第五編 花裏過来恋
溢れる禁術書に囲まれるネクロハイヴ禁術書館の一室にて、かすかなランプの灯がふたりの影を揺らす。机の上で静かに時を刻む懐中時計の音が、ふたりの間に割って入るように小刻みに震えていた。
「─…さて、この書館にはもう慣れましたでしょうか?」
沈黙がインクと共に深く染み込んだ書架に、マクスの穏やかな声が響く。
「貴方がここを初めて訪れてから、もうずいぶんと経ったように感じます。」
その手に持った羽ペンを指で転がしながら、重厚な机の向こうに座るダリアンに向けた言葉は、どこか遠い過去を見ているようだった。
その言葉に、ダリアンは背筋を正したまま微笑を浮かべ、静かに答えた。
「ええ、まだ至らぬことばかりですが……。ここでの日々は、得るものは多いです。」
自然体で受け応えていながらも、その口調や所作からは、マクスに対する敬意が滲み出ていた。初めて会った時では考えられないダリアンの返答は、マクスの口元を緩ませる。それは、ダリアンが彼から一定の信頼を得ていることを意味していた。
「そうですか、それはよかった。
──実は今日は一つ、貴方にお願いがありまして……。」
マクスは、ダリアンの表情をうかがいながら、ゆっくりと本題を切り出した。
「禁術書を一冊、回収してきていただきたいのです。」
その言葉に、ダリアンの表情は固まった。
ネクロハイヴ禁術書館に所蔵される禁術書には、返却期限がない。にもかかわらず、回収が命じられるということは、通常とは異なる事態が発生している証だった。
考えられる事態は二つ。一つは、禁術書が貸与者から”何者か”の手に渡った場合。そしてもう一つは、貸与者がもはや自力で返却できない状況にあるという場合。
前者ならば、その”何者か”が返却に好意的である可能性は限りなく低い。後者であれば、禁術の効果か、あるいは代償によって貸与者が返却不能な状態になったということ。つまり、禁術が制御不能となっている可能性がある。
いずれにしても、厄介な状況なのは明白だった。
だがしかし、これまで誰の手に渡ろうと、どれほどの惨劇が繰り広げられようと、必ず禁術書は戻ってきた。
ネクロハイヴ禁術書館は長い歴史の中で、一冊たりとも所蔵する禁術書が消失したことはない──
この厄介な用件を、マクスがダリアンに命じたという事実こそが、彼への信頼の証であった。だが、信頼だけで命を賭けるにはあまりに危うい。ダリアンは当然のように、一つの質問を口にした。
「──それは、どんな禁術書なのですか?」
ダリアンがそう問いかけることを、確信していたかのように、彼はわずかな間も置かずに語り始める。
「禁術書の名は『花裏過来恋』。
極めて静かに心の内へと入り込み、特定の感情だけを残していく禁術です。」
「あらゆる感情を芽吹かせることができますが…、術者が対象へ抱く感情の強さが禁術の効果に反映されます。ですので、主に“恋慕”や“嫉妬”といった情念を抱かせるために使われます。」
彼の言葉は淡々としていたが、そこには警戒心が滲んでいる。
「そして、対象に直接的な苦痛を与えるわけではありませんから、術が発動したと気づく者は、ほとんどいないのです。」
静寂が一瞬、重く落ちた。
これはつまり、俗に言う“惚れ薬”のような効果を持つものだ。知らぬ間に心を蝕まれ、気づいたときには、何かを想い、縛られ、抗えなくさせる。そしてその浸食された心に疑問すら抱くことはない。
感情というもっとも曖昧で不可侵な領域に作用する禁忌であるがゆえに、抵抗も解除も極めて困難だろう。禁術の中でも、とりわけ扱いづらい部類に属するものだった。
「この禁術書は、当書館でもとりわけ人気がありまして……、これまで幾度となく貸し出されてきました。」
