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第七編 核融合切縫

 その日、ネクロハイヴ禁術書館にふたりの来館者が訪れていた。

「ネクロハイヴ禁術書館によく御出で下さいました。

私は、ダリアン・アザール・ノクシガー。どうぞよろしくお願いします」

 応接の所作もすでに板につき、ダリアンは誰の助けを借りることもなく、落ち着いた声でふたりを迎えた。


「カレン ・ファービオ様。ナイアス・アクアリア様。今宵は、何を御所望ですか?」


 その声に、カレンと呼ばれた女性が真っ先に口を開いた。

「私は、この男と添い遂げたい。そのために、ここの禁術の力を借りたい」

 歯切れよく言い切る声音とは裏腹に、彼女の眼差しにはどこか切実さと焦燥が滲んでいた。隣に立つナイアスは黙したまま、カレンの言葉を否定も肯定もせず、ただ複雑な表情で彼女を見守っている。


 ──これが、ささやかな色恋沙汰に過ぎぬことなら、追い返すところだ。だが、この禁術書館の扉をくぐるほどの覚悟を持つ者が、ただの痴話事を持ち込むはずもない。

 目の前のふたりは、一見すれば穏やかで問題を抱えているようには見えない。

 しかし、だからこそダリアンは細めた眼をさらに深くし、まずは彼らの語る事情に耳を傾けることにした。


「──私たちはそれぞれの部族で、代々受け継いできた『精霊の器』の、当代の依り代として選ばれた」

 カレンはゆっくりと、自身と彼の身の上から語り始めた。


「私の部族は、火の精霊サラマンダーを崇め、ナイアスのところでは、水の精霊ウィンディーネを奉っている」

「……本来ならば、依り代となった時点で、この身は精霊に支配され、部族の守護霊となり生きるはずだった。

精霊を宿す者同士、こうやって横に並ぶこともなく……」

 カレンは言葉を区切り、ぎゅっと胸の前で両の手を握りしめた。


 横にいたナイアスが小さく息を吐き、静かに言葉を継いだ。

「──ですが、僕たちの魔力は歴代でも群を抜いて強く、精霊との親和性も高かった。そのおかげで、精霊の支配に抗うことができたのです。偶然にも、二人そろって……」


「何分、前例のないことでしたから、部族の長たちも僕たちをどう扱うべきか迷いました。

”精霊の支配を改めて受け入れさせよ”という声も上がりましたが……結局、僕たちに危害を加えるような行為は回避されました」

 ナイアスの言葉に、カレンがうなずき、続けた。


「そして、私たちには自由が与えられた。義務や制約はあったが、それでも日々の暮らしに不自由はなかった……少なくとも、表向きは」

 そこで彼女は言葉を切り、短く息を飲む。

「でも……私たちは出会ってしまった──」

 二人は一瞬、視線を交わした。それは確かな愛情の輝きでありながら、背後に深い絶望の影をも宿していた。


「──最初は、互いにただ異質な存在として見ていただけだった。

火と水、相反する精霊を宿す者同士、本来なら絶対に交わるはずのない立場……」

 カレンの声は震えていたが、やがて静かに結ばれる。


「けれど、言葉を交わすたびに分かった。同じ孤独を知り、同じ苦悩を背負う者だと……」

「……私たちは、気付けば惹かれ合っていた。

精霊をその身に宿し、圧倒的な力を下僕とした者を支えられるのは、お互いしかいなかった」

「他の誰も理解できない重責と孤独を分かち合えるのは、同じ器として選ばれた相手だけ。それは、恋慕を超えて確かな絆へと変わっていった」

「だけど──その精霊の力が邪魔をする。相反する属性を宿すこの身は、相手の肌に触れることすら許さない……」

