01.婚約破棄、いたします。
(――あ)
皇太子殿下の寝室の扉を開けた瞬間、私は思い出した。
(――ここ、恋愛小説の世界だ)
開かれた扉の向こう。豪奢な天蓋つきのベッドの上で抱き合う男女。
男は、私の婚約者――レデナン皇太子殿下。その腕の中にいるのは、私の妹、プリシア。
……はい、不貞現場です。よりによって、妹。
しかも、記憶の奥底にあるこの光景――私は知っている。
そう、これは転生前に読んだ恋愛小説の中のワンシーンだ。
皇太子が婚約者を裏切り、婚約者の妹プリシアと夜を共にする。その出来事をきっかけに、二人は愛を育み始める――恋の始まりとして描かれたシーン。
そして、偶然それを目撃した姉は嫉妬に狂い、妹をいじめるようになり……やがて断罪される。
つまりこれは、物語における“恋の芽生え”であり、同時に“悪役の転落”の始まりでもある場面。
プリシアが主人公の物語では、ロマンチックな恋の始まりとして描かれていたけれど、よく考えたら、ただの不貞の現場だ。……なんだこれ、倫理どこ行った。
今さら気づいても遅いが、どうやら私は物語の中でプリシアをいじめる姉、悪役令嬢――シェリー・エルフォードに転生したらしい。
どうして今になって前世の記憶がよみがえってしまったのか。
転生を自覚するタイミングが最悪すぎる。
「殿下、これは……どういうことですか」
寝ぼけたように頭が痛む。思い出した転生の記憶と、目の前の現実がごちゃ混ぜになっていた。そして、阿呆な皇太子殿下への呆れでも頭が痛む。二重苦である。
殿下はシーツを引き寄せながら、なぜか得意げに笑った。
「どうしたもこうしたもない。お前が来るのが遅いから、プリシアと過ごしたのだ」
……は?
なに堂々と開き直ってんだ、この男。
プリシアは殿下の腕の中で小さく肩を震わせながら、「ごめんなさい……私……」なんて言っているけれど、その視線は明らかに勝ち誇っている。
なるほど。これが恋愛小説のヒロインというやつか。別視点で見ると恐ろしい生き物だ。しかも相手が自分の妹となれば、もはやホラーである。
殿下はそんな彼女の頭を優しく撫でながら、こちらを見下ろすように言った。
「どうした、シェリー。怒るのか? それとも泣くのか?」
……怒るし泣くよ普通。
心の中で盛大にツッコミながらも、私は呆れて返す言葉も出なかった。
「ふん、嫌なら婚約を破棄しても構わんぞ」
殿下が腕を組んで鼻で笑った。
ああ、はいはい。きました殿下のいつものやつ。
殿下は、何かあるとすぐこれだ。婚約破棄をちらつかせてくる。
どうせ私が否定するとわかっていて言っているのだ。――そして実際、これまではそうしてきた。
なぜなら、物語の中のシェリー・エルフォードは、家の面子を大事にする令嬢だったから。皇太子の婚約者という立場を失うことは、家の恥であり、自分の敗北だと信じていた。
そしてなにより、レデナンを深く愛していた。
だから、殿下の傲慢な言葉にも、嫌がらせのような振る舞いにも、必死に耐えていたのだ。
家のために。自身が抱く、深い愛の正しさを守るために。
物語のシェリーなら、ここで泣いて縋っただろう。
――けれど、今の私はもう違う。私はもう知っている。この先の展開も、結末も。
そして、ここで耐えても救いなんて訪れないことも。
殿下が、当然のようにこちらを見下ろしている。いつものように「どうせシェリーは何も言えない」と信じきった顔で。
私は静かに息を吐く。
「では、そうしましょう」
放った声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
殿下とプリシア、ふたりが同時に目を見開く。
「婚約、破棄いたします」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
殿下の口が、情けないほど間抜けに開く。
「え? ……お前、い、今、なんと?」
「ですから。殿下の仰った通りにいたします、と」
殿下が慌ててシーツを掴みながら声を上げる。
「シェリー! 自分が何を言ってるのか、わかってるのか――!」
「もちろんです、殿下。これで晴れて自由ですね。どうぞご遠慮なく、妹とお幸せに」
にっこり微笑むと、殿下の顔が見る間に青ざめた。まるで、自分が仕掛けた悪戯が意図せず燃え上がって焦る子供のように。
「ま、待て! 冗談だ、シェリー!」
「ご冗談? 殿下が冗談を言えるご性格だとは、初耳です。おほほ」
「こ、こんなこと、お前の家が許すわけがない!」
「妹が代わりに婚約者になるのでしたら、家の面子も保てますもの。問題ありませんわ」
その一言に、殿下の顔がさらに青ざめた。
殿下の視界の中で、妹と婚約者が入れ替わる未来が鮮明に浮かんだに違いない。
プリシアに惚れて一緒になるんだから、むしろ良いことでは?焦る意味がわからない。
少しだけ首をかしげて、それ以上は興味を失った。
このまま小説通りに、妹をいじめる悪役になり、最後には断罪される――そんな結末、まっぴらごめんだ。
悪役令嬢なんて、今日限りで降板してやる。
「では、ごきげんよう、殿下。お幸せに」
そう言って軽く会釈し、背を向ける。
堂々と扉を開け、冷たい夜風の中へ踏み出した。
沢山の作品の中から見つけてくださりありがとうございます。
5万字程度のライトな作品となっておりますので、気楽に楽しんでいただけたら幸いです。




