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第六編 鏡写の銀環

 その日、ネクロハイヴ禁術書館に、前例のない客人が現れた。

 それは──、一人の人間の少女だった。

 人間がこの書館に来訪するなど、前代未聞のことだった。


 人間がこの禁術書館に辿り着くには、まず魔界の森を抜け、その先の荒れ果てた廃城の門をくぐり、入り口となる魔王の石像の前に立たねばならない。

 それを成し遂げたというだけで、ただの人間ではないのは明らかだった。武術にしろ、魔術にしろ相当の手練れでなければ、闇の森を抜けることすら叶わないだろう。


 そして、たとえその前提を満たしたとしても、崩れたまま放置されたその石像が、かつて魔王カイリスの姿を象っていたことを知り、その前で名を捧げることが書館の扉を開く鍵である──と、知る者など、人間の中にいるはずがなかった。


 少女の名は、アリス・グレンウッド。どこにでもいるような、取り立てて珍しくもない名前だった。

 そしてそれは、ネクロハイヴ禁術書館にて、ダリアンが初めて一人で応対することとなった相手の名となった。


「ネクロハイヴ禁術書館によく御出で下さいました。

私は、ダリアン・アザール・ノクシガー。どうぞよろしくお願いします。」

 ダリアンは頭を下げ、儀礼を尽くして少女を迎える。

 ダリアンの瞳に映った少女は、まるでか弱い姫のような風貌で、剣も杖も持っていなかった。その姿に、ダリアンは言いようのない不安を抱く。


「アリス・グレンウッド様。今宵は、何を御所望ですか?」

 不信の念を胸に押し隠しながらも、ダリアンは自然な接客に徹する。

 ただ一つ、彼に落ち度があるとすれば、彼女の返答が、この夜の静寂を裂く導火線になろうとは─…、思い至らなかったことだ。


「──私は、鏡写(きょうしゃ)銀環(ぎんかん)を求める。」

 少女は、まるで前もって答えを知っていたかのように、迷いなくそう答えた。

 その名を耳にした瞬間、ダリアンのまぶたがわずかに揺れる。が、それ以上の反応は努めて見せず、静かに頷く。


「─…畏まりました。では、こちらへ。」

 言葉だけを切り取れば、ごく普通の応対だった。だが、ダリアンはこのときが最初の応対であるにもかかわらず、例外的な対応に迫られていた。

 ダリアンは、丁寧に手を差し伸べると、そのまま回廊を抜け、書館の奥にある部屋へと彼女を導いた。


 ダリアンは、少女をマクスの部屋へと案内していた。

 彼は、『鏡写の銀環』なる禁術書など知らなかった。だがそれは、彼の勉強不足ゆえの無知ではない。

 彼はこの禁術書館ですでに多くの時間を費やし、幾百を越える禁術書を熟知するほどになっていた。

 その今の彼が、それでもまだ知らないということは、すなわち──まだ知ることを許されていない禁術書なのだ。


 本来であれば、そのような禁忌中の禁忌と言える禁術書を所望する来館者を、ダリアンに任せることなどあり得ない。

 それは、捧げられた名によって分かることだった。その様な禁術書を知る者の名など、極めて限られている。ネクロハイヴ禁術書館に、名を偽って入館することは許されない。

 ──そのはずなのだが、今の事態を招いたアリスと名乗る少女は、何事もなかったように平然とここにいる。


 当然、そんな禁術書など最初から存在せず、少女が出鱈目を言っている可能性もあった。

 だが、そんな質の悪い悪戯をするために、ひとりの人間の少女がはるばるネクロハイヴ禁術書館を訪れた、というのであれば、それこそが質の悪い冗談なのだ。

 いずれにせよ、ダリアンには現時点で真偽を見極める術はない。ただひとつ確かなのは、このアリスという名の少女の正体に、特別の注意を払わなければならない、ということだった。