マクスは言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「ある時は、名家同士の政略結婚の秘密道具として──
またある時は、愛憎に満ちた復讐劇の小道具として──
そしてまたある時は、捕えた仇敵の心を壊すための拷問具として─…。」
語るうちに彼の目は細まり、過去の記憶をたどるように、遠くを見つめる。
「……そして、今その禁術書を所持しているのは──ククリ・トリスマ・オートマリカという名の秘術師です。」
そこで一拍置き、マクスは改めてダリアンの方へ視線を戻した。
「貴方には、まず彼女のもとへ赴いて頂きます。そして、状況を確認し、必要とあらば禁術書の回収をお願いします。」
そこまで聞いて、ダリアンから思わず言葉が漏れた。
「……女、ですか。」
マクスはそれを聞き逃さず、疑問ですらないその呟きに丁寧に応えた。
「ええ、そうですね。女性がこの禁術書を手にするのは、確かに珍しいケースかもしれません。」
彼は目を伏せたまま、静かに言葉を重ねる。
「ですが──、今回の件で問題となるのは女性という点よりも、彼女の秘術師という面でしょう。」
その言葉は、ダリアンの胸に重くのしかかる。ただでさえ厄介な性質を持つ禁術書。その先に、正体不明の秘術師が待ち構えるとなれば、気が進むはずもない。只々厄介な問題が積み重なるだけで、良い知らせが何一つない。
そんなダリアンの表情を読み取って、マクスは、穏やかな口調のまま、そっと言葉を付け加えた。
「一つ、安心材料を。禁術書がしばらく使用されていないことは、こちらで確認済みです。
ですので、回収を阻止するために危害を加えて来るような事態は、まず考えにくいでしょう。」
それは、安心材料としては、あまりにも頼りない希望的観測に過ぎなかった。だが、それでもマクスの声に偽りがないことだけは、ダリアンにも伝わった。
最後にマクスはもう一言、さらりと付け足した。
「ああ、それと──、以前申し上げました”暴力の禁止”は、あくまでこの館の中では──ですので。」
ダリアンにはその言葉の方が、よほど頼りになった。
小さく息をつき、背筋を伸ばす。この面倒事から解放される最適な方法は、さっさと取りかかることだ。──そう思えば、迷っている時間も惜しかった。
ダリアンはマクスから禁術の詳細と、オートマリカなる人物の所在を聞くと、手早く出立の準備を整える。不透明な状況は、敵との戦闘はおろか、最悪の場合には逃げ帰ることすら考えさせた。
そして、用意を整えると、ダリアンは足早に禁術書の回収へと出向くのだった。
─…ダリアンが館を発った後、その背を見送るように、ロロが書架の陰から顔を覗かせた。
「……彼にも、あの仕事を頼んだんだね。」
マクスに対し、どこか懐かしさが滲む声で、ロロは小さく笑った。
「懐かしいなあ……僕も、やったよ。あの禁術書の回収。」
遠い記憶に思いを馳せるように、言葉の調子は穏やかだったが、その奥には淡い苦味が漂う。
「僕の時はね──この禁術書に関わったひとたち、みんな死んじゃってたからね。」
その苦味の原因である事実には、少しの寂しさがあった。
「……でも、今回はどんな結果が待っているんだろうね。」
しかし、それ以上に強く、好奇心を持った澄んだ瞳でこの結末を期待した。
──禁術書の在処を示す記録を頼りに、ダリアンは、人魔戦争の戦場跡に広がる荒野を進んでいた。
この地は、かつて激しい魔術戦が繰り広げられ、今では焦土と化した忌まわしい地。今なお、空気は濁り、重く澱んでいる。鳥の影もなく、虫すら鳴かない。ただ、ダリアンが一歩踏み出すたびに、足元で骨を砕くような乾いた音が響くだけだった。
