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第九編 卒都婆玉兎・中

 魔王城にただ独り、誰も味方がいないダリアンにとって、まず打開すべきはこの状況そのものだった。

 しかし、城に控える直属の配下から見れば、ダリアンなどオリヴァの小間使いとしか見られていないだろう。その様な小物が意見したところで、まず相手にもされない。

 ここでの自由が認められているにしても、思いもよらぬ地雷を踏み抜けば、その瞬間に、虫を潰すように握り潰されて終わるに違いなかった。


 その運命を避けるには、ただ一つ。魔界でも有力者の後ろ盾を手に入れるしかなかった。


 オリヴァを選んだのは、他に当てもなく、そして現状で最もその条件を満たす可能性が高いからだった。

 ただそれでも、オリヴァは魔王同様に危険な男だ。機嫌を損ねれば、いつ殺されても不思議ではなかった。


「実は──私を買い上げて頂きたいのです」

 ダリアンは膝を折り、頭を垂れた。その仕草は、表向きには従順そのものだった。

 低く、しかしよく通る声で訴え出る。

「あの館での生活も、慣れてしまえば苦もなかったのですが……」

 ダリアンはわざとらしく息を吐く。

「この魔王城に参りまして、あのような辛気臭い場所に戻る気が失せてしまいました──」

「ですからどうか、貴方様の配下として、おそばに置いて頂きたい」

 ダリアンはさらに一歩踏み込み、床に手をつき平伏した。


 跪き首を垂れるダリアンを前に、オリヴァは長椅子に身を預け、薄く笑った。

「ほう……、アルテアに背き、ネクロハイヴを裏切ると。そうまでして、我に取り入ろうとする理由を聞こうか」

 オリヴァの声は柔らかいが、その瞳にはダリアンは映らず、自身の長い爪を眺めていた。


「はい──。元々私は、同族を手にかけた裏切り者にございます。

身を隠して生きねば、追手に八つ裂きにされるだけにございましょう」

 ダリアンは顔を下げたまま、互いに視線を合わせることなく、言葉だけを続ける。


「しかし──強きヴァーキサル様の庇護さえあれば、私は再び、堂々と表舞台に立つことができる」

「……私は、生き延びたいのでございます」


 短い沈黙──オリヴァは目を細めると、椅子から身を起こし、ゆっくりと歩み寄る。

「随分と俗なことを言うではないか。アルテアがお前をよこした理由が、ますます分からん……ハッ」

 嘲笑とともに、彼はひれ伏すダリアンの傍らに腰を落とし、その顔を覗き込んだ。


「お前に何の価値がある? 裏切り者の忠誠に何の意味がある? 答えてみよ」

 その言葉は、触れただけで切り裂く鋭利な刃物のように鋭く響く。


「はい──。一つは、私はアクレオスの弱点を知っております」

 その瞬間、オリヴァの瞳がかすかに細められる。


「もう一つ。私が裏切ってきたのは、味方が弱かったからでございます。強きヴァーキサル様に仕える限り、裏切る理由など、どこにもございません」


 それを聞いたオリヴァはゆっくりと立ち上がり、薄く笑った。

「なるほど……。だがな──

お前は、いや……ヴァンパイアという種族はみな、嘘が下手よな」

 低く響く声は、冗談めかしていながらも確信に満ちている。


「お前の言葉の真偽を確かめる、最も正確で、そして簡単な方法を教えてやろう」

 それは、愉悦を帯びた声で囁いた。