 静まり返った廊下に、足音がやけに響く。

 何気ない歩みに潜ませて、ダリアンは音で思惑を探るかのように耳を澄ませる。しかし、アリスの靴音は不気味なほどにとても静かだった。

 マクスの部屋に近づくにつれ、その無音は、ダリアンの胸の中の違和感を、じわじわと広げていった。


 ダリアンはマクスの部屋で、彼とアリスを引き合わせた。

「彼女は、鏡写の銀環を求めています。」

 ダリアンは簡潔にそれだけ報告した。それを受けたマクスの返答は、彼にとって意外なものだった。

「──そうですか、わかりました。ダリアン、あなたにセレヴィア様が御用のようです。」

 それだけ告げて、彼はアリスをこの部屋に残し、セレヴィアのところへ向かうように促した。


 だが、その言葉は、言葉通りの意味を持っていない。

 マクスですら、『鏡写の銀環』を知らないのだ。つまりこれは、「セレヴィアに確認して来い」という命令だった。

 アリスの前で明言を避けたのは、ダリアンが感じている以上に、マクスはこの少女に危機感を持っているからだった。

 マクスにも、いくつかアリスに問いただしたいことはある。だが、それを口にすること自体が、こちらの情報を相手に与えることに繋がる。彼はこの時点ですでに、アリスが我々に敵意を持って来館している可能性を警戒していた。

 ダリアンはその気配を汲み取り、何も語らず身を翻し部屋を出て行った。


 こちらがどこまで知っていて、どこまであちらが気づいていないのか。

 残された部屋の中、それを探る行為すら悟られぬよう、マクスは一手一手を慎重に打つ。

 無言で待つアリスの微笑みには、逆にすべてを見透すような寒気があった。


「──アリス・グレンウッドとは、どのような人ですか?」

 ダリアンの報告に対して、セレヴィアの第一声はそんな質問だった。

 しかし、ダリアンが彼女に関して分かっていることは、外見と、最初に交わした言葉のみ。それ以上に語れる情報はなかった。

「─…。承知しました。では、その方をこちらにお呼びください。」

 ダリアンの答えに、わずかに間を置いて返された言葉には、何の感情の揺らぎもない。それでも、その僅かの間にセレヴィアの思案の残影が霞んでみえた。

 ダリアンは無言で頷くと、再びアリスを迎えに部屋を後にした。


 再びマクスの部屋を訪れると、そこには重苦しい沈黙が漂っていた。

 先ほどまでに何かやり取りがあったのか、ダリアンには分からない。ただ淡々と、セレヴィアの言葉を伝える。

 すると、アリスは何も言わずに立ち上がり、ダリアンとともにセレヴィアのもとへ向かった。


 セレヴィアの部屋へと続く廊下を進む間は、ダリアンには緊張の時間だった。

 この人間の異常性を理解していながら、未だ扱いに関する明確な指針を受けていない。そのため、いつ何が起きてもおかしくないという気構えで、彼は一歩一歩に注意を払っていた。


 やがて部屋の扉が開き、アリスはセレヴィアの前に静かに立つ。互いに目が合い、沈黙が一瞬流れた後、アリスの方から声を発した。

「セレヴィア・デュヴァイネル。お会いできて光栄です。」

 しかし、その言葉の意味とは裏腹に、その声色には敬意など無く、どこか他人事のように響く。

 セレヴィアの視線が細くなる。ダリアンはすっと一歩、距離を取った。


「─…では、名乗って頂けますか?」

 椅子に腰掛けたまま、セレヴィアは眉一つ動かさずに、アリス・グレンウッドに尋ねる。

 たったそれだけの言葉に、多くの含みを持たせて、アリスではないアリスに渡した。


「私は、アリス・グレンウッド。それで何の問題もないはずでは?」

 僅かな笑みと共にそう返すアリスからは、ほのかに、しかし明確に憎悪が滲んでいた。


「──では、貴方が望まれる禁術書、鏡写の銀環の話をいたしましょう。」

 セレヴィアは、その害意を意にも返さず、淡々と話しを進める。それに対し、アリスもまた同意を示す沈黙で返した。


 ダリアンは、二人の様子を静かに見守っていた。

 言葉の応酬はあまりに平静で平和的だった。まるで礼儀を重んじた客人同士の会話にも見える。だが、その空気は確かに凍っていた──。

 