その不毛の地を越えた先、ねじれた大樹と瘴気の立ち込める霧の隙間から、それは、忽然と姿を現した。
黒鉄と、溶岩のように赤く錆びた石で築かれた門柱。その扉には、巨大な眼球を模した不気味な意匠が埋め込まれ、見上げる者の心を試すように、黙してこちらを見つめている。
そして、その扉の奥には、灰と墨を混ぜ合わせたような色彩の洋館が、闇に溶け込みひっそりと佇んでいた。
ダリアンは門の前に立ち、わずかに足を止めた。そして、門をくぐる前に呼吸を整える。
嫌な予感がしているわけではない。ただ、何が起こっても不思議ではない気配に備え、意識を集中させる。それから、静寂の中に佇む洋館へと、音を立てずに歩みを進めた。
洋館に近づくにつれ、ダリアンの感覚は研ぎ澄まされていく。その精神の奥底で、ダリアンは改めて思い返していた。マクスから聞いたこの禁術の詳細を。
『花裏過来恋』──この禁術には、三つの段階がある。
禁術の第一段階、蕾。
術の『種』を仕込む段階。蕾を発芽させるために必要な『種』は、術者が対象者へ向ける感情や、記憶をもとに生成される。その想いが強ければ強いほど、術の効果は濃く、深くなる。
そして、対象の身体の一部、あるいは身につけていた物を触媒として用いることで、種は蕾として萌芽する。
一度この蕾が形成されてしまえば、術を途中で止めることは出来ない。
第二段階、開花。
やがて、術者が仕込んだ種の感情に応じた花が咲く。愛情を込めれば愛情の花が、殺意を込めれば殺意の花が。
その花の影響範囲にいる間、対象者は術者の感情に誘導される。その変化はとても自然に影響を与え、本心と区別がつかなくなる。
開花時期は一年。同じ相手に対して、同じ効果を発揮する花が咲くのは一度きり。
最終段階、残香。
そして一年後、花は枯れる。
しかし、植え付けられた感情は香りとして対象に染みつき、消えなくなる。
術者が離れ、禁術が解除されたとしても、想いだけが残り続け、永遠に息づくこととなる。
これらに加え、マクスはこうも言っていた、「この禁術はしばらく使われていない」と。つまり、花は枯れ、残香となっている可能性が高い。その場合、禁術の回収に邪魔が入るとしたら、それは術者ではなく──
──その時、風を裂く音と共に、鋭く距離を詰めてくる影が、ダリアンの視界に入り込んだ。
次の瞬間、その影は黒い閃光となって襲い掛かって来た。それは無言のまま、しかし明確な敵意を剥き出しのままダリアンにぶつける。
ダリアンは咄嗟に身を翻すも、鋼のような腕が地面を抉り、土塊と火花が弾け飛んだ。
「くっ──!!」
飛び散る礫を躱しながら、ダリアンはその膂力に戦慄した。大地を抉るその一撃は容赦なく、さらに、動きには一切の迷いもためらいもない。それは、話し合いなど到底聞く耳を持たないであろうことを雄弁に物語っていた。
そして早々に、その予感は確信へと変わる。立ちこめる土煙の向こうに現れた敵の姿は、人でも、魔族でもないものだった。
それは確かに人型をしていたが、呼吸もしなければ、瞳もない。しかし、間違いなくこちらを捉えている。
(なるほどな……)
ダリアンはその姿に見覚えがあった。というよりも、人魔戦争を知る者なら、人間であろうと魔族であろうと、誰もが知っている存在だった。
それは、魔族が生み出した対人用の殺戮兵器。当時の魔法技術の粋を集めて作られた戦闘型ゴーレムだった。
咆哮のような衝撃音が、静寂を打ち砕く。
乾いた枝を踏み潰しながら、敵がこちらに踏み込んでくる。ダリアンは後退しつつ、敵の攻撃に備える。
次の瞬間、ゴーレムは再びダリアンに襲いかかった。その巨躯からは信じがたいほどの俊敏さで、一気にダリアンに迫る。