 彼女はそこで言葉を詰まらせ、視線を落とした。


 その沈黙を埋めるように、ナイアスが静かに口を開く。

「──この精霊の力を封じる禁術はありませんか?」


 それまで、ただ静かにふたりの話に耳を傾けていたダリアンは、その問いに応えるため、ようやく口を開いた。

「……ええ、当館にはございます」


 低く抑えた声に、二人の肩がわずかに震える。

「元来、封印術とは対象に呪いを与えるのと等しい行為です。ですので、禁術との相性は良いです。

しかし、良いというのは術の成立に限っての話です」

 ダリアンは視線を落とし、しばし沈黙したのち、静かに続けた。

「その術を受けた者は、呪いに等しい苦しみに苛まれることとなるでしょう。

……それは果たして、あなた方の望む“添い遂げたい”という願いに適うものでしょうか?」


 言葉は刃のように鋭く、現実を突きつける。

 重苦しい空気が流れ、カレンは俯いたまま拳を強く握りしめた。

 だが、ナイアスはその横顔を見つめると、迷いのない声で口を開いた。


「……たとえ苦しみが待っていようと、僕は彼女と生きたい」

 その言葉にカレンの肩が震え、堪えきれぬ思いが零れ落ちる。

「私も……同じだ。苦しみのない日々があっても、彼と触れられないのなら、それは生きているとは言えない」


 二人の視線が再び重なり合う。

 その瞳には、確かな愛情の輝きと、どんな絶望にも抗おうとする強靭な意志が宿っていた。

 ダリアンは深く息を吐き、まるで遠い昔の自分を見ているかのように、わずかに哀しげな眼差しを向けた。


 かつての恋人──唯一愛した人間、アルテアを思い出す。

 人と魔族の間には、決して越えられぬ種族の壁がある。だがそれでも、アルテアは自分を受け入れてくれた。その彼女の真っ直ぐな瞳に、ダリアンもまた焦がれずにはいられなかった。


 だが──その先に”幸せ”はなかった。

 人と魔の間に積み重なる憎悪の歴史。

 交わることを許さぬほど残酷な時間の流れの違い。

 そして、魔族の血に刻まれた抗いようのない衝動。

 どれ一つ取っても、ふたりの未来に不幸を連れてくる死神でしかなかった。


 自然の成り行きに任せていては成就しない愛は、禁術によって禁忌を犯してこそ成し遂げられる──

 その理屈は確かに一理ある。だが同時に、それはあまりに危険で、より多くの不幸を呼び込むことにしかならないだろう。

 だがそれでも、もし彼らが本気で望むのなら、地獄へ突き落としてやるのも、また俺の役目──。

 ダリアンの胸の奥に刻まれた古い傷が疼く。かつてアルテアと交わした情と、その果ての破滅の記憶が、目の前に立つふたりの未来を暗く照らした。


「──では、私から二つの禁術書を紹介しましょう」

 声を落とすダリアンから二つの禁術書が、ふたりの前に差し出された。

「まずはこちら──『乗体替身(じょうたいかえみ)』の禁術書です」

 ダリアンは一冊の黒ずんだ羊皮紙の装丁を静かに掲げ、淡々と続けた。


「この禁術は、肉と血、その器を文字どおり奪い取り、そこに別の意思を入れ替えるもの。

言い換えれば、肉体をそのままにして魂だけをすげ替える……肉体の乗っ取りと言える禁術です」

 重苦しい沈黙が落ちた。説明を聞くふたりの表情に、わずかな怯えと期待が交じるのをダリアンは見逃さなかった。


「──この禁術を行うにあたり、確認しておかなければならないことが二つあります」

 声にわずかに厳しさを滲ませ、彼はゆっくりと視線を二人へ向ける。

「まず、あなた方の身代わりを、用意できますか?