 セレヴィアはいつも通りの、隙のない態度で応じている。けれど、その瞳には微かに鋭さが増していた。これだけのやり取りで、もうすでにアリスがただの人間ではないことを看破し、さらにその正体にも、ある程度の予測を立てているようにみえる。

 アリスもまた、笑みを浮かべながらも、どこか歪で、皮膚の下から滲むような敵意を抑え込んでいた。それが、セレヴィアに向けられていることは、もはや疑いようもない。それを礼節をもって抑え込んでいるのは、それが抑えきれなくなる瞬間を、わざと待っているような意志を読み取らせる。


 互いに一歩も引かず、けれど一切の刃も抜かぬまま、内心で斬り合いを続ける二人の姿は、どこか常軌を逸してさえ見えた。それはまるで、鏡写の銀環の危険性を暗示しているかのようだった。

 ダリアンの背筋に微かな汗がにじむ。

 二人の言葉の裏側に潜むもの──ダリアンは未だ、その全てを知ることはできなかった。


「──禁術を含むあらゆる魔法は、魔力を術式として編み上げることで効果を発揮します。」

 セレヴィアは、目の前のアリスに向けて、淀みなく話を続ける。

「つまり、魔法の力とは、どれほど精緻な術式を構築できるか。そして、それを支える魔力の強さに左右されるものです。」

「術式の練度は、優れた魔法を学び、習熟を重ねることで向上していくでしょう。

一方で、魔力の根源とは存在の力です。多くの場合、それは生まれた瞬間に定まっており、後天的に力の差を覆すことはまずできません。」


 セレヴィアがこの世界の魔法の常識を語り、アリスがそれに応じる様子は、ダリアンの目には異様に映った。

 互いにとっては周知のはずの事柄を、あえて丁寧に順序立てて語るそのやり取りは、それ自体が目的を持った術式をなぞっているかのような、奇妙な香りを漂わせていた。

 ダリアンの脳裏には、このネクロハイヴ禁術書館に最初に訪れた時の、マクスと交わした会話がよみがえっていた。


「ですが──禁術を用いるならば、話は別です。

多くの場合、生贄か、あるいは命や魂といった代償を捧げることで、一時的にでもその差を埋める力を授かることができるでしょう。」

 そう語るセレヴィアの声音には、ひと欠片の感情も浮かんでいなかった。

「この鏡写の銀環も、言ってしまえば、それと同じ類の禁術書となります。」

 そして彼女は、淡々とした手つきで、アリスの前に鏡写の銀環の実物を差し出した。

「ですが、この鏡写の銀環が他と一線を画すのは──それは、存在の力そのものを操作する点にあります。」

 皆の目がその禁術書に向けられる中、語られた言葉は、この禁術の危険性を明示していた。


 ──それは、魔法の理論に照らしても明らかに破綻している。

 もし術によって、魔力の根源たる存在の力を増幅できるのだとしたら、その増幅された魔力を用いて、さらに術を発動させることが可能となる。

 つまり、ここに魔法の永久機関が成立してしまう。そして、それが意味するのは──無限の力の生成だ。


 そんなことが、現実に可能なはずがない。

 いや、もし本当に可能であるのなら、この禁術書を手にした者は、神の座にすら届く存在となるだろう。

 にわかには信じがたい。だが、だからこそ、この術は極めて危険なのだ。


 セレヴィアは、鏡写の銀環の概要を語りはじめる。

「この禁術は、術の影響範囲にある空間を歪め、この世界と、異なる外世界とを強引に重ね合わせるものです。」

「その結果、重ねられた禁術空間では、世界の法則が狂い始め、わずかなズレや矛盾が生じます。そして、それらの歪みが、術者自身の存在の力へ直接干渉してくるのです。」

「未熟な術者では、この禁術の発動すらままならないでしょう。当書館に収められた禁術書の中でも、これはとりわけ危険な部類に入ります。」


 その内容に、ダリアンの背筋を氷の刃が撫でるような感覚が走った。

 これは、決して触れてはならぬ禁術だ──そう、直感が告げていた。空間を歪め、この世ならざる外世界と繋げるなど、踏み越えるべきではない一線を超えている。これはもはや禁術の域をも逸脱した、世界そのものへの反逆であり、世界の崩壊をもたらす雷槌だ。

