第3話「静かな危機」
机の上に並べられた薬の空き箱。
「お金がなければ、治療を続けられないのか」――。
黒板に書かれた「医療格差」という言葉を前に、生徒たちは政策と生命の関係に向き合う。
政治経済をめぐる青春ミステリー、第5巻最終話。
第5巻最終話の放課後。
怜が教室に入ると、机の上に薬の空き箱がいくつか置かれているのに気づいた。
「先生、これは?」
「処方薬の空き箱だ」天野が振り返る。「今日のテーマに関係している」
葵が興味深そうに箱を手に取る。「高血圧の薬、糖尿病の薬…」
「これ、すごく高くないですか?」健太が値段を見て驚く。「一箱で何千円もする」
「それが今日の話の入り口だ」天野は黒板に「医療格差」と書いた。「政策と生命の関係で、最も直接的な問題の一つだ」
遥が不安そうに言う。「医療って、お金がないと受けられないものなんですか?」
「日本には国民皆保険制度がある。誰でも一定の医療は受けられるはずだ」天野は説明を始めた。「でも現実には、経済格差が健康格差を生んでいる」
怜がすぐに分析する。「保険があっても、自己負担分が払えないってことですか?」
「それも一つの問題だ。でも、それだけではない」
天野は具体例から説明した。
「例えば、糖尿病の治療。薬代だけで月に数千円から1万円以上かかる場合がある。さらに定期的な検査、食事療法のための特別な食品…トータルで月に2、3万円の出費になることも」
葵が計算する。「年間で30万円近く…」
「低所得世帯にとっては大きな負担だ。結果として、必要な治療を途中でやめてしまう人が出てくる」
健太が心配そうに言う。「治療をやめたら、どうなるんですか?」
「病気が悪化する。糖尿病なら、失明や腎不全のリスクが高まる。最終的には透析が必要になったり、命に関わることもある」
遥がショックを受ける。「お金のせいで病気が悪化するなんて…」
「これを『治療中断』という。決して珍しい話ではない」
天野は統計を説明した。
「日本医師会の調査では、経済的理由で受診を控えた経験のある人が約3割。特に非正規雇用者や無職の人で多い」
怜が構造的問題を指摘する。「第2巻で学んだ雇用格差が、健康格差にも影響してる」
「まさにその通り。雇用が不安定だと、健康管理も困難になる」
天野は別の問題も提示した。
「予防医療の格差も深刻だ。がん検診の受診率を見ると、所得が高い人ほど受診率が高い」
葵が疑問を呈する。「でも、がん検診って自治体が安くやってませんか?」
「制度はある。でも、パートやアルバイトで働いている人は、平日昼間の検診に参加しにくい。仕事を休めば収入が減ってしまう」
健太が理解する。「時間的な余裕がないってことか」
「そうだ。さらに、検診で異常が見つかったときの精密検査費用への不安もある。『がんが見つかっても治療費が払えない』という恐怖から、検診自体を避ける人もいる」
遥が悲しそうに言う。「早期発見できれば治るかもしれないのに…」
「がんの5年生存率は、発見時期によって大きく変わる。経済格差が生存率の格差に直結している」
天野は更に深刻な例を出した。
「歯科医療の格差も見逃せない。歯科治療は保険適用外の部分が多く、特に子どもの矯正治療などは高額になる」
「虫歯を放置すると、最終的には全身の健康に影響する。心疾患のリスクも高まる」
葵が驚く。「歯が心臓の病気に関係するんですか?」
「口腔内の細菌が血管に入ることで、動脈硬化や心筋梗塞のリスクが高まることが分かっている」
怜が整理する。「つまり、経済格差が健康格差を生み、それがさらに深刻な病気を引き起こす」
「悪循環だね」健太が付け加える。
「そうだ。そして、この問題は地域格差とも関連している」
天野は地域医療の問題を説明した。
「都市部には病院が多いが、地方では医師不足が深刻。特に産婦人科、小児科、精神科の医師が不足している」
遥が心配する。「地方だと、必要な治療が受けられない?」
「受けられない場合や、遠距離の通院が必要な場合がある。交通費もばかにならない」
「過疎地では、救急車が到着するまでに1時間以上かかることもある。都市部なら数分で済むのに」
葵が不公平感を表す。「住んでる場所で生存率が変わるなんて」