振るわれた一撃は、ただ力と速度を極限まで乗せただけの、単純かつ暴力的な攻撃だった。だがそれゆえに、わずかでも対処を誤れば即座に詰む。迷いや駆け引きのないその破壊力は、まさにゴーレムという存在の特性を最大限に活かした一撃だった。
回避に徹しながら、ダリアンは口の端を噛んだ。目の前の敵は言葉を持たない。ただ命令に従い、感情も理屈もなく命を奪いにくる。説得の余地はない。
これは彼にとって、最悪な状況だった。
仮にこの場で目の前の敵を倒したとして、まだ他にも同じものが潜んでいるかもしれない。むしろ、それによって呼び寄せてしまうことすらあり得た。
敵の目的が排除であることは明白だった。だが、ダリアンにとってこの戦いに意味はなかった。
彼は即座に判断を切り替える。倒すことは早々に諦め、敵の捕捉範囲を探るように慎重に間合いを取る。攻撃を避け、逃走経路を確保する。一旦の撤退、それに意識を集中させる。
やがて、洋館から離れ再び門のところに戻ってくると、まるでそれが境界線であるかのように、ゴーレムは呆気なくダリアンを追うのを止め、離れていった。
ひとまずの安堵──だが、そう悠長に構えていられる時間は、長くはない。ダリアンはすぐにでも、この門番への対処を考えなければならなかった。
あのゴーレムは、一体何者なのか──。
あれがどういう存在かは知っている。人魔戦争の時代に作られた遺物。ここに向かう途中で通った戦場の生き残りなのだろう。
分からないのは、その理由だった。なぜ、今もこの場所で門番をしているのか。何を、誰を守っているのか。
推測はできる。番犬に課せられた役割は、ただ一つ、主を守ること。
ならば、おそらくあれは洋館の主、オートマリカを守るために配備されている。
それならば話は単純だ。番犬とは話せなくとも、主と対話ができれば状況は変わる。それが叶えば、自分に課せられた“お使い”も、同時に果たせるはずだ。
しかし、問題はその主が敵である場合だ。
もしもオートマリカが、あるいは別の何者かが、ダリアンの目的を阻む存在であれば、戦闘は避けられない。ゴーレムだけでなく、館に罠がある可能性も、十分に考慮しなければならない。
ダリアンは視線を館の方へ戻し、深く息をついた。
その目には確かな意志を宿し、それが崩れた時の覚悟も、すでに胸に据えていた。
──魔界の荒地に夜の帳が落ちる。
足元さえおぼつかぬほどの闇の中を、ダリアンは音もなく進んでいく。月は薄雲に隠れ、星もまた沈黙していたが、それは彼にとって好都合だった。
闇夜はヴァンパイアであるダリアンの領域である。
たとえゴーレムの戦闘能力が優れていようとも、それは所詮、人間相手に設計された兵器にすぎない。ましてや、たった一体では、本気を出したヴァンパイアと互角に渡り合うには少し足りない。
もっとも、ダリアンはそもそもゴーレムと戦うつもりなどなかった。
この闇夜では、ゴーレムの警戒範囲に彼の姿は映らない。文字通り夜に溶け込んだダリアンの気配を、それは感知することすらできなかった。
静寂の中、ダリアンは洋館に取りつくと、外壁に沿って移動し、窓の一つに手をかけた。
軋む音もなく、鍵もかかっていない。まるで、それは誰かが来るのを最初から待っていたかのようだった。
中に足を踏み入れると、ほのかに漂う香が鼻をかすめた。古びた木材や埃の香りに混じる、かすかな甘い木の香り。それは紛れもなく、ここにゴーレムではない生きる何者かが潜む証だった。
ダリアンは周囲を見回しながら、慎重に歩を進める。
館は手入れをされていた。一切のものが乱れることなく、丁寧に並べられている。しかし、闇の中に灯りは一つもなく、ひとの気配もほとんど感じられない。
