14.知りたいと、思っていたところです。
私はベッドの上に寝転がりながら、一通の手紙を眺めていた。
シルヴァンとの婚約を命じる、王宮からのあの指令書。
厚みのある質のいい紙。
その手触り自体が、書かれている内容の一方的さを、無言のまま伝えてくるようだった。
「……婚約破棄して、王都に帰りたいって言ったら……聞き入れてもらえるかな」
ぽつりと呟いて、すぐに首を振る。
「いや……無理だよね」
あれだけ皇太子に啖呵を切って、王宮に別れを告げたのだ。
自分に恥をかかせた女の願いを、素直に聞き入れるほど、あの男の懐は広くない。
「皇帝に直談判……? それも、さすがに気まずいな……」
口に出してみて、ため息をつく。
そもそも、王都に戻れば、プリシアと皇太子に遭遇する確率は一気に上がる。
この世界が、どこまで原作に忠実に“事実”を引き戻そうとするのかは、まだわからない。
あの二人のそばにいる限り、断罪エンドへ戻ってしまうリスクは、常につきまとうだろう。
「……斬首で死ぬか、辺境の地でダメンズと結婚するか」
天井を見つめたまま、乾いた笑いが漏れた。
「……どっちのほうが、楽なのかなあ」
我ながら、なんて悲しい言い方だろう。
最初のうちは、この嫌がらせみたいな婚約指令も、案外ラッキーかもしれないと思っていた。
屋敷の居心地はいいし、使用人たちは皆親切だ。
シルヴァンだって、かっこよくて、優しい人だと思った。
会話が噛み合わないことも、言葉が少し刺さることも、大した問題じゃないと感じていた。
――自分は、彼のことを理解できているつもりだったから。
シルヴァンの考えも、感情も。
不器用なだけで、本当はわかりやすい人だと、思っていた。……でも。
「わかんなくなっちゃったんだよね……」
ぽつりと、天井に向かって言う。
「……シルヴァンって、人が」
その言葉は、部屋の静けさに溶けるように消えていった。
しばらくして、廊下のほうから控えめな足音が近づいてくる。
間を置いて、静かなノック。
――コン、コン。
「失礼いたします、シェリー様」
返事を待ってから、扉がほんの少しだけ開いた。
執事長のアダンだった。
「夜分に申し訳ございません。旦那様より、お預かりしているものがございまして」
「シルヴァン様から?」
そう断りを入れてから、アダンは室内へ足を踏み入れる。
小さなトレイをテーブルに置き、
その上のティーカップに、ポッドから淡い色の液体を注いだ。
湯気とともに、穏やかな香りが静かに広がる。
夜の空気に溶けるような、落ち着いた香りだった。
「ハーブティーですか?」
思わずそう口にすると、アダンは小さくうなずく。
「今夜、シェリー様がきちんとお休みになれるか……旦那様は、たいへん案じておられました」
「……」
(こういうところが、よくわからないんだよなぁ……)
人を傷つけるような言葉を、何のためらいもなく投げかける一方で。
こんなふうに、そっと気遣うこともできる。
同じ人の行動だとは、どうしても思えない。
(もやもやする……)
私は何も言えず、ただカップを見つめる。
揺れる液面に、ランプの灯りが淡く映っていた。
アダンは静かに見守っていたが、
けれど立ち去る気配もなく、少しだけ声を落とす。
「……もし差し支えなければ」
一拍置いてから、静かに続けた。
「ほんの少しだけ、私の話にお付き合いいただけますでしょうか」
その声音には、職務以上の慎みがあった。
アダンは、私の返事を急かすことなく、
ティーカップの湯気が落ち着くのを待つように、少しだけ間を置いた。
そして、低く、穏やかな声で語りはじめた。
「この辺境の地には、かつて『慈悲深い主』と呼ばれていた老貴族がおられました。
小さな領地ではございましたが、手入れの行き届いた庭があり、
屋敷も、決して派手ではありませんが……美しい場所でして。
私は若いころから、その方にお仕えしておりました」
遠い過去をなぞるように、アダンは一度視線を落とす。
「しかし、政争というものは……
どれほど誠実に領地を治めておられても、容赦なく牙を剥くものです。
主は、その波に抗うことも叶わず、失意のうちに、この世を去られました。
屋敷は差し押さえられ、残された使用人たちは、散り散りになる覚悟をしておりました。
……『もう、この屋敷も、我らも終わりだ』と。
そんな折に、新たな領主としてやって来られたのが、戦場帰りの若きシルヴァン様でした」
私は、思わず背筋を正す。
アダンは静かに息を整えてから、続ける。
「王宮は、英雄であられるシルヴァン様のために、新たな壮麗な屋敷を用意すると申し出たそうです。
……ですが、シルヴァン様は、それを一蹴なさいました」
アダンの声色に、わずかな誇りが滲む。
「『新しい石を、積み上げる必要はない。壊されずに残ってきたものを、私は選ぶ』と。
……そうしてこの屋敷を引き取り、絶望していた我らを、そのまま雇ってくださいました」
アダンは、テーブルに置かれたカップに一度視線を落とした。
その沈黙の奥に、当時のシルヴァンの姿を重ねているように見えた。
「辺境には、さまざまな“訳あり”が流れ着きます。
故郷を焼かれた孤児。濡れ衣を着せられた元騎士。行く当てのない老人……。
シルヴァン様は、彼らを分け隔てなさらず、できる限り、この屋敷の中に居場所を与えました。
ですから……屋敷の者たちは皆、シルヴァン様に感謝しております」
その言葉で、胸の中の点が、静かに線になった。
「……彼が、慕われている理由がわかりました」
思わず、そう口にしていた。
アダンは、にこりと微笑む。
「世間では“悪魔”と呼ばれ、恐れられておられますが……
ここでは、孤独の中で戦い続けてきたお方として、最後までお支えしたいと願う者が多いのです」
一拍。
アダンの声が、少しだけ低くなる。
「……それでも、我らだけでは埋められないものがあるのも、また事実でございます」
そう締めくくると、アダンは深く一礼した。
「このような話をして、かえってシェリー様のご負担になってしまったなら、申し訳ございません。
おいぼれの長話を、失礼いたしました」
「い、いえ! いろいろ教えてくださって、ありがとうございます」
慌てて、私はぶんぶんと手を振る。
アダンが顔を上げるのを待ってから、
私はカップの中の揺れる液面を見つめつつ、言葉を続けた。
「シルヴァン様が、どういう方なのか……
自分は、全然わかっていないんじゃないかって、悩んでいたところでした。
お話を聞いて、……すこし、あの方のことを知ることができた気がします」
アダンは、静かにうなずいた。
「執事としては……
旦那様には、どうか幸せにお過ごしいただきたいと、そう願っております」
それから、私をまっすぐに見て、続けた。
「そして、シェリー様にも。
健やかな日々を送るために、ご自身のご選択を大切になさっていただきたいと、心より思っております」
アダンは穏やかに微笑み、
来たときと同じように、静かに部屋をあとにした。
再び、静けさが戻る。
私はカップに手を添えたまま、
立ちのぼる湯気が消えていくのを、ただ眺めていた。