そして……互いの姿が別人に変わったとして、それでもなお、愛し合えると互いに信じられますか?」


 ダリアンの問いは静かだった。だがその一言一言は鋭利な刃のようにふたりの胸に深く突き刺さる。

 痛みを押し殺すように、ナイアスはその問いに迷いなく答えた。

「迷う余地はありません。たとえ姿が変わろうとも、私が愛するのはただ一人、彼女だけです」


 その言葉に、ダリアンはふと目を細める。二人の純粋な愛をあざ笑うでもなく、祝福するでもなく、ただ冷徹に真実を告げる者の声で答えた。

「──この禁術は、入れ替えです。奪った肉体の中にある精神は、術者の元の肉体に押し込まれる。貴方たちのその体は、別人のものとなるわけです。それも構いませんか?」


 それを聞いたカレンは狼狽えた。

「……それは危険だ。それでは、精霊の依り代を譲渡することになってしまう。

身代わりにした者が、この禁術で入れ替わったこと自体を闇に葬ろうと画策した時、私たちは口封じのために狙われる」

「その時──精霊の力を失った私たちに、勝ち目はない」

 言い切った後、助けを求めるようにナイアスに視線を向ける。

 しかし、ナイアスも俯いたまま沈黙する。握りしめた拳に力を込めてはいるものの、それに意味はない事を理解していた。


 彼女たちの置かれた特殊な状況は、この禁術を迂闊には使用できなくさせた。

 精霊の力に翻弄される運命からの解放──それは、ふたりの目指すところではないのだ。ふたりが本当に求めているのは、自由になる事ではなく、添い遂げること。

 ただ肩を並べ、子を成し、ひとつの家族としてささやかな幸福を築く──それが願いなのだ。


 目の前にある行き止まりに抗うふたりの姿は、ダリアンに過去を考えさせる。

 ──もし、アルテアとの関係が今も続いていたとしても、俺はアルテアと子を成そうとはしなかっただろう。

 ふたりの間に子が生まれたなら、その子はきっと、不幸な呪いを持つ者として人と魔の狭間で苦しむことになる。

 分かっている不幸を、無垢な命に押し付けることなど──俺もアルテアも望むはずがなかった。


「──では、こちらの禁術書はどうでしょう」

 ダリアンはゆっくりと立ち上がり、棚の奥から一冊の書を取り出した。漆黒の装丁は光を吸い込み、まるで手にする者の魂までも絡め取ろうとするかのように重々しい。

「この禁術書の名は──『核融合切縫ソーレ・ロヴェシャート』。おそらくは、おふたりの願いに応える唯一の禁術となるでしょう」


 ダリアンの言葉は低く、妖しい響きを帯びていた。

 まるで禁忌そのものが口を利き誘い込むかのような声色に、カレンとナイアスは抗えず視線を引き寄せられる。指先がわずかに震えながらも、二人はその黒き書を凝視していた。


「この禁術は、二つの存在を一つに融合させるものです。

肉体、魂、そして貴方たちのその奥底に宿る精霊までもを、境目なく縫い合わせる……。

本来なら相反し、決して混じり合うことのないものを、一つの核へと束ね上げる術──」

「成功すれば、あなた方はふたりでありながらひとりとなる。

その力も、その心も、すべてが共有され、分かちがたいものとなるでしょう」


 それは、ふたりが願い描いた未来を与える禁術ではなかった。

 ダリアンの説明を聞いた瞬間、二人は言葉を失った。だが同時に、否定する言葉も忘れさせていた。

 愛を禁術で償えば、その代償に愛を奪われる──。

 まるでそれが、この世に定められた摂理であるかのように、残酷な試練がふたりの前に突きつけられていた。


「そして──この禁術によって一つとなったとき、人格も意思も混ざり合い、もはやどちらがどちらかを判別することはできません。

どこまでが貴方で、どこからが相手か……自我の境界は溶け合い、やがては自分が誰であったのかすら曖昧になる。融合した理由も、その事実さえも、忘れてしまうかもしれません」


