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短編集

偽物の聖女と、廃嫡された王子さま

作者: Mel


『神に愛された姉と、母に愛された妹』の、その後の物語。

本作だけでもお楽しみいただけるようにしたつもりですが、前作もあわせてお読みいただければ、より物語の背景や人物の関係が伝わるかと思います。


 むかーしむかし、あるところに、神に仕える血筋を持つふたりの美しい姉妹がおりました。


 姉はどこかぼんやりしていて、融通の利かぬ変わり者。いつもひとりで、神へ祈りを捧げてばかりいました。

 妹は明るく愛嬌があり、誰からも慕われる人気者。やがて聖女に選ばれ、王子の婚約者にもなったのです。


 ……けれど、神が真に選んだのは姉でした。

 「聖女は姉である」との神託が下され、妹はその座を追われました。

 さらには神の怒りに触れた罰として――両の目の光を奪われてしまったのです。


 女の世界は、音もなく闇に沈みました。

 太陽の煌めきも、月の輝きも、愛しい人の笑顔さえも、二度と見ることは叶いません。


 それでも彼女の胸には、なおふたつの光が宿っていました。


 ひとつは、生まれたばかりの愛しい娘。

 もうひとつは、神罰を受け、半身不随となり、廃嫡の末に遠い塔に幽閉された王子さま。


 王子が神の怒りを買ったのは、真の聖女を顧みず、「偽物」と罵られた女への愛を選んだから。

 神に誓わぬまま女と契りを交わしたことも、重大な背信とされ、厳しく糾弾されたのです。


 女は幾度となく嘆きました。

 ――自らの愛が王子の未来を奪ったのではないか。

 憎まれているかもしれないと怯えながらも、それでもこの身が朽ちる前にもう一度だけ、王子に会いたいと願いました。


 ある朝、女は娘を実母に託し、一本の杖を手に取りました。

 光なき世界を歩む、長い旅路の始まりでした。


 娘を連れて行くことはできません。

 神に見放された己がそばにいれば、どんな厄災を招くか分からない。

 さらなる神罰を恐れる人々が、いつ娘に牙を剥くかも知れなかったからです。



 旅路は長く、道は険しく、苦難と屈辱の連続でした。


 女は幾度となく道を踏み外し、倒れ、その手足は泥と血にまみれていきました。

 行く先々で人々は彼女を指さし、嘲り、時には石を投げつけました。


「神に背いた罪人め!」

「真の聖女を貶めた、穢れた女だ!」


 その罵声は鋭い刃のように胸を突き刺します。

 冷たい地面に突っ伏し、このまま命を手放せたらと願った夜もありました。


 けれど、耳の奥にはいつも優しい声が響いていたのです。


『リリーナ、僕はいつだって君の味方だ』

『偽物だろうが真の聖女だろうが関係ない。僕が愛したのは、君だけだから』


 その声に導かれるように。

 女は杖を握りしめ、再び立ち上がりました。


 そして、闇に閉ざされた見果てぬ道を――。

 愛しい人の光を辿るように、歩み続けたのです。


 

 長い旅路の果て、女はついに目的の塔へと辿り着きました。

 厚い扉は固く閉ざされ、あたりは世界から切り離されたような静けさに包まれています。


 女は傷だらけの手で扉を叩き、かすれた声で呼びかけました。


「王子さま……私です。リリーナです……」


 その声は小鳥の囀りよりも弱々しく、それでも確かに空気を震わせました。


 やがて扉が軋みを立てて開き、そこに現れたのはひとりの老いた侍女でした。


「ああ……リリーナ様。まさか……まさかそのようなお姿で、ここまで……」


 侍女とは、かつて親しく言葉を交わした仲。

 その瞳にあふれた涙は、女の変わり果てた姿を映していました。


 塔の内は、外よりもさらに深い静寂に満ちていました。

 冷たい石の壁が吐息すらも飲み込み、まるで時間さえ眠ってしまったかのようです。


 侍女に導かれ、女はようやく王子の部屋へ辿り着きました。

 杖を預け、両手を前に差し出しながら、慎重に一歩ずつ闇を進みます。


「……リリーナ? 本当に……君なのか?」


 久しぶりに声を出したのでしょうか、せき込む声が続きます。

 けれど女の耳には、胸の奥深くに刻まれた懐かしい声音として届いたのです。

 

 女はその方向へそっと手を伸ばしました。

 やがて、冷たくもどこか懐かしい大きな手が、彼女の指先に触れます。

 その手がしっかりと彼女を包み込んだとき、胸の奥にほのかな光が灯った気がしました。


「ああ……セルジュ様……」


「リリーナ……!」


 ふたりは互いの存在を確かめるように、静かに抱き合いました。

 女はその胸に顔を埋め、堰を切ったように涙をこぼします。


 王子はもう、自らの足で立つことはできません。

 女はもう、世界の光を見ることができません。


 ふたりは、それぞれの身体の一部を失っていました。


 ――それでも、隔離された塔の中で共に生きることを選んだのです。

 


 王子は女の目となりました。

 窓の外に広がる空の色、飛び交う鳥の影、風に揺れる木々のさま。まるで詩を紡ぐように、言葉で描き出します。


「今日は空がとても澄んでいるよ。……まるで君の瞳の色のようだ」


 女は王子の足となりました。

 彼の声に導かれながら部屋を歩き、本を手に取り、花を活け、硬くなった彼の足を擦ります。


「編み物を始めてみたんです。……いつか、あの子に届けられればと」


 塔での暮らしは、決して華やかでも豊かでもありませんでした。

 最低限の世話をしてくれる侍女がいなければ、生きていくことすら難しかったでしょう。


 けれどその小さな空間には、誰にも邪魔されず、神の目さえ届かぬはずの――ふたりだけの世界があったのです。

 

