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12.貴方は、違うと思ってました。


「いやー、びっくりさせてごめんなー」


目の前で、鼻から花を生やした男が鼻声でそう言った。

……この扱い、イケメンに許されていいのだろうか。


まあいいか。

冷静に考えてみれば、この小説。

ヒロインと男主人公の恋の始まりが不貞だったりする、倫理観がわりと吹っ飛んだ世界観だ。今さらイケメンの鼻に花を刺されていても驚くことじゃない。


「鼻、赤くなってますけど……大丈夫ですか? 抜きましょうか?」

「ああいや、このままで大丈夫。気にしないで」


(気にしないでと言われても気になっちゃうんですが……)


もしかして、シルヴァンが突っ込んだ勢いが強すぎて抜けなくなったのでは?

と、よくわからない想像をしていると、隣でシルヴァンが小さく溜息を吐いた。


「香油はどうした」

「瓶を割っちまってさ。だから今日は、急ぎもらいに来たんだ」

「だったら、それを最初に言え」


シルヴァンはメイドを呼び、香油を持ってくるよう伝えた。

ソナの来訪に気づいた執事長がすでに指示していたのか、メイドはほどなく戻ってくる。


手にしていたのは、小さな小瓶。

ほんのり紫がかった、きれいな液体が入っていた。


「庭のラベンダーから抽出した香油だ」

「ラベンダーの香油!」


シルヴァンは瓶の栓を抜き、私の顔の近くに差し出す。

上品で、少し甘い香りがふわりと広がった。


思わず目を細め、その香りを吸い込んでいると――

視界の端で、シルヴァンの動きが一瞬止まった。


次の瞬間、肩に柔らかな重みが落ちる。


顔を上げると、彼はすでに視線を外していて、

何も言わずに自身の上着を私の肩に掛けていた。


「……?」


あまりに自然な動作に戸惑う間もなく上着を受け取る形になった。


向かいに立つソナが、その様子を見てわずかに目を見開く。

だが、彼も何も言わず、穏やかな笑みのようなものを一つこぼすだけだった。


シルヴァンの手から、ソナの手に香油の瓶が渡る。


「ソナにはこれが必要なんだ。くしゃみを抑えるために」

「そう。これを鼻の粘膜に塗ると、まったく出なくなるんだ」

「なるほど……だから鼻に、ラベンダーの花を……」


ソナはぽん、と鼻に刺さっていた花を引き抜くと、受け取った香油を指先に垂らす。

ズズッと鼻息とともに吸い込むその姿に、なぜか既視感があった。

教育ビデオで見たことがあるような……いや、そのたとえは色々まずいか。


花粉症の人が使う鼻薬みたいなものだと考えることにする。


「ラベンダーって、くしゃみ止めの効果があるんですね」


ぽろっとこぼすと、ソナは笑った。


「まあ、間違いじゃない。でもラベンダーは、くしゃみだけじゃなくて呪いに作用するんだ」

「呪い……?」


そういえば、さっきもソナはその言葉を口にしていた。

再び出てきた単語に、シルヴァンの表情が曇る。


「聞いたことない? 人に制約を強いる古術だ」


呪い。

小説の中で、ちらっと触れられていた気がする。


人に呪いをかけるには呪具が必要で、条件と対象を定めて発動させる――

そんな設定説明があっただけで、物語の中で本格的に使われることはなかったはずだ。

世界観のエッセンスとして置かれた、装飾みたいなものだと思っていた。


「俺はその呪いのせいで、さっきみたいなくしゃみが止まらない体になっちまってさ。これがないと生きていけないんだわ」


一見すると、薬が手放せないヤバイ人みたいな言い方だけれど、内容は笑えないほど深刻だ。


(まさか破壊神の由来が殺人級くしゃみだとは……本当になんなんだろう、この小説)