──奇妙だった。「いる」はずなのに、「いない」。
空間に染みついた違和感が、皮膚の裏側を撫でてくる。これが『花裏過来恋』の残香なのだろうか。
互いの存在が擦れ違っているような、不確かな感覚がダリアンの勘を鈍らせる。目の前の世界がほんの少しだけズレているような、そんな歪みに彼はわずかに眉をひそめた。
やがて、ダリアンは導かれるように、重厚な扉の奥へと足を踏み入れた。
装飾が色褪せた広間。その中央に──それは静かに佇んでいた。
椅子に腰掛けたまま、長い時を止められたように動かない。それを見た時、ダリアンはオートマリカの亡骸だと思った。
だが、違った。眠るように動かない彼女は、ほんのわずかに、呼吸をしていた。
時間の経過を忘れたかのような艶やかな銀髪、肌は生者の証であるかのように血脈が浮かぶ。その顔には、気高さと誇りすら漂う。
だが、それは同時に異様でもあった。眠ったままの状態を完璧に保存した人形の様な印象を受けた。何者かが、この状態を保ち続けている。まるで壊れやすい芸術品を飾るように─…。
そして、ダリアンは彼女の傍らに、禁術書『花裏過来恋』を見つけた。ただ静かにそこに置かれていた禁術書には、禍々しい気配はなく、禁術が発動してから長い時間が経過していることをうかがわせた。
動かぬ彼女の姿を前にして、ダリアンの脳裏には、この禁術の美しくも残酷な代償が思い起こされた──
この禁術を行使した後、最後に『心の死骸』が残る。それは、対象者が本来持っていた感情。禁術によって捻じ曲げられ、失われたあらゆる想いが、ひと粒の新たな『種』となって術者の手元に残る。
その種は放っておけば、やがて発芽する。本来相手が持っていたはずの感情が、術者の中で芽吹くのだ。
種が芽吹けばもう止められない。それは、花裏過来恋を繰り返すように、抗う術もなく術者の心を侵食し始める。
だが、これは簡単に防ぐことができる。ただ、種が芽吹く前に焼却すればよい。
けれどその代わり、種に込められた感情は、相手から永遠に消え失せ、二度と戻ることはない。
そして、その種にどんな想いが込められているかは、発芽しない限り術者は知ることは出来ない。
──ダリアンはそっと、オートマリカの顔を見やった。
確かに呼吸はある。だが、そこに感情はあるだろうか?
今の彼女に、誰かを想う心は残っているのだろうか?
もしかしたら、彼女は禁術を使われた側で、『心の死骸』を燃やされたことでこうなった?
いやしかし、これほどの虚無に囚われてしまうほど、相手に全ての感情を注ぎ込むなどありえるのだろうか……。
どれほど考えても、ダリアンには答えは分からなかった。一体ここで何が起こったのか、なぜ彼女はこうなったのか、それを知る術は残されていなかった。
彼はため息を一つつくと、禁術書を手に取り、広間をあとにしようとした。しかしその時──視線に気づき、足を止めた。
ダリアンが顔を上げたその先、部屋の扉の前。その闇の中で、ゴーレムが静かに立っていた。
だが、先程とはまるで気配が違っていた。その巨躯からは敵意の欠片もなく、無言のまま、そこに在る。ただ静かにダリアンを、いや、その先の椅子に座るオートマリカの方へ、じっと目の無い顔を向けていた。
ダリアンは警戒しつつ、ゴーレムの様子をうかがった。
(……襲ってこない?)
敵意どころか、もはや自分に対する関心すら失っている。そうダリアンに感じさせるほど、ゴーレムからは一切の反応が返ってこなかった。
その理由は、その視線の先の彼女であることは、疑いようもなかった。
戦闘用のゴーレムが、主を守護するのは当然のことだ。だが、目の前の侵入者を無視するなどあり得るだろうか?
