第四十一編 卒都婆玉兎・終
月霊の杖は、その力が今なお健在である証のように、黒紫の光をかすかに揺らめかせる。
究極の不死の秘術『卒都婆玉兎』を生み出したその枯れ木は、本来ならばとうに朽ち果てていてもおかしくない。だが悠久の時を越え、今もなお、アルテアの手の中で静かに眠り続けている。
この杖を破壊すれば、不死の術もまた解かれるかもしれない。しかし、もし解かれなかったなら──彼女は、解呪の唯一の手掛かりを永遠に失うことになる。
だから彼女にはできなかった。アルテアは、この杖を傍らに置いたまま、不死から逃れるための禁術の研究に身を捧げてきた。
かつて、全世界を恐怖の底へと沈めた最悪の魔王であった彼女は今、世界の薄皮を一枚ずつ剥ぐように、月霊の杖の奥深くに潜むかすかな脈動を、その核心を、見極めるためだけに生きている──。
アルテアは、最も長く仕え続けたマクスの死を前にしても、眉一つ動かすことはなかった。それは、彼女の生が不死の秘術によって模られた空虚な器にすぎないことを、雄弁に物語っていた。
それは、セレヴィアに残酷な答えを突きつける。
──アルテア様は、私の死にも、心を動かされることはないのだろう。では、なぜ今、彼のために、ここに居られるのか。
その疑念の答えは、恐れよりも、長く待ち望んできた時の到来を予感させた。
だが、マクスの死を弔う暇もなく、ネクロハイヴ禁術書館には、危機が近づいていた。
たった一人となった勇者が、すべての元凶である魔王カイリスを討つべく、この書館に舞い戻るのは時間の問題だった。
ダリアンは傷を癒す間も惜しみ、セレヴィアの元へと身を引きずるようにして懇願した。
「セレヴィア様……私に、禁術書『鏡写の銀環』を。
何としても、勇者を止めねばなりません」
だが、セレヴィアは首を縦には振らなかった。
「あの術は、発動までに時間を要します。その猶予を勇者が与えてなどくれないでしょう。
それに……ダリアン。貴方が犠牲になる必要など、ありません」
「心配には及びませんよ。勇者の聖剣ですら、アルテア様を滅することなど叶わないのですから」
そう言って、彼女はこれまで一度も見せたことのない、静かな笑みを浮かべた。
”ですが、勇者の聖剣であるなら、この書館を破壊することはできるかもしれません”
続くその言葉を口にすることはなく、セレヴィアは最後にこう言った。
「ここは、私にお任せなさい──」
──ネクロハイヴ禁術書館には、唯一、犯してはならない禁忌がある。
それは、書館内での暴力行為である。この禁忌は、魔導の理念のために設けられたものではない。ひとえに、研究への妨害を防ぐための規則だった。
書館内で暴力を振るい、他者を傷つけた者は、その代償として、禁術書に刻まれた文字を読む資格を失う。
どれほど力に溢れた魔王が現れ、ネクロハイヴ禁術書館を我が物にしようと企んだとしても、力ずくでは徒労に終わる。手にした禁術書からは、カイリスの叡智は一文字も残さず、こぼれ出てしまうのだから。
そしてこの禁忌は、身内であっても例外ではない。それはすなわち、知を奪われ、もはや司書としての職責を果たせなくなることを意味する。
皮肉なことに、この規則を定めたのは、ダリアンを攻撃し、自らその禁忌を犯したマクス自身であった。
そしてセレヴィアもまた、それを承知した上で、マクスを討ったのである。
だがそれでも、セレヴィアの言葉は決して強がりではなかった。
彼女は、司書であることを捨て、あらゆる禁術書の力を借りずともなお、勇者に抗うための秘策を、確かにその手にしていた──。
──セレヴィア・デュヴァイネル・ネリ・アシュタ。
アシュタ王国の名を冠する王家の三女として、セレヴィアは生を受けた。
王家が束ねるダークエルフの一族は、闇に特化した魔術と、類まれな感覚能力とを併せ持った影の部族として、魔界でも恐れられていた。
黒曜の石柱が並ぶ王宮に、紫水晶の灯りが煌めく玉座の間。王家は栄華を極め、セレヴィアも何不自由ない生活を送っていた。
だがそれ故に、一族の血統は絶対であり、序列は揺らぐことすら許されなかった。
王家に生まれた者は、誕生の瞬間からその役割を定められ、決して変わることはない。三女であるセレヴィアの人生は、生まれたその瞬間に決まっていた。