 そして次の瞬間──オリヴァの手が音もなく伸び、平伏するダリアンの頭を鷲掴みにした。


 鉄鉤のような爪が頭皮を裂き、髪をつかみ上げると同時に、頭蓋を握り潰すほどの力が加わる。軋む骨の響きが自らの頭の奥で鳴り、鮮血が頬を伝って床に滴った。

 頭蓋への強烈な圧迫は激痛となり、全身を襲う。反射的にその手を振り払おうとするが、その手に力は入らない。


「理不尽な暴力──逃れられぬ痛み──そして、死……」

 オリヴァはその言葉をひとつひとつ噛み砕くように吐き出し、爪先をさらに食い込ませた。

「人も魔族も関係なく、そこに触れれば本性は剥き出しになる。恐怖の前に、飾り立てた言葉は剥ぎ取られるものよ」


 力はなおも増し、視界が白く弾け、鼓膜の奥で破裂音が鳴った。

 脳髄を掻き毟られるような激痛の中で、ダリアンはただ己の命が風前の灯にあると悟った。


 しかし、次の瞬間──締め付けていた力がふっと緩んだ。

「アクレオスの弱点とはなんだ? 言ってみろ」

 その僅かな間に、低く冷淡な声が響いた。しかしすぐに、爪が再びじわじわと頭蓋に食い込んでいく。

 キリキリと万力が締め上げるように、骨がきしむ音と共に、脳を圧迫する激痛が走る。あまりの痛みに、視界は揺らぎ、耳鳴りが轟いた。


「……っ、ぐ……!」

 平衡感覚が崩壊し、じわじわと暗闇に浸食され意識の混濁が始まる。

 追い詰められた本心が、ついに口から洩れ出かける──


 だが、それを寸前のところで食い止めた。

 それを拒んだのは、もはや策でも打算でもない。最後に残された、たったひとつの真実だった。


「──アクレオスは……今、なんと……言って、いますか……」

 ダリアンの口から、まるで最後の言葉のように絞り出されたのは、問いへの回答ではなかった。

 その返答は悪手のように思われた。オリヴァの機嫌を逆撫でし、今ここで頭蓋を割られてもおかしくはない。

 しかし──そうはならなかった。

 それどころか、頭を締め付けていた爪は、再びわずかに緩みをみせた。


「アクレオスは玉座を奪って以来、何も語らず、何も為してはおらぬ。まるで玉座に繋がれた番犬のように、ただ座しているだけだ」

 オリヴァはダリアンの命をなおも握りながら、その問いに律儀に答えた。


「もっとも、野心を抱いたところで、何もできまい──。あやつ自身の手で、魔王軍の大半を屠ったのだ。再編が整うまでには、まだ時を要する」

 そして、愉悦を滲ませるように口端を吊り上げる。

「……それでもあやつが自ら、人間との戦の矢面に立つというのなら、止める道理はないがな」


「で──それがどうした?」

 次の瞬間、地を這うような声音に切り替わり、オリヴァの爪はさらに深く肉を抉るように締めつけた。

 これまでのすべては、ダリアンを弄ぶ戯れに過ぎなかったかのように、生への望みを無惨に断ち切っていく。


「……もう、ひとつ──アクレオスを、殺して……あとは、どう、なさいますか?」

 声にならぬ呻きを押し殺しながら、ダリアンはなおも言葉を絞り出した。その身体は痛みに軋みながらも、さらに質問を重ねる。


 オリヴァの唇が、その答えを告げようとわずかに僅かに開いた時──

 ダリアンの視界は闇に閉ざされ、意識は深い淵へと沈み込んでいった……。


 オリヴァはダリアンの身体から力が抜けたのを感じ取ると、言葉を飲み込み、その強情に一笑した。


 ──目を覚ました時、ダリアンは魔王城の見知らぬ一室に寝かされていた。