「これらの問題は、すべて政策と関連している」天野は核心に触れた。
「医師の養成数、医学部の定員、診療報酬の設定、病院の配置計画…すべて政府が決めている」
健太が疑問を呈する。「じゃあ、なんで格差を解決しないんですか?」
「複雑な利害関係があるからだ」
天野は医療政策の難しさを説明した。
「医療費を下げれば、患者の負担は減る。でも医療機関の収入も減るため、サービスの質が低下する可能性がある」
「医師を増やせば地域格差は改善されるが、医師の給与水準が下がる。医師会は反対する」
「新しい病院を作れば利便性は向上するが、既存の病院の経営が悪化する」
怜が分析する。「利害関係者が多すぎて、調整が困難」
「まさにそうだ。でも、だからといって放置していいわけではない」
天野は海外の成功例を紹介した。
「イギリスのNHSは、医療費を原則無料にしている。治療中断や受診控えの問題はほとんどない」
遥が興味を示す。「どうやって財源を確保してるんですか?」
「税収で賄っている。国民の税負担は重いが、医療に関する不安はない」
「フランスでは、慢性疾患の患者の自己負担を無料にしている。糖尿病やがんの患者は、治療費を心配する必要がない」
葵が感心する。「そういう制度があるんですね」
「日本でも、改善の動きはある」天野は希望的な側面も示した。
「高額療養費制度の拡充、がん患者の就労支援、オンライン診療の普及…少しずつだが進歩している」
健太が現実的に聞く。「でも根本的な解決には、まだ時間がかかる?」
「そうだ。なぜなら、医療制度の改革には巨額の費用と時間が必要だから」
天野は財政面の課題を説明した。
「日本の医療費は年間約45兆円。これを大幅に増やすには、増税か他の予算削減が必要」
「高齢化で医療費は自然増している。現在の制度でも財政圧迫が問題になっている」
遥が不安になる。「じゃあ、医療格差はなくならないんでしょうか?」
「完全になくすのは困難だが、縮小することは可能だ」天野は建設的な方向性を示した。
「まず予防医療の充実。病気になってから治すより、病気にならないようにする方が費用対効果が高い」
「テクノロジーの活用も重要だ。AIによる診断支援、遠隔医療の拡充で、地域格差を縮小できる」
「そして何より、医療を『コスト』ではなく『投資』と考える発想の転換が必要だ」
怜が興味を示す。「投資ですか?」
「健康な国民が多ければ、労働力が維持され、経済も活性化する。医療費は社会への投資でもある」
葵が理解する。「長期的には社会全体の利益になる」
「そうだ。でも、その認識を社会全体で共有するのは簡単ではない」
天野は最後に生徒たちに問いかけた。
「君たちは、どんな医療制度が理想だと思う?」
健太が最初に答えた。「やっぱり、お金の心配をしないで治療を受けられるのが理想」
「でも財源の問題もあるから、バランスが大事」遥が付け加える。
「予防に力を入れて、病気になる人を減らすのが一番効率的だと思う」怜が分析する。
「地方でも都市部でも、同じ質の医療が受けられるようにしたい」葵が希望を述べる。
「みんな素晴らしい視点だ」天野は満足そうに頷いた。「そして、これらの理想を実現するのは、君たちの世代の責任でもある」
時計を見ると、いつもより長い時間が経っている。
「第5巻はこれで終わりだ」天野が教材を片付け始める。「次の第6巻では、これまで学んだことを踏まえて、私たち一人一人ができる政治参加について考えよう」
生徒たちが帰り支度をする中、遥が薬の空き箱を見つめていた。
「この薬を必要としている人が、ちゃんと治療を続けられる社会にしたいですね」
「きっとできる」葵が励ます。「問題が分かれば、解決策も見つけられる」
「時間はかかるかもしれないけど、諦めちゃダメだ」健太が続ける。
「データと事実に基づいて、冷静に議論していけば道は開ける」怜が締めくくった。
校舎を出ながら、天野は生徒たちの成長を感じていた。
3つの深刻な問題。自殺、子どもの貧困、医療格差。
どれも政策と直結し、人の生命に関わる問題だった。
でも生徒たちは絶望せず、希望を見出していた。
それが、未来への最大の希望なのかもしれない。
