16.これがチルってやつ、ですわね
私のお尻が、そろそろ本気で「勘弁してください」と弱音を吐き始めたころ、ようやく馬車が速度を落とした。
「着きましたよ、お嬢様」
エマの声に、ほっと息をつく。
揺れから解放されるだけで、こんなにも安心するとは思わなかった。
私の尻よ、よく頑張った。
馬車を降りると、そこは小さな通りの一角だった。
石畳はところどころすり減り、行き交う人々の足音が、この街の日常を静かに物語っている。
通りに面した建物は背が低く、派手さはない。
けれど、どの店先にも手入れが行き届いていて、暮らしが丁寧に積み重ねられてきた場所なのだと、自然に伝わってくる。
その一角に、目的のタルト屋はあった。
白い壁に、木製の看板。
窓辺には小さな鉢植えが並び、開け放たれた扉の奥から、焼き菓子の甘い香りが通りまで流れている。
「……いい匂い」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
私たちは店の前のテラス席に腰を下ろした。
屋根の影に入ると、外の空気が心地よい。
遠くで交わされる人々の話し声や、馬車の音が、ほどよく混じり合っている。
「チルい」
「ちる……?」
「落ち着くって意味よ」
「流行り言葉ですか? さすが、お嬢様は何でもご存じですね」
私も使おう、とでも言いたげに、エマがニコニコしている。
……また、つまらぬ言葉をエマに教えてしまった。
転生を自覚してから、こうして時折、現代の言葉が口をついて出る時がある。
耳障りの珍しさに惹かれるのか、エマが気に入って覚えるようになってしまった。
以前うっかり「草」と口にしてしまったとき、
「笑っている擬音みたいなものよ」と説明したら、
しばらくエマの笑い声が「草草草草」になってしまい、大いに反省した。
「そういう言葉を使うのは、私との会話だけにしてね」
「りょ、であります! お嬢様!」
「…………」
私は頭を抱えた。
それからしばらく、
街の様子についてだったり、屋敷でのことだったり、
エマと他愛もない話をしていると、ほどなくして、木の皿に乗せられたタルトが運ばれてきた。
「わあ……」
大きめに切られたリンゴが、ごろごろと詰まったアップルタルト。
表面はつややかで、フォークを近づけるだけで、まだ温かいのがわかる。
ひと口、運ぶ。
「おいしい!」
思わず、正直な感想がそのまま口に出た。
甘さと酸味のバランスがよく、素材の味がきちんと残っている。
エマも頬一杯に頬張りながら、きらきらと目を輝かせていた。
(さっき、馬車の窓から見た畑の作物を使ってるのかな)
ここへ来る途中、立派なリンゴ畑があったのを思い出す。
この土地は、ちゃんと作物が育ち、ちゃんと人の手で、食べ物になっている。
不作の心配は、少なくとも今はなさそうだ。
(それにしても、本当に美味しい。王都で食べたタルトよりこのお店の方が美味しいかも)
感動しながら食べ進めていると、
店の奥から出てきた主人らしき男性が、にこやかにこちらを見て声をかけてきた。
「もしかして……グランヴェール家のお屋敷に、嫁いでこられた方ですか?」
「え?」
「お見かけしないお顔ですし、身なりもおきれいですから」
照れたように笑いながら、主人は続ける。
「グランヴェール家の使用人さんも、休みの日によく来られるんですよ。
この前、旦那様がようやくご結婚されるんだって喜んで、みんなでワインを煽ってましてね」
その光景を思い出しているのか、目尻にしわが寄る。
「ずいぶん、慕われているんですね」
思わずそう口にすると、
主人は「そりゃあ、そうですよ」と深くうなずいた。
「この辺境は、昔から何かと厄介な土地でしてね」
主人は腕を組み、少し声を落とす。
「王都から逃げてきた貴族が、身分を振りかざして揉め事を起こしたり、
素行の悪い流れ者が増えて、街の治安が一気に悪くなることもありました。
……正直、手に負えない時期もあったんですよ」
私は、フォークを持つ手を止めた。
タルトを口に運ぶのも忘れて、主人の話に耳を傾ける。
「グランヴェール様が領主になられてからはね、
そういう問題が、少しずつ収まっていったんです」
「以前の領主は、問題を放置していたの?」
私がそう聞くと、主人はすぐに首を振った。
「いえ。解決しようとは、なさってました。
前のご領主様も、慈悲深くて、穏やかで……いい方でしたよ」
少しだけ、言葉を探すような間が落ちる。
「ただ、ご高齢でしたからね。正直、なめてかかる連中も少なくなかった」
主人は一度、言葉を切る。
「その点、シルヴァン様は違いました。
戦場で名を上げ、皇帝から直接、爵位を与えられたお方です。
力も、後ろ盾もある。
『ここでは許さない』と一度線を引かれたら、逆らえる者はいません」
そう言って、主人は肩をすくめた。
空になったエマのタルトの皿を下げながら続ける。
「それに、この土地は国境沿いでしょう?
戦争が起きるたびに、真っ先に盾にされてきた場所なんです。
左遷された兵や、訳ありの部隊ばかりが押し付けられて……正直、死人が出るのも当たり前みたいな戦場でした」
一瞬、店内の空気が静まった。
「でも、シルヴァン様が来てから、それも変わった。
兵を鍛え直し、自分が先頭に立って戦って……無駄な犠牲を出さなくなった。
守りが強固になり、隣国も簡単には手を出さなくなったんです」
主人は、少し照れたように笑う。
「街に姿を見せることは、あまりありませんけどね。
戦場での話ばかり広まって、悪魔だなんて呼ばれてますが……俺たちにとっては、守り神みたいなもんですよ」
その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
屋敷の中だけではない。
この街の人たちにも、自然に受け入れられているのだろう。
王都で囁かれている「悪魔」という評判が、ひどく遠く感じられた。
私は、止めていたフォークをもう一度手に取る。
タルトの甘さが、さっきより少しだけ深く、胸にしみた。




