伯シルヴァン・グランヴェール。
まさか、婚約破棄から三日もせず、他所に嫁げと言われるとは思わなかった。
婚約破棄してスッキリしたと思ったのに、すぐさま突きつけられる再婚という名の左遷。人の心がないのか、あの男。
シルヴァン・グランヴェール。
国境の悪魔と呼ばれる辺境伯――らしい。
曰く、戦場では一人で百の兵を薙ぎ払い、血に濡れた姿のまま敵将の首を掲げたとか。
曰く、魔物の群れをたったひとりで一夜のうちに殲滅したとか。
曰く――夜な夜な戦で斬った者たちの亡霊が現れ、「返せ」「返せ」と彼の屋敷のまわりを彷徨っているとか。
社交界には、ほとんど姿を現さない。王都に呼ばれても最低限しか顔を出さず、舞踏会も晩餐会も欠席。貴族の中でも、彼の声を聞いたことがある人間はほんの一握り。
「冷酷無慈悲」「人の心を持たぬ男」「人の皮を被った悪魔」――もはや、社交界最恐の都市伝説。
辺境の地の引き籠りなんて、うわさ好きの貴婦人たちにとっては最高の餌だ。そりゃ悪魔呼ばわりもされるわけだ。
そんな人間のもとに嫁げだなんて、左遷以外のなにものでもない。
改めて封書を見下ろす。
署名の筆跡が見慣れたものだった。
――レデナン・アスティエル皇太子殿下。
(っっっとに、あの阿保皇太子……!)
ぐしゃりと紙を握りしめる。
まあでも、断罪エンドを避けるためには、レデナンとプリシアから離れていた方がいい。辺境の地に行けば、あのふたりの顔を見ることもなくなるだろう。
(死ぬか……悪魔に嫁ぐか……)
究極の二択。
でも、この最悪なエンディングの筋書きから外れられるなら、迷う理由なんてない。
しばらく黙っていたが、気づけば笑いが漏れていた。
「……ふふ。いいじゃない。悪魔でも、化け物でも――かかってきやがれってのよ。舐めんな転生者」
軽く笑って立ち上がる。
ぐしゃりと潰れた封書を机の上に置き、窓の外に広がる遠い空を見やった。