魔力、才覚、容姿、知性──
一族の誰よりも、セレヴィアはそれらすべてに秀でていたにもかかわらず、王になることを許されなかった。
彼女は、姫であるがゆえに、あらゆるものに恵まれていた。だが同時に、姫であるがゆえに、あらゆるものを選ぶ権利を奪われていた。
セレヴィアは、それが許せなかった。
王家の三女として、劣った者たちの言う事を聞き、精巧な人形のように生きることが耐えられなかった。
彼女が他の誰よりも突出して秀でていたのは、自分でも抑えが効かぬほどの、傲慢な野心だった。
彼女が欲する自由を手に入れるには、何者にも屈しない力が必要だった。王女である彼女が、その立場に逆らうには、並大抵の力では足りなかった。
王家のすべてを滅ぼし、そして一からすべてを作り直す絶対的な力──それは、たとえ彼女が誰より優れていようと、たったひとりでは、叶えられるものではなかった。
それは、ただの夢物語で終わるはずだった。
だが、禁術書『鏡写の銀環』は、その野心に応えた。
世界を重ね写し、己の根源すら複製する銀の環。触れてはならぬ虚界の理を、彼女は欲し、迷わず行使した。
彼女に宿った力は、彼女を縛るすべてを引き裂き、そして──望む自由を確かに手に入れた。
しかし同時に、禁術書はセレヴィアの世界そのものを滅ぼした。
力の臨界を迎え、混沌が溢れ制御不能となった力に、王都は崩れ、王家は失われ、血と闇の中で、彼女だけが取り残された。
そしてそのまま、彼女の野心はアシュタ王国と共に、鏡写の銀環に呑み込まれて消えるはずだった。
だが、その闇の中から、アルテアはセレヴィアを救い上げた。
なぜ、アルテアが彼女を救ったのかは、分からない。禁術書の回収をしただけだったのかもしれない。
闇の中で、どうすることも出来なくなったセレヴィアを、その野心ごと、魔王カイリスの深淵はいとも容易く呑み込んだ。
この世のすべてを闇に落とした魔王カイリスの絶対なる力。その深淵に触れた瞬間、セレヴィアは理解してしまった。己がいかに矮小で、脆い存在であったかを。
圧倒的な存在の前で、力への渇望は絶望へと変わった。そして同時に、彼女は存在理由そのものを失った。彼女の手には、何も残らなかった。その命ですら、もはや彼女のものではなくなっていた。
鏡写の銀環の行使によって繋がった外世界からの干渉は、今もなお彼女を蝕んでいる。
虚界に存在するネクロハイヴ禁術書館。無数の禁術が眠り、世界から拒まれた者たちが集うその場所でしか、セレヴィアは、生きることを許されない。
この場所から一歩でも外に出れば、何かが、いつか、どこからか、その代償を奪いに来るだろう。
それは、かつてセレヴィアが渇望した自由には程遠かった。
だが、アルテアに仕える日々は、彼女の心に奇妙な安寧をもたらした。
アルテアは何も命じない。何も定めない。ただ、己が死ぬためだけに、そこに在る。
その彼女に仕えることは、懺悔でも、贖罪でもなく、セレヴィアが初めて自ら選び取った、小さな喜びだった──。
セレヴィアとダリアンの会話が終わった、ちょうどその頃。今は廃城と化した、魔王カイリスを生んだ一族のかつての居城に、一つの影が忍び寄っていた。
傷だらけの白銀の装甲、血と灰に塗れた外套、人であるかも定かでない姿をしたその影の手には、しかし確かに、光り輝く聖剣が握られていた。
聖剣を手にすることを許されるのは、この世にただひとり。神に選ばれ、祝福された勇者のみ。
”──闇を滅せよ” だがもはや、その声は祝福ではない。
ただ、頭蓋の内側に直接叩き込まれる、硬質な反復音だった。
考える前に身体が動き、疑う前に剣が振るわれる。勇者はそれに従うだけの処刑人と化している。
”──闇を滅せよ” その手にあるのは、聖剣の形をした斬首刀。
問いを断ち切り、断罪するための光刃だ。もはや、その罪状すら必要ない。
”──闇を滅せよ” 世界がどうなろうと、誰が泣こうと、その声しか届かない。
魔王カイリスの首を刎ねるまで、勇者アレインは止まらない。
だが、勇者は知っている。それで救われる者など、もうどこにもないことを。
”──闇を滅せよ” ”──闇を滅せよ” ”──闇を滅せよ”
それでも、剣を止めることはできない。
──その勇者の前に、セレヴィアは無防備に姿を晒した。