 ダリアンの声は、淡々としながらも重い響きを持って、二人の心を試すかのように静かに降り注いだ。

 希望と恐怖が同時にふたりの胸を満たし、互いの存在だけがその揺らぎを支えていた。

 カレンの瞳には恐れと覚悟が入り混じった光があった。

 ナイアスはその瞳から目を逸らさずに、決意をもってすべてを受け入れようとした。

 それはもはや一個人の恋慕で済む話ではなく、火と水という相反する存在が一つに交わろうとする、背徳と奇跡の物語の始まりを予感させた。


 ──沈黙が訪れる。やがて、カレンが小さく頷き、ナイアスに微笑みかけた。

「……自分が消えても構わない。私たちが一緒であるなら」

 ナイアスもまた、揺るぎのない瞳で応えた。

「たとえ名前を忘れ、姿を忘れ、自分自身を忘れても……それが君とひとつである証ならば、何も恐れることはない」

 二人の愛は、禁術の残酷さをも超える確かなものだった。


「──おふたりの決意が揺るぎないものであるならば、どうぞ、この禁術書をお取りください」

 ダリアンは核融合切縫の禁術書を、恭しく相手の手元に差し出した。だがその声音には、なおも鋭い影が潜む。

「ただ……最後に伝えておかなければならないことが一つございます。

──この禁術は、解除が可能です」


 そこで彼は言葉を切り、ふたりをじっと見据えた。

「しかしそれは──融合後の人格が強く望めば、ですが……。

融合した存在が、もはやどちらであると呼べるかは分からない。その時、かつてのあなた方が抱いていた願いを、覚えている保証はどこにもありません。

この説明を今お伝えしていても、果たして思い出せるかどうかすら──」


 しかし、その補足は、すでに決意を固めたふたりには意味を成さなかった。

 己を犠牲としてでも相手と添い遂げたい願いは、もはや理解を超えた、愛と呼べるかも定かですらない倒錯した情念となっている。

 ふたりには後戻りの道は必要なく、ただ、ひとつの未来を選ぶという揺るぎない覚悟だけが残っていた。

 そして、迷うことなく禁術書を手に取った。


 ──二つの命の遺伝子が結びつき、一つの新たな命を誕生させる。これは神が定めた自然の摂理である。

 そして、この生殖以外の方法による生命の誕生を、神は認めない。この禁術はまさに、生物の境界を乱す神に背く禁忌そのものだった。

 核融合切縫は、その代償に『親の命』を求める。

 その犠牲の果てに生まれるのは、親の人格や能力を受け継ぐ新たな存在。そこに、生殖と大きな違いはない。

 それすらも、原初の生命への回帰とみれば、我が身を犠牲に子を成す行為は、ごく自然なことですらある。


 あるいは、この禁術に手を出さなければ、ふたりは幸せなのかもしれない。

 だが、それでは満たされぬどうしようもない衝動に駆られるのもまた、人魔を超えた摂理に他ならなかった。


 ネクロハイヴ禁術書館からふたりを見送った時、ダリアンは再訪を願う言葉を掛けなかった。

 そして、彼の作法が正しかったと証明するように、禁術書を持ち帰ったのち猶予も置かずに、二つの命は禁術『核融合切縫』によってひとつとなった──。


 術式が発動した瞬間、世界そのものが軋みを上げた。それは、二つの精霊の断末魔だった。

 空気は燃え立つほどに熱せられ、しかし同時に凍りつくような冷気が交じり合い、周囲は激しい熱と氷の嵐に呑み込まれる。

 精霊の宿主である肉体の境界は溶け崩れ、皮膚も骨も血も、光と闇の奔流のなかで意味を失っていく。魂は悲鳴を上げながらも絡み合い、分かたれることを拒むように強引に縫い合わされていった。