 頭の傷はすでに治療されており、跡さえ残っていない。

 あれからどれほどの時間が経ったのか定かではないが、まずは生き延びたことに、彼はほっと息をついた。


 だが、すぐに胸を重くする思いが押し寄せる。

 命を賭して挑んだあのやり取りは、オリヴァには何ひとつ通じなかった。思惑は容易く見抜かれ、得られたものは何もなかった。


 いや──違う。

 あの場で最も大きな意味を持っていたのは、オリヴァが自分を殺さなかったという事実そのものだった。

 彼は少なくとも、ダリアンには生かしておく価値があると認めている。

 その確証を得たことこそ、次へ繋げるための確かな足掛かりだった。


 それに、あの会話で分かったこともあった。

 オリヴァはアクレオスを傍らで監視し、そして排除した後のことまで考えている。決して激情に突き動かされて行動しているわけではない。


 ああ見えて、オリヴァは魔界全体を俯瞰している。

 あるいは、人間界との均衡すら秤にかけながら、次の一手を選び取っているのかもしれない。

 それほどの思慮をもった上級悪魔だからこそ、この魔王城において揺るぎない立場を築いているのだ。

 決して頂点に君臨することなく、ただその傍らで──。


 元通りに癒えた頭を、そっと撫でて確かめる。

 痛みはすでになく、思考も澄んでいる。次に取るべき行動も、いくつか考え付いた。

 ──だがそれでもなお、ダリアンの職務である禁術書の回収を成し遂げるには、心もとなかった。


 その時だった。ふと、部屋の扉が静かに開いた。

 入ってきたのは、小間使いのような風体をした女。彼女は軽やかな足取りでダリアンの寝台の傍らに近づくと、柔らかな声で囁いた。


「……まだ、安静になさっていた方がよろしいですよ」

 優しげな言葉とは裏腹に、その声音を耳にした瞬間、ダリアンの心臓は大きく波打った。

 その声は、忘れようのない聞き覚えのある声だった。


「どうして……ここに……」 ダリアンは目を見開き、女中の顔を覗き込んだ。

 粗末な服に身を包んでいても、その顔は間違いなく、リアラだった。


「魔王から禁術書を回収するのは大変だろうと、マクス様が私たちをこちらに寄こしたのです」

 そのダリアンの反応を予測していたかのように、その理由を流暢に述べながら微笑んだ。

「……たち?」 ささいな疑問が浮かぶ。

「ええ、私の他にもうひとりいたのですが……好き勝手に動いて、どこかへ行ってしまいました」

 濁された言葉には、困惑よりもむしろ楽しげな響きが混じっていた。


 思いもよらぬ援軍は、孤独な戦いを覚悟していたダリアンにとって、これ以上ないほど心強いものだった。

 だが同時に、自分以外の命運を握ることになる責任は、その行動に新たな問題も積み上げた。

 オリヴァにやった命を投げ出すような一手は、もう許されない。ひとつの判断の間違いが、全てを終わらせかねないのだから。

 そこに息苦しさすら覚えつつ、それでも次に進むために、リアラにひとつ尋ねた。


「──リアラは、アクレオスをどう思う?」

 ダリアンの質問に、リアラは近くの椅子に腰かけると、ゆっくりと話し出した。


「カレンとナイアスが禁術『核融合切縫ソーレ・ロヴェシャート』を使ったことで融合体となったアクレオスの力は、元々宿していたウィンディーネとサラマンダーの両精霊の力も融合し、恐るべきものとなっています。