彼女は一切の武器を持たず、当然、一冊の禁術書も携えてない。ただ、虚界の静謐を背に、彼女は立っていた。
勇者の聖剣がその姿を捉えた刹那、白銀の刃は一直線に、その喉元へと突き立てられる。
その狙いは寸分違わず、魔族の処刑は冷酷に執行された。
セレヴィアには、聖剣に打ち勝つ力など残されてはいない。その意志すら、彼女には無かった。
だからこそ──もし勇者アレインに、ほんのわずかでも迷いが残っていれば、この奇跡は起こらなかっただろう。
聖剣がセレヴィアの命を貫いた、その瞬間、彼女の銀環に結ばれた呪いが目を覚ます。
彼女の内奥で、沈黙していた外世界が共鳴音を立てて裏返る。
まるで聖剣が、世界そのものを引き裂いたように現世の境界が捲れ上がり、形を失い、理が遠ざかった。
”マクス、ロロ、リアラ……。ええ、彼こそが我々が待ちわびた──”
セレヴィアの体はすでに死していた。だが、勇者はその声を確かに聞いた。
次の瞬間、その体は捲れた境界の向こうから掴まれ、強引に引きずられた。その力は、勇者が握り締めるその拳から、力づくで聖剣を引き剥した。
外世界から干渉する何者かの力は、勇者であっても抗えず、セレヴィアの体ごと聖剣は向こうの世界に回収された。
己の権能を理解する何者かは、ただそれだけを成し、空間は、何事もなかったかのように閉じた──。
アレインは、聖剣を失った。
聖光の輝きは失われ、掌に残るはずの重みがない。その現実を、アレインは受け止めることができなかった。
「……剣は……」 視線だけが宙を彷徨う。
辺りを見渡し、何も無くなった虚空を見据え、その空虚を確かめるように手を伸ばした。指先が空を掴むと、否定するようにその拳を強く握りしめる。
「違う……違う……」 言葉だけが、虚しく響いた。
もう神の声は聞こえない。主の祝福は届かない。アレインは力なく、その場に膝をつき、祈るようにゆっくりと崩れ落ちた。
「駄目だ……駄目だっ……!」 拳を何度も地に叩きつける。
怒りとも懇願ともつかぬ声をいくら叫んでも、失われたものは戻らない。すべてはもう手遅れだった。
ダリアンは、その姿を見つめていた。
憎むべき敵が、膝をつき、地に這う姿を見ても、喜びの一片も感じなかった。
多くの同胞を殺した者に、復讐する理由ならいくらでも並べられる。だが、ダリアンの胸には、怒りは湧いてこなかった。
裁く気には、なれなかった。
目の前にいるのは、もはや勇者ではない。聖剣を失い、勇すら失った哀れな人間でしかなかった。
だが──だからこそ、このような者をアルテアの元へ行かせるわけにはいかない。
憎しみは無い。正義でもない。それは人魔の間にすら存在する、情けだった。
ダリアンは、静かに息を吸い、一歩、踏み出す。
その動きに、人間は反応しなかった。地に伏したまま、視線は虚ろに宙を彷徨う。背後に立たれていることにすら、気付く様子はない。あれほど忌み嫌った魔族に対し、警戒する本能すら失っていた。
ダリアンは、その哀れな姿を、静かに見下ろす。
「終わりだ……」 頭上から落とされたその言葉は、断罪ではなかった。
それは、与えられた役を最後まで演じきった者に向けた、最後の赦しだった。
無防備に晒された急所へ、ダリアンは腕を振り上げた──
──魔界に広がる闇の森の最奥に、かつて栄華を極めたヴァンパイア一族の廃城がある。
その城の魔王を讃える崩れた石像に、真名を捧げさえすれば、ネクロハイヴ禁術書館への入り口は、誰であろうと開かれる。
その書館の主は、不死のヴァンパイア。
かつて世界を死と闇に落とした大魔王は、書架の最奥で、ただ自らが死ぬための研究に明け暮れている。
そしてこの書館には、もうひとりのヴァンパイアが潜む。
彼にとって、ネクロハイヴ禁術書館の司書として生きることは、もはやそれ以外の生は考えられぬほど、かけがえのないものとなっていた。
その純粋な生への渇望は、館の主の空虚な心に、ほんの小さな明りを灯す。
それは、彼女の抱える大いなる深淵に灯る、一本の蝋燭の火。吹けば容易く掻き消える、闇夜に呑まれる燐光だ。
だが──その光は、死者の想いを乗せて、今も確かに灯り続けている。
ネクロハイヴ禁術書館に眠る無数の禁術書は、ふたりの死と生を密やかに見つめ続ける──
── ネクロハイヴ禁術書館 終 ──