そこではっとする。


「……シルヴァン様も、呪いに?」


ソナの言葉を思い出し、恐る恐る尋ねる。

シルヴァンは気まずそうに目を伏せた。


「シルヴァンの呪いは――」

「ソナ」


言いかけたソナの言葉を、シルヴァンが鋭い声で遮った。

その言葉の圧に、ソナは眉を寄せる。


「大事なことだろ。ちゃんと伝えておけよ」

「お前には関係ない。余計なことをべらべら喋るな」


空気が、ひりつく。


私は慌てて、なだめるように二人の間に割って入った。


「ま、まあ……無理に話す必要はありませんわ」

「いや、でもさ」

「誰にだって、そっと自分の中に留めておきたいことってありますわ」


そう言いながらも、胸の奥が少しだけざわついた。

私には話したくない――そう拒絶されたような気がして。


その痛みを隠すように、笑顔を作る。


それを察したのか、シルヴァンがほんの一瞬、傷ついたような表情を見せる。


(言葉は下手なのに、相変わらず察しはいいんだよな……)


私は、その変化に気づかないふりをした。


そのあと、若干の気まずさを残しながらも、

「泣かされたら俺のところにおいで、ミレディ」なんて笑いながら、ソナは爽やかに帰っていった。


本当に、嵐のような男だった。


庭の隅に吹き飛ばされ、瓦礫と化したテラステーブルと椅子を見やる。

……本当に、嵐のような男だった。(2回目)


ふと、その瓦礫の中に白い欠片が混じっているのに気づいた。

陶器片。

シルヴァンが持ってきてくれた、ティーセットの一部だ。


(そういえば、お茶をしようって誘ってくれたんだった)


庭に来た当初の目的を、今さら思い出す。

どうやらシルヴァンも同じことを考えたらしい。


「すまない。息抜きをと思ったのだが……」

「シルヴァン様が謝ることなどありません! お茶をいただけなかったのは残念ですが、十分息抜きにはなりました」


そう答えると、彼は少しだけ安堵したように息を吐いた。


「執務室に戻しましょうか、シルヴァン様」


そう声をかけると、彼は少し迷った後、短くうなずいた。



---



庭を後にし、屋敷の中へ戻る。


足音だけが静かに廊下に響く。

風も、ラベンダーの香りも、もう届かない。


私は歩きながら、乱れた髪をそっと整えた。


シルヴァンは何も言わず、少し前を歩いていたが、急にその足がピタリと止まった。


振り返ったシルヴァンは、一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせてから、ぽつりと言う。


「……今日はもう大丈夫だ」

「大丈夫、というと?」

「残っている仕事は、私一人で処理できる。

ソナのせいで髪も乱れてしまったし、自室でゆっくり直したいだろう」


その言葉に、私は一度だけ瞬きをする。


……あ。

そこでようやく、彼の気遣いと、その理由に気づいた。


「私の背中を、気にされてますか?」


そう尋ねると、シルヴァンは少しの間のあと、わずかに頷いた。

やっぱり。


「私はこの傷を気にしていません。だから、大丈夫ですよ」


私がそう答えると、シルヴァンはほんの少し驚いたようだった。

声のトーンから本心だと感じとったのだろう。


少しだけ言葉を選んでから、続けた。


「でも……お気遣いは嬉しいです。ありがとうございます。

驚かせてしまっていたら、申し訳ございません」


シルヴァンは首を横に振った。


ソナのくしゃみによる爆風で、髪が乱れ、背中があらわになっていたのだろう。

だから、あのとき――。


(何も言わずに、上着を掛けてくれたんだ)


そう思うと、口元がゆるむ。

胸の奥に残っていた、さっきまでのざらつきが、ゆっくりほどけていく。


(やっぱり、シルヴァンは誠実で優しい人だ)


私はこの傷を、気にしていない。

物語のシェリーにとっては違ったかもしれないが、私はそう思っている。


けれど、ほんの一瞬だけ。

嫌な顔をされるのではないか、という考えが、頭の端をかすめていたのも事実だった。


でも、そんな心配は必要なかったらしい。

嫌悪感を持った人に、咄嗟にあんな気遣いができるものか。

シルヴァンはやっぱり、阿保な皇太子とは違うのだ。


私は肩に掛けられていた上着をそっと脱ぎ、彼に返す。


「これは、私の勲章なんです!」


そう言って、私はシルヴァンに背を向けた。

――次の瞬間だった。


稲妻が走ったような衝撃が、胸を貫いた。



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