果たして、あの魔王に打ち勝てる者など、この世にいるのでしょうか……」

 その声音は柔らかくありながら、どこか冷たい無感情さを覗かせる。


「ですが──核融合切縫は、力の継承は出来ても、精神までは出来ません。二つの精神は曖昧になり、むしろ心は不安定になってしまう」

 リアラはそこまで語ると、膝の上で指を組み、静かに視線を落とす。


「アクレオスはいわば、子供なのですよ。記憶は曖昧で、自分がなぜ生まれたのかさえ知らない。

……無垢であるがゆえに残忍で、力を振るうことに一切の躊躇いがない。その力の行使が何をもたらすのかを知ろうともしない」

 リアラの言葉には、哀れみに似た響きが混じっていた。


「それは、その一面だけを捉えれば、魔王の資質に優れているように映るでしょうね。

圧倒的な力を容赦なく行使し、あらゆるものを破壊し尽くす──その姿はまさに、魔王そのものなのですから……」

 その声は落ち着いていたが、瞳の奥には薄い恐怖が揺らいでいた。


 「ですが──その先を、決めることはできません。目の前の邪魔者は倒せても、その後が分からない。考える理性を持たない。

その子供は、自らに世界を滅ぼすほどの力があることすら知らず、あの玉座にしがみ付くことしかできないのです」

 リアラの吐息が、わずかに部屋の静けさを震わせた。


 その鋭い洞察は、ダリアンの胸を突いた。禁術書を知っているからこそ見える真相は、ダリアンから言葉を奪った。

 いや──奪ったのではない。彼自身が、目を逸らしてきた真実だったのだ。

 禁術『核融合切縫』を与えた者として、元のふたりを知る者として、この結末はダリアンにとって残酷なものだった。


 アクレオスは哀れな存在だ。力だけを押し付けられ、己が誰かも分からず、孤独な玉座に縛られている。

 もし、この答えをオリヴァに告げたなら、彼は決して許しはしないだろう──玉座に座る資格の無い者を。

 どれほど強大な力を持っていようとも、精神が未熟な者を罠にかけることなど、彼にとってはたやすいことだ。なにも禁術に頼る必要もない。

 だが、それはあり得ない。ネクロハイヴ禁術書館の司書として、それは決して許されない。


 しかし、オリヴァとて愚鈍な魔族ではない。ダリアンが何もせずとも、遅かれ早かれ同じ答えに辿り着くだろう。

 むしろ、今回の接触は──貴重な情報を引き出す代わりに、彼に重大なヒントを与えてしまったのかもしれない。

 ダリアンの胸の奥に冷たい焦りがじわじわと広がっていく。もうすでに、オリヴァが行動に移していても、何ら不思議はなかった。


「──アクレオスと、言葉を交わせるだろうか」

 ダリアンは、リアラに言ってもしょうがないのに、そう呟かずにはいられなかった。

 リアラは少し考え込み、静かに首を傾ける。


「それは……難しいかもしれませんね」

「大人の言葉を子供に届ける以上に、子供の言葉は大人には届かないものですから……」

 彼女の穏やかな声の中に、どこか痛みを含んでいた。しかし、最後にこう付け加えた。


「──でも、子供同士なら上手くいくかもしれません」

 そう囁くリアラの口元は小さく笑っていた。


 魔王の間──その高い天井の下、玉座には魔王アクレオスのみ、他には一つの影も存在しない。

 その孤独の広間に、一つの小さな影が現れる。それは、臆することなく魔王の前に歩み寄ると、笑いかけた。


「やあ、魔王さま。こんにちは。僕はロロ・ゼバラフ。ロロでいいよ」

 その言葉も態度も、魔王との謁見とは思えないほど軽々しい。

 けれど、アクレオスはただ玉座の上で、それに応えるでも、咎めるでもなくただ眺めている。


「いやぁ、さすが世界を統べる王様の城。とても広くて、ここに来るのに随分迷っちゃいましたよ」

 ロロは気にも留めず、にこにこと笑いながら言葉を重ねた。

「でもおかげで、とても面白い所を見つけたんだ。

ねぇ知ってる? 東の三番目の塔には、歴代の魔王様の肖像画が飾ってあるんだよ。

もうすぐ君の顔も、あの中に並ぶのかな?」

 それでも、アクレオスは沈黙を崩さなかった。

 まるで、どう返せばいいのか分からない子どものように、ただロロを見つめていた。


「そうだ!」 不意に、ロロがぱっと顔を明るくし、声を上げた。

「今から一緒に見に行こうよ!」


 その呼びかけに、玉座の上で微動だにしなかったアクレオスが、ゆっくりと顔を上げ、これまで閉ざされ続けてきた唇が、ようやく言葉をこぼした。

「ああ……」

 その小さな返答に、ロロは飛び切りの笑顔を向けて、魔王様に深々と一礼した。

「決まりだね、魔王さま」

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