ダリアンのその疑問に答えを示すかのように、ゴーレムのあの無機質な仮面の奥から、かすかな感情の揺れを感じた。
それはあり得ないことだった。戦闘用ゴーレムに感情など存在しない。命令に従い、ただ破壊する存在にすぎない。
(──まさか……)
その矛盾が、ダリアンに一つの答えを浮かばせた。
しかし、そのどうしようもない結末に、彼はそれ以上言葉を続けることはできなかった。
口にしたところで、ここにはそれが聞こえる者は存在しない。それに、彼らは理解も、同情も求めてはいないだろう。
しばしその場に立ち尽くし、もう一度だけ、オートマリカとゴーレムに視線を送る。
そして、ダリアンは静かに踵を返す。止めた足を再び進め、彼は洋館を後にする。
最後に映した彼女たちの姿は、誰のものでもない感情の残香だけを心に残した……。
──そして、再びネクロハイヴ禁術書館のマクスの書斎に、ダリアンは帰って来た。
「…─信じていましたよ。貴方なら、やってくれると。」
ダリアンから受け取った禁術書を手元に置き、マクスは労う。
「…………。」 しかし、その言葉を受けても、ダリアンに笑みはない。
その沈黙に、マクスは一瞬だけ目を細めると、黙って机の上の『花裏過来恋』に視線を落とした。
そして、まるで本の奥底を覗き込むかのように、ひとつ呟く。
「……この禁術書は、かつて私も回収に出向いたことがあります。その度に、いつも破滅を連れて戻ってくる……。」
マクスの告白を聞き、ダリアンは重たい沈黙を噛み殺すように口を開いた。
「この禁術は、人ならざるものに対しても有効なのだろうか……。」
とても静かにそう囁くと、ダリアンは椅子に深く腰を沈め、まるで再びあの夜に身を置くようにして、ゆっくりと語り始めた──
「彼女、オートマリカは……『花裏過来恋』をゴーレムに使った。」
「それが彼女の思いの強さによるものか…、あるいは、禁術に秘術を重ねた成果か…、それはわからない。ただ、心のないゴーレムに感情を芽吹かせることに、彼女は成功した。」
心なき存在に、感情が芽生えるなど、本当に可能なのか。それはダリアンにもわからない。
だが、あの広い洋館にたった一人でいる彼女の孤独を思えば、そこに至る動機だけは、理解できた。
「それから一年、彼女はそのゴーレムと生活を共にした。」
ただ命令通りに振る舞うゴーレムが、愛情を知ったなら、果たしてその行動にどんな変化が現れるだろうか……。
そして──その変化が、彼女の生活をどのように変えていったのだろうか……。
ダリアンは言葉を探すように小さく息を吐いた。
「そして花が枯れ、彼女の手には種が残った。」
そこまで語り、ダリアンは顔を伏せる。そして一呼吸置き、この結末を絞り出すように紡いだ。
「─…彼女は知りたくなった、愛情を注いだゴーレムの本心を。
自分に愛情を返してくれる存在の、本当の姿を。」
当然、そこには葛藤もあったに違いない。
本物の感情を持つようになったゴーレムを前に、それが禁術の力ではないと、否定したくなったのかもしれない。
あるいは、秘術師として、「心の境界線を知りたい」というどうしようもない好奇心が、彼女を突き動かしたのかもしれない。
本当のところはダリアンにもわからない。しかし──
「だから…、彼女は代償である『心の死骸』を芽吹かせた。」 続くダリアンの最後の言葉は、僅かに震えた。
「……そして、彼女は虚無に包まれた。」
静寂が落ちる──語られた結末は、あまりにも儚く、あまりにも愚かであった……。
そのダリアンの報告を聞き、マクスは静かに口を開いた。
「─…この禁術の代償、『心の死骸』など迷わず焼却してしまえばいい。私も確かにそう考えます。」
そう言いながら、彼はゆっくりと手元の禁術書に視線を落とす。
「ですが、どうなのでしょうね……。
一年かけて想いを成就させた相手の「種』を、果たして燃やすことができるでしょうか?」
そしてそっと、目を閉じる。
「私自身、いざその場に立たされたなら……、本当に燃やせるのか、自信が持てません。」
その最後の言葉は、どこか寂しげで、ほんのひと匙の陶酔を混ぜて結んだ。
『花裏過来恋』──この禁術書は、術者が選んだ相手を虜にさせる。しかし、それだけでなく……