 

 朝には王子が詩を読み、女はその声に耳を澄ませて手を重ねました。

 夕暮れには王子の奏でるリュートに合わせ、女が歌を紡ぎます。

 その歌声は窓から風に乗り、塔を過ぎゆく人々の耳にまで届いたといいます。


 ――あの塔の歌は、なぜか心を穏やかにする。


 やがてそんな噂が、村から村へと静かに広がっていきました。


 いつしか塔のまわりには、見たこともないほど鮮やかな花々が咲き誇るようになりました。

 沼地には本来あり得ぬはずの、不思議なほど美しい色彩があふれていたのです。


 ふたりはときおり遠くの空を見上げながら、互いにある話題をひそやかに交わしました。

 声にすれば胸が張り裂けてしまうその想いを、手と手のぬくもりで伝え合っていたのです。


 どれほど愛しくとも、名を呼ぶことはできず。

 どれほど会いたくとも、名乗ることはできず。


 それでも、あの子が幸せでありますようにと、ふたりは祈り続けました。

 もう二度と会えぬと知りながら、毎日のように一筋の涙を流しながら。

 


 ――何度も空を駆けた太陽と月が、そっと眠りについたある冬の夜のこと。

 暗闇に包まれた塔の近くの村には、松明と鍬を手にした人々が集まっていました。


 奇跡を語る者もいれば、神の怒りが再び訪れると怯える者もいたのでしょう。

 彼らにとってふたりの平穏は、あってはならぬものと映ったのです。


「聖女の名を汚した罪人が、また厄災を招こうとしているに違いない」

「神罰を恐れよ。あれは人を惑わす災いの種だ」


 火の手は花を焼き、松明は沼地を照らしました。

 けれど、その害意がふたりへ届くことはありませんでした。


 人々が今まさに塔へ踏み入ろうとしたその時――。

 塔の上空を裂くように、幾重にも広がるまばゆい光がふわりと空へと昇っていったのです。


 その光に目を奪われていた人々は、次の瞬間、息を呑みました。

 長い時を刻んできた古びた石の塔が、雪の中で音もなく、静かに崩れ落ちていったのです。


 ふたりの姿も、血の跡ひとつも、そこにはありませんでした。


 ただ、雪に埋もれかけた石のあいだから――。


 不器用に編まれたひとつの毛布だけが、ふたりの生きた証のように、静かに残されていました。

 


 あの光は、雷のように裁きを告げるものだったのでしょうか。

 それとも、雪のように静かな赦しを与えるものだったのでしょうか。


 誰にも、それは分かりません。


 

 むかーしむかし、どこかにある国のお話。


 目の見えない女の人と、足の動かない男の人が――。

 誰にも知られず、静かに愛し合った、そんなお話。

 


 ……おしまい。

 


 ………………………………


 ……………………


 …………

 


 息子が眠ったのを確かめて、私はそっと息をついた。


 母が本当に父と再会できたのかは、分からない。

 どんな最期を迎えたのかも、分からない。

 だってこれは人々の話を繋ぎ合わせ、勝手に作り上げられた――ただのお伽噺にすぎないのだから。


 古びた毛布を撫でながら、誰に言い聞かせるでもなく、ひとりごとのように囁く。


「……母様は、酷い女だったのよ」


 神を見下し、真の聖女であった伯母を侮り、罰を受けてなお――それでも父への愛を手放せなかった人。

 そして、生まれて間もない私に光を遺して、ひとりでいってしまった人。


 私に寄り添ってくれたのは、村から村へと渡り歩き、あるかも分からない神の目に怯えながらも、懸命に私を守ってくれた祖母だけ。

 その気丈な祖母が、あの日だけは髪を振り乱して泣いていたのだ。

 見たこともない女の人が、編み目の粗い毛布を抱えてこの家を訪れた、あの日に。


 私と同じ青い瞳を持つその人は、扉の陰に隠れていた私に気付くと、美しい顔を歪ませてぽつりと呟いた。


「あなたはいいわね。……等しく両親に愛されたのだから」


 彼女はすぐにハッとしたように目を伏せ、逃げるように家を出ていった。


 その後まもなく、あの人が母の姉にあたる人――真の聖女と呼ばれていた人物だと知った。

 神の寵愛を失い、力を喪ったという噂も耳にした。


 人々の語る神は平等で、そしてあまりにも厳格だから。

 ほんの小さな綻びさえも、決して見逃してはくれなかったのだろう。


 やがて、祖母も亡くなった。

 神がこの地を去ってなお、死の間際までうわ言のように同じ言葉を繰り返していた。


『お前の母は、酷い女だったのよ』


 そう言い続ければ神の赦しが得られると縋っていたのかもしれない。

 あるいは、そう言えば村人たちの目を逸らせると信じていたのかもしれない。


 祖母が刻みつけた呪いの言葉が、何度も何度も耳の奥で反響する。


「……そうね、本当に酷い人だったわ。私を置いていってしまったんだもの」



 ――それでも、私は。


 母様を愛しているのよ。


 

 毛布に顔を埋めてそう繰り返したとき。

 隣で眠る息子の小さな手が、私の指をぎゅっと握った。

 



 ――神に見放されても、私は生きることをやめませんでした。


 ――私があなたにできたことは、光を遺すことだけでした。


 ――ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 愚かな母で、本当にごめんなさい。



 愛しているわ、ミーシャ。



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― 新着の感想 ―
あれだけやりたい放題やって、100年も庇護せずに去るって、神を騙る悪魔か何かだったんじゃねえの
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