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**〈第5巻 完〉**
**〈第6巻「僕らの選択〜教室から始まる民主主義〜」へ続く〉**
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### 【第5巻で学んだこと・総まとめ】
**政策が生命に与える直接的影響**
自殺、子どもの貧困、医療格差という3つの問題を通じて、政治や経済の政策が人々の生命や健康に直接的な影響を与えることを学んだ。これらは統計の数字ではなく、実際の人間の人生に関わる問題。
**構造的問題の理解**
個人的な問題に見えることでも、実は社会システム全体の問題であることが多い。雇用制度、社会保障制度、医療制度の設計によって、人々の生活の質や生存可能性が大きく左右される。
**格差の複合的影響**
経済格差が教育格差を生み、それが将来の所得格差につながり、さらに健康格差まで引き起こすという複合的な悪循環。一つの格差が他の分野の格差を拡大させる構造。
**政策改善の可能性**
どの問題も解決不可能ではない。適切な政策と社会的取り組みにより、実際に改善した例が国内外に存在する。重要なのは社会全体での問題認識と改善への意志。
**投資としての社会政策**
自殺対策、子育て支援、医療制度の充実は、短期的にはコストがかかるが、長期的には社会全体の利益となる投資でもある。経済合理性と人道的価値の両面で正当化される。
**次世代への期待と責任**
これらの問題を根本的に解決するには、長期的な取り組みが必要。現在の若い世代が将来の社会を作る責任を負っており、問題への理解と解決への意志が重要。
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### 【実際のデータと根拠】
**医療格差の統計**
日本医師会「受診控えに関する調査」、厚生労働省「医療費の動向」、がん検診受診率の所得階層別データなど。
**地域医療格差**
厚生労働省「医師・歯科医師・薬剤師統計」、救急医療に関する消防庁統計。
**国際比較**
OECD Health Statistics、各国の医療制度に関する比較研究。NHS(英国)、フランスの医療制度は実在。
**医療費統計**
厚生労働省による医療費の将来推計、高額療養費制度の利用状況。
**予防医療の効果**
WHO等による予防医療の費用対効果分析、日本の特定健診・保健指導の効果測定。
**重要な配慮**
医療格差という深刻な問題を扱いながらも、現在病気で困っている人や経済的に困窮している人を傷つけない表現を心がけました。また、問題の解決可能性と社会全体での取り組みの重要性を強調しています。
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### 【作者より】
第5巻「数字が泣いている」を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
政策と生命の関係という最も重要なテーマを扱いました。自殺、子どもの貧困、医療格差…どれも重いテーマですが、決して絶望的な問題ではありません。適切な理解と取り組みにより、改善の道筋は見えています。
最終巻となる第6巻では、これまで学んだ知識を踏まえて、私たち一人一人ができる政治参加の方法を考えます。傍観者ではなく、当事者として社会に関わっていく方法を一緒に探しましょう。
数字の向こう側には、いつも人の人生があります。それを忘れずに、より良い社会を築いていきましょう。
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**次回予告**
**第6巻「僕らの選択〜教室から始まる民主主義〜」**
「情報の海で溺れないために」
「投票だけが民主主義?」
「未来への宿題」
5巻にわたって学んだ知識を、どう行動に移すか。
政治に興味のなかった高校生たちが見つけた、自分たちなりの答えとは。
教室から始まる、新しい民主主義の形。
最終巻、近日完結。




