10.このフェロモン爆弾、なんて名前ですか。
机に向かっても、文字が頭に入ってこなかった。
“結婚する気はない”
その言葉だけが、ひどく鮮明に、耳の奥で反芻する。
(駄目だ……まったく集中できない……)
ペンを持つ手に力がこもり、ペン先が紙を引き裂いた。
同じ書類を二度開き、同じ封を三度確かめた。
分別済みの束に、誤って別の案件を混ぜてしまった。
「ここ、数字が違っているようだ……」
シルヴァンが静かに指先で書類を指す。
「あ……ごめんなさい」
謝る声が、薄い。
自分の声なのに、温度がない。
シルヴァンは一瞬、視線を止めた。
けれど追及はせず、淡々と次の紙を手繰る。
「……」
「……」
沈黙。
紙の擦れる音だけが、やけに耳に刺さる。
しばらくして――シルヴァンがペンを置いた。
「……少し、休むか」
顔は、いつもと同じ無表情。
だけど目の奥が、ほんの僅かに迷ったように揺れた。
「あなたも、一緒に……」
「……え?」
思わずまばたきした。意外すぎる誘いに、返事が一瞬遅れる。
「ご……ごめんなさい。ミスばかりしてるからですよね」
「いや、」
シルヴァンは言いかけて、そこで言葉を閉じた。
代わりに、小さく首を横に振る。
シルヴァンは、こういう“寸前で止まる”話し方をよくする。
ツンが出る前に飲み込んでいるのか、
デレが漏れそうになって引っ込めているのか。
理由は不明。
でも、ひとつだけ気付いた法則があった。
この止め方をする時はいつも、私を気遣おうとしている時なのだ。
「庭に……紅茶を持ってこさせよう。後から向かう。先に出ていてくれ」
短い指示。
けれど、優しさがにじむ声だった。
「は、はい」
頭を下げて、私は部屋を出た。
◇ ◇ ◇
庭に出て、テラスの椅子に腰を下ろす。
ひんやりした風が頬を撫で、胸の奥のざわつきがすっと和らいだ。
(ミスばっかりで仕事増やしちゃったのに……怒らないんだな……)
むしろ、気遣ってくれた。
その気遣いが嬉しくて、でもなんだか申し訳なくて、胸がきゅっとなる。
シルヴァンは、言葉こそ刺々しいが、行動はいつも優しい。
そう――彼は、本質的に優しい人なのだ。
言葉選びの問題はあるものの、人格の問題はない。
それがわかるから、どんなに辛辣な言葉も「可愛いな」と思って受け流せている。
(だから、なんかびっくりしちゃったんだよな……)
執務室で偶然聞いてしまった言葉。
それは、今まで見てきたシルヴァンの性格を思うと、どうも違和感があった。
「……きっと、あの言葉も本心じゃないんだ。うん。
結婚する気はないなんて……シルヴァンがそんな不誠実なこと、するはずない」
「それはどうかな。男なんてのは、まったく信用ならない生き物だぜ」
「まあ、大半はね。でもシルヴァンは、そういうクズ野郎たちとは別」
「へえ。よく言い切るじゃない。どうしてそう思うんだ?」
「いやだって、すごく誠実だもん。めちゃくちゃわかりやすい」
「わかりやすい? あいつが? 凄いね君」
「フッ、私、厄介男子の扱いには慣れてるんで」
胸を張って言い切った、その時――
背後で、ふっと笑い声がした。
……笑い声?
「え!? 誰!?」
反射的に振り返る。
振り返ったその先──
テラスの手すりに肘を掛け、前傾のままこちらを覗き込むようにして、ひとりの男が立っていた。
「気付くのが、ちょーっと遅いんじゃない? お嬢さん」
夕陽を溶かし込んだような橙色の髪。
褐色の肌。
澄んだミントグリーンの瞳。
胸がどくんと跳ねる。
(……だ、誰、この男!!)
このオーラ、明らかに通りすがりのモブではない。
物語に席を持つ人間の気配。
脳内で、前世で読んだあの小説の人物リストをぱらぱらとめくる。
ヒロインの恋愛対象である男主人公は、基本あの阿保皇太子ひとりのはず。
他にめぼしいメインキャラがいた覚えがない。
と言うか、この小説は名前のある登場人物が極端に少なかった。
名前ありのキャラといえば――癖つよ四天王くらいしか思い出せない。(インパクトが強すぎて他のキャラを忘れている可能性はある)
でも彼らは脇の脇。モブだ。
(……いや、待って。シルヴァンだってモブなのに、男主人公顔負けの美貌だ。
だったら、この男も――規格外モブという線はある……かもしれない?)
思考が空回りする。
(それにしても……誰……? ぜんっぜん該当人物が浮かばない!)
じっと見つめていると、彼は前髪をゆるく掬い上げ――そのまま、距離を詰めてきた。
動作に無駄がない。自然すぎて、息を呑む暇もない。
指先が触れたかと思えば、彼は私の手を取った。
そして――甲に唇が触れ、かすかな湿音が耳に届いた。
思考が一瞬、真っ白になる。
「………………………………えっ」
“キスされた”
と理解した瞬間、心臓が飛び出しそうなくらい跳ね上がった。
「くぁwせdrftgyふじこlp……!?」
「はは、それ何語? 君、面白いね」
慌てて手を引っ込めると、男は名残惜しそうに肩をすくめた。
「な、な、な、なんなんですか! 免疫ない女子に不意打ちするのやめてください! 殺す気ですか!!」
「えっ、美人なのにずいぶん初心だね。ギャップにきゅんと来ちゃうわ」
「び、びじん……? きゅん……?」
男は目を細めて、さらに楽しげに首をかしげる。
(ちょっと待って!! ほんとに誰この高濃度フェロモン男!!)
胸がドッドッドッと大きく鳴る。
慌てて距離を取り身構える私に、男は腰に片手を当てて軽くお辞儀をした。
「はじめまして、俺はソナヴィス。――ソナと呼んでほしい。
偶然お目にかかれて幸運だ、お嬢さん」