 耳をつんざく轟音は、もはや精霊の悲鳴とも魔物の嘆きとも判別できない。歓喜と絶望、愛と憎悪、そのすべてが渦を巻いてうねり、天へと昇る咆哮へと変わった。

 眩い閃光は大地を白く塗りつぶし、目を閉じても瞼を貫いて焼き付ける。皮膚を裂くような熱は、やがて空間そのものを震わせ、裂け目の向こうから異界の気配すら滲み出した。


 そして──光が収束したとき。そこに立っていたのは、もはやカレンでもナイアスでもなかった。

 彼女であり、彼であり、それでいてどちらでもない新たな存在。それは、相反する精霊すら呑み込み、この世の摂理からも外れた、魔を越境する力そのものだった。


 目覚めた超越者が最初に為したことは、かつて互いが生まれ育った部族を滅ぼすことだった。

 その行動に理屈も迷いもなかった。ただ、融合によって宿した二大精霊の力の前に、誰ひとり抗うことは叶わなかった。

 蒼き奔流は冷徹に、紅き奔流は烈しく、両極の衝動が一つとなって荒れ狂い、抗おうとした者は誰ひとりとして生き残れなかった。

 彼らを知っていた者、彼らの名を呼びうる者、血を分けた肉親でさえ容赦なく、一切の情を焼き払った。


 その惨禍は、果たしてカレンの憎悪だったのか、ナイアスの絶望だったのか。

 あるいはすでに、融合の果てに生まれた別の存在の欲望にすぎなかったのか。


 ただ、その目は世界を拒絶する蒼と、世界を欲する紅の二色に燃えていた──


 その出来事は瞬く間に魔界全土へと伝わり、やがて現魔王の耳にも届くこととなった。

 突如として、圧倒的な力を持って現れた異形の存在の噂は、玉座に届けられる前に幾度も誇張が重ねられたが、それでも実際に起きた惨禍の凄惨さには及ばなかった。


 魔王軍は当初、その力を恐れると同時に利用しようと考えた。懐柔し、自軍に引き入れることができれば、敵対勢力にとって脅威となるだけでなく、自らの覇業を揺るぎなきものとする貴重な戦力になると目論んだのである。

 だが──その交渉は、あっけなく決裂した。


 軍は懐柔にあたり、破格の待遇を用意した。将軍の地位、望む領地、およそ望むものはすべてを与える条件だった。

 しかし、派遣された軍勢は、将から兵に至るまで、たったひとりに悉く屠られた。帰還する者は誰一人おらず、残されたのは戦場に響いた悲鳴と、燃え尽きた屍の山だけだった。


 その報告を受けた魔王は、血が煮えたぎるような怒りに震えた。

 己の威光を嘲るその行為は、魔王への挑戦、宣戦布告に他ならなかった。この許し難き侮辱に対し、魔王の指は玉座の肘掛けを強く握り潰した。その後伸ばされた指先は、玉座を脅かす者へと真っ直ぐに向けられた。

 恐怖の色を帯びた怒りは、魔王城の広間を重苦しい沈黙で包む。兵は誰ひとりとも何も語らず、ただ、その指と同じ方角へと一斉に進軍を開始した。


 こうして、玉座の命に従った無数の兵は、そのたったひとりを討ち滅ぼすべく、魔界の赤い砂漠に集結を果たす。

 そして、赤い広大な砂漠にて、その苛烈な戦いは始まった──。

 地を揺るがす闇の声とともに、魔王軍は黒雲のごとく押し寄せた。獣じみた咆哮、槍の林立、魔術の光──数万の兵が大地を埋め尽くし、ただひとりの敵を飲み込もうとする。


 その中心に立つ超越者は、蒼と紅の二色を宿す双眸をゆっくりと開いた。

 火と水の精霊が融合した力が解き放たれる。その瞬間、空気が裂け、大地が軋む。蒼と紅の奔流は荒れ狂い、渦となって、大地に大穴を空けたように、万の兵を容赦なく呑み込んでいった。


 その光景を前にしても、魔族の将たちは怯むことなく、陣を立て直す。空には翼を持つ軍勢が飛び、地には巨躯の魔獣が放たれた。

 その動きに呪術師たちが詠唱を合わせると、黒き鎖が空間を縛り、重力すらねじ曲げて超越者の動きを封じた。


 だが──その鎖は紅と蒼の渦に触れた瞬間、粉々に砕け散った。

 相反する属性は、その魔力の内部で激しく衝突を繰り返し、あらゆるものを消滅させる。それは攻撃のみならず、魔術の防壁すら例外ではない。魔王軍に、この力に対抗できる者はいなかった。


 超越者が躊躇なくその腕を振るうと、大地は裂かれ、地上の獣を呑み込む断層が走った。

 空から襲いかかる魔獣の群れも例外なく、渦は空を割り、悉くを血に染めた。


 戦場はもはや戦いではなく、ただの殺戮だった。

 だがそれでも、魔王軍は退くことはなかった。怒り狂う魔王の命を受け、将兵は死をもって道を切り開こうと突撃を繰り返した。

 大地は裂け、空は燃え、阿鼻叫喚と断末魔が交錯する中、超越者はただひとり一言も発することはなかった。


 やがて、戦場を埋め尽くしていたはずの兵の影はその実体をなくし、最後に残った者たちがその運命ごと渦の中に消えると、そこに訪れたのは、焦げついた大地の匂いと、耐えがたいほどの静寂だけだった。

