第四十編 女王遊戯挟・下
禁術書『女王遊戯挟』は、主を失った。その事実は、ほどなくしてセレヴィアの知るところとなった。
「オリヴァ……。貴方はそれで、本当に満足だったのですか」 虚空への問いに、答えは返らない。
セレヴィアには分からなかった。これが、本当にオリヴァの望んだものだったのか。
彼の最期にとった行動は、セレヴィアの知るオリヴァの言動からは、あまりにもかけ離れていた。まるで、それまで見せてきたものすべてが仮面であったかのように──。
いやしかし、それももう何の意味もなくなってしまった。彼の選択も、言葉も、そして彼自身も。
「セレヴィア様。ですが、最悪の事態に備えておく必要がございます。──それと……」
その言葉をマクスが継ぐ。
オリヴァの結末は、それ以外の多くの事を伝えていた。マクスには、むしろそちらの方が重要だった。
「彼のことは、私に一任して頂けませんか。決して、悪いようには致しません」
セレヴィアには分かっていた。マクスの言う「悪いように」とは、彼にとってのことでしかないことに。それは決して、アルテアのためではないことに。
「分かりました。お任せします」 だがそれでも、セレヴィアはそう答えた。
セレヴィアには分からなかった。彼の存在が、アルテアに何をもたらしているのか。それが毒なのか、薬なのか、あるいは、そのどちらでもあるのか。
もし毒であるならば、彼女の安寧のために排除しなければならない。
だが、もしそうでないなら──それは、セレヴィアにとってあまりにも残酷な答えだった。
そしてそれは、マクスにとっても同じだった。
ただ一つ違うのは、彼にとってはどちらでも同じ、ということだけであった。
その一方で、ダリアンは、このネクロハイヴ禁術書館を、ただ守りたかった。
司書としてここで生きること。それは、自分ひとりの願いではなく、他の司書たちとも共有できる想いだと、彼は信じていた。
だが、現実は冷酷だった。オリヴァを倒した勇者が、再びこの書館に現れたなら、ダリアンには立ち向かえる力は無かった。
そんな折、マクスは彼に一つの提案をした。
「ダリアン。貴方は、このネクロハイヴ禁術書館を去るべきです」
あまりにも唐突な通告だった。それだけに、その言葉は刃のようにダリアンの胸へ突き刺さった。
勇者の狙いはこの書館の禁術書と、その主であるアルテアだ。ダリアンが逃げ去ったところで、勇者が気に留めることはないだろう。
だがそれは同時に、”お前はここにいても意味がない”と告げられたに等しかった。
「……私では、勇者には敵わないでしょう」
ダリアンはマクスの事実を突きつける率直な言葉に、せめて誠実に答えた。
「ですが、この書館に眠る禁術の力と、貴方やセレヴィア様の助力があれば、勇者を退けることは出来ませんか?」
彼の脳裏には、エリサルが用いた禁術書『因果閉塞檻』が浮かんだ。あの自己犠牲の結界とでも言うべき禁術をを使うことすら、ダリアンは厭わなかった。
それほどまでに、この場所を守りたかった。
マクスは即座に否定した。 「勇者に、同じ手が通用するとは思えません」
「それに……、貴方が犠牲になることなど、我々は誰も望みません」
マクスの言葉は、ダリアンを気遣っているように聞こえた。実際、そうなのかもしれない。だが、ダリアンは首を振った。
「それでも……、私はここに残りたいと思います」
勇者に対し、残る者たちでどう対処するのかが示されていない以上、ダリアンも引き下がるわけにはいかなかった。
「この書館は、アルテア様の居場所です。彼女がここに在ることを望まれるのなら、司書である私が、ここを去ることは出来ません」
力になれなくとも、それでも、ダリアンはここで司書として生きたかった。
ダリアンの言葉に、マクスは胸の奥に溜め込んでいた何かを押し出すように、深く息をついた。
「……それは、貴方の自己満足に過ぎません」
静かな声だった。だが、その響きには、これまで一度も向けられたことのない棘が混ざっていた。
マクスは視線を落とし、過去を思い出すように書架の影へと目を向ける。
「──魔王カイリスは、禁術『卒都婆玉兎』によって、完全