 いや、それ以前に、到底自分では、この禁術を使いこなすことなど出来ないだろう。それは、たとえ中身が異なろうと、存在の力はか弱い人間の身であるアリスにも、同じことが言えるはずだった。


「──今まで、鏡写の銀環が使われたことは?」

 ここまで、ひたすらセレヴィアの話を黙って聞いていたアリスが、口を開きひとつ尋ねた。その声色には、何かを確かめる強い意図が滲む。


「ええ、ございます。」 セレヴィアの答えは驚くほど簡潔だった。

 アリスの意図が分からぬセレヴィアではない。誰がどういう状況で使ったのか、それを問うていることを理解した上での解答だった。

 しかし、二人には、ただそれだけで十分だったのだ。


 たったこれだけのやり取りで、セレヴィアはアリスの正体を確信する。これをきっかけに、二人の空気は明らかに変化した。


 …………長い沈黙が生まれる。


「─…覚えているか? セレヴィア・デュヴァイネル・ネリ・アシュタ。」

 次に口を開いたのはアリスの方からだった。

 しかし、発せられたアリスの声色は、これまでと全く異なる年老いた男の声だった。


「アシュタ王国を滅ぼした姫君よ。お久しゅうございます。」

 敬意を示し頭を垂れるその所作の裏には、明白な嘲りが入り混じる。

 その毒が塗られた拝礼に、セレヴィアは沈黙だけをもって応えた。


「かつて──、鏡写の銀環を手にした者がおりました。」

 顔を上げたアリスの声は冷たく、まるで語り部のように過去の歴史を紐解いていく。

「その者は禁術の力を以て、己の理想の未来と現実を重ね合わせ、全てを望むがままに世界を書き換えようとしたのです。」


「禁術の力の前に、何人も抗うことなど叶いませんでした。

あらゆる敵を打ち滅ぼし、あらゆる物を手に入れてもなお、禁術の力は衰えることを知らなかった。」


「理想への渇望は次第に狂気へと姿を変え、友を裏切り、愛する者を犠牲にすることさえ、躊躇いなく行いました。」


「そしてついに、その者は、王座の簒奪を画策しました。」


「──だが、それも失敗に終わる……。」 アリスの視線がわずかに鋭くなる。


「禁術によって生み出された無限の力に、二重世界の整合性は保てなくなり、ついには臨界を迎える。

その瞬間──、術式空間は崩壊し、術者もろとも、あらゆるものが混沌(カオス)に呑まれた。」

 淡々と語られるその歴史は、一体誰のもの。どちらのものであったとしても、大いなる矛盾を抱えたまま、アリスは語り続けた。


「──そして、王座を掴むより早く、王国は崩れ落ちた。

もはや玉座には誰も座る者はなく、血と、この鏡写の銀環だけが、礎として残された……。」

 それは、ただ記録を読み上げるかのような声だった。糾弾でも、懺悔でもない事実の証言。だが、その無慈悲さこそが、何よりも鋭利な刃となって二人を切り刻んでいた。


 二人のやり取りを傍らで見ていたダリアンは、深いため息をつく。

 セレヴィアとアリスの間にある深い因縁は、想像を超え、あまりに壮大過ぎる話だった。二人の関係は、おぼろげながら推察することはできる。しかし、分からぬことも溢れている。

 彼女たちの言葉に潜む真実の全てを、理解しきれる自信はない。その答えを求める資格が、自分にあるようにも思えない。そこに踏み入ることこそが、禁忌であるように思えてしかたなかった。