 ただ、その光景を蒼と紅の双眸だけが、映す。

 そして、その静寂こそが、魔界に新たな王が誕生したことを告げる福音となった──


 超越者がこの戦いの勝利をもって、魔王城へ凱旋を果たすと、城の広間に響いたのは歓声でも怒号でもなく、ただ沈黙だけだった。

 軍勢の大半を失った魔王は、残った配下の前で、抗うことなく膝を折り、この者に頭を垂れて迎えた。その姿は、魔王の威厳にはほど遠い、戦いを諦め、命乞いをする哀れな姿だった。


 超越者はその魔王を前に、一瞥すら惜しむように、ただ魔力を迸らせ、服従を示したその首を容赦なく刎ね落とした。

 鮮血に染まる玉座に、超越者は静かに腰を下ろす。

 そして、極寒の灼熱を宿す双眸で広間を見渡すと、新たな王の宣告を果たした。


「──我が名は、アクレオス・カリス・イグナクア──」


 新しき魔王、アクレオスの誕生は瞬く間に魔界全土へと響き渡った。

 荒れ果てた大地を覆う黒雲は、不吉の兆しとして新たな魔王の誕生を祝福し、闇に潜む魔族の群れはざわめき立った。たったひとりで魔王軍を蹂躙した戦いは伝説として語り継がれ、ある者は歓喜に震え、またある者は絶望の淵へと沈み落ちた。


 古の魔族たちは、かつてこの世界を死と闇で統べた魔王カイリスの影を、アクレオスの姿に重ね合わせ、「カイリスの再来」と囁き合う。

 伝説の中で、その謎めいた出自と、誰も抗うことのできない圧倒的な力だけが、真実として生きる。

 それは祝福か災厄かも分からぬまま、魔界全土を不穏な予兆で覆い尽くしていった──。


 魔界全土は大きく揺れ動き、混乱と恐怖が渦巻いていた。

 それでもなお、その中で唯一ネクロハイヴ禁術書館だけは、不気味なほどの静謐を保ち続けている。外界から隔絶されたこの書館は、外の動乱を拒絶するようにただ沈黙し、古の禁術書と禁断の知識だけが言葉を紡いでいた。


 たとえ、その混乱の元凶に禁術書が関わっていたとしても、司書に咎が及ぶことはない。

 禁術に手を染めておきながら、望まぬ結末に他者を責め立てるなど、魔界においても通らぬ道理である。

 不条理にも、その禁術の力に巻き込まれ犠牲者となったとしても、魔界において力の道理は絶対であった。


 魔王アクレオスが、何を想って魔王となったのか。魔王となって何を成すのか。多くの者はまだ何も知らない。

 彼がどこから来た何者なのか、それを知る者は悉くがこの世から消え去り、もはや、魔王アクレオス誕生の真相を知る者は、ダリアンひとりしか残っていなかった。


 ──ダリアンは預言者ではない。

 カレンとナイアスの融合体が、何を目論み、何を為すのか。彼に分かるはずもなく、その結末に責任を負うことなどありえない。

 魔王アクレオスの誕生自体を、まだ彼は知らない。

 程なくして、ネクロハイヴ禁術書館に訪れた者から伝え聞き、そこでようやく知ることとなる。ただその場にあっても、もはや手の届かぬ存在となった魔王に、ダリアンは送る言葉など持ち合わせてはいなかった。


 ただ一つ──彼に果たすべき義務が残っているとすれば、それは禁術書『核融合切縫』の回収である。

 それは、大いなる運命の分岐点に立ち会った者としての務めなどではなく、ただ一介の司書として課せられた役割にすぎない。

 ネクロハイヴ禁術書館で司書として生きる彼にとって、避けることのできないそのささやかな職務こそが、再びの対峙を暗示していた。


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