 アリスの語りが終わると、セレヴィアは間を置かず、明瞭に応えた。

「私はこれまでの選択に、一切の後悔などありません。」

 アリスの責めに対し、揺るぎない自己肯定をもっての正当化。自分が滅びることも、他者を巻き込むことも、最初から承知の上での覚悟。それは、理想のためにすべてを投げ打つことを本心から望み、実行した証だった。

 だが──、

「私に残っているのは、アルテア様に救って頂いた感謝。ただ、それだけ……。」

 理想も、犠牲もあらゆるものを捧げ、燃やし尽くした果てに残されたもの。

 その果てに辿り着いた終焉の地には、彼女たらしめる安息が残っているだけだった……。


 だが、その言葉は、身を灼くほどの憤怒をアリスに呼び込む。肩を震わせ、堪えきれぬ激情をにじませながら、彼女は絞り出すように言葉を吐く。

「──何故、貴様だけが……。」

 激情に任せて、アリスは叩きつけるように鏡写の銀環に手を乗せた。


 禁術が発動する。アリスの注いだ魔力に意思をもって応じるように、禁術書がわずかに震え、輝きを帯び始めた。

 次の瞬間、まばゆい銀色の光が奔る。それは、世界の構造に干渉する禁忌の輝きだった。


 アリスの髪が逆巻き、禁術書から噴き出した力が彼女の身体に注がれる。その力によって術はさらに加速し、彼女の身体を中心に光が渦を巻いて飛散していく。

 力の波動に頁がひとりでにめくられるたび、周囲の空間が軋む。銀色の輝きは空間の隙間に吸い込まれ、その隙間を押し広げるように輝きを増していく。そしてその輝きは、アリスとセレヴィアを呑みこんでいった。


 ダリアンには、どうすることもできなかった。

 いや、抗う術を持たず、自身すらこの禁術に呑みこまれても不思議ではなかった。目の前に広がる白銀の空間は、それが禁術の産物であるなどとは信じられない神々しさを放っていた。


 鏡写の銀環の中にあって、セレヴィアは一歩も引かず、静かにアリスと対峙していた。

 対するアリスの身には、禁術によってもたらされた膨大な力が満ちていた。しかしその力を、セレヴィアに向けてくる気配はない。

 いや、向けたくともできないのだ。人間であるアリスの肉体では、到底この禁術の力に耐えられない。彼は最初から力を得るためにこの禁術を使ったのではなかった。

 その証拠に、術が発動したその瞬間から、彼女の体はすでに崩壊を始めていた。


 だが、肉体が崩れていく中でも、アリスの目は燃えるような復讐心を宿したまま、鋭くセレヴィアを射抜いていた。

 たとえこの身が朽ち果てようとも、決して術を解かぬという意志。その眼差しが語るのは、まさに事の成就が目前に迫っているという確信だった。


 すなわち、彼の真の狙いは、無限の力にはなかった。その先の──この術式空間を崩壊させることにあった。


 それが起これば、被害はアリスやセレヴィアだけにとどまらない。外にいるダリアン──いや、ネクロハイヴ禁術書館をも呑みこみ、大崩壊を起こすだろう。

 アリスを操っている存在にとって、彼女は最初から使い捨ての駒にすぎなかった。この復讐劇は、最初からすべてそう仕組まれたもの。そして今、それは達成されつつある。

 もはや肉体が崩れ落ちるのを待つだけのアリスは最後に、口元を醜悪に歪ませた。


 しかし、そのアリスを前にしても、セレヴィアは淡々と語るだけだった。

「──このネクロハイヴ禁術書館は、魔王カイリスによって作られ、外界から完全に分断された虚界に存在します。」

 濁流のように奔る魔力の中、セレヴィアはその身を微動だにさせず、アリスを正面から見据えていた。禁術の銀糸が世界の構造そのものを軋ませ、あらゆる音が悲鳴に変わるその中で、彼女の声だけが、静かに透明な音となって響いた。


「この書館内で鏡写の銀環を暴走させ、空間が臨界を迎えた時、世界の行き着く先は混沌ではなく──」

 足元が崩れそうなほどの圧力の中で、セレヴィアの瞳は微かに光を宿す。


虚無(ゼロ)です。」 その一語が告げられた瞬間、白銀に染まった空間が、停止した──。


 今まさに限界寸前だった術式空間は急激に反転し、今まで渦巻いていた魔力の奔流が、無へと吸い込まれるように力を失っていった。天地を満たしていた光が収束し、熱が失われ、風が止まり、まるでこの空間そのものが存在を放棄したかのように、あらゆる現象が凪いでいく。


 禁術書は、まるで命を使い果たしたかのように脈動を止め、あふれていた銀の光は、時間を巻き戻すかのように書へと還り、最後にはすべてが何事もなかったかのように、元へと戻る。

 空間に満ちていた重圧が霧散する。それと同時に、禁術から解放された跡には、完全なる静寂が広がった。


 ただ一つ、その場に肉体の朽ちかけたアリスのみを残して……。


「─…、ばかな……。こんな、ことが……。」

 乾いた声が震える。アリスはただ目を見開き、虚ろな瞳でこの光景を見つめるが、破れた理想が叶うことは決して無い。

 だが、それも束の間、渇きに疼くその唇には、すぐに新たな狂気が芽生える。

「……だが、まあいい。次こそは、必ず……、まだ……」

 静寂に溶けていくその囁きは、もはや言葉というより呪詛に近かった。


 アリスの正体が見せる止まぬ復讐心を前に、セレヴィアは冷静に言葉を返した。

「貴方は知らない。鏡写の銀環が臨界を迎えた時、なぜ崩壊を起すのか。」

 それは、激しい敵意を向けてくる相手に対して、とは思えぬほど穏やかな声だった。


「それは重ねた外世界の干渉によって起こるのです。では、この禁術に干渉してくる者とは、一体何者でしょう?」

「それは、外世界の神か、悪魔か──、いずれにせよ、こちらの世界からでは計り知ることのできぬものです。」

 そこまで語り、セレヴィアは目を伏せる。しかし、すぐに視線を戻す。


 そして、最後に語る言葉は、彼女が唯一抜いた刃だった。

「貴方は何を根拠に、こちらの世界の法則や道理が、彼らに通用すると考えているのですか?」

「貴方は、なぜ外世界の神に許されたと思っているのですか?」

 しかし、その答えを待たず、問いと同時に、アリスの体は完全に灰へと変わった。

 問いの答えと結果を得るのは、もはや叶わぬことだった──


 ─…すべてが過ぎ去った光景を前に、ダリアンは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 結局、彼は何もできなかった。いや──、それが最善だったのかもしれない。そもそも、彼にできることなど、最初からなかったのだ。


 灰となったアリスの残骸を見下ろしながら、彼の語った言葉が脳裏をよぎる。

 そのすべてが真実だとは思わない。だが、彼には彼なりの真実があり、そこには確かに、このような行動に走らせるだけの強い怨嗟があった。

 その犠牲となったアリス・グレンウッドに対して、ダリアンは一握りの同情を寄せた。


 そして、その想いはセレヴィアにも向けられた。

 本来ならば──いや、やろうと思えば、彼女には、この事態を未然に防ぐ幾つもの選択肢があったはずだ。アリスを門前払いすることもできたし、まして、鏡写の銀環を眼前に差し出すなど、する必要など無かった。


 だがセレヴィアは、あえてそれをしなかった。あるいは、できなかった。

 彼女の行動は矛盾に満ち、誰にも理解できない彼女だけの理に従っていた。

 そうせざる負えない彼女の過去に、ダリアンは同じ感情を寄せた──。


 ──……とうの昔に滅びたダークエルフの王国の、その記録の片隅に、ある姫の名が残されている。

 大罪人として残るその名が背負った罪の重さは、いかなる代償を払ったとしても償い切れるものではない。

 

 理想の果て──、姫の運命は罪過の渦に呑まれて消えるはずだった。だが、アルテアは、その罪を禁術をもって贖った。

 それ以来、姫は名を捨て、アルテアの下僕となって仕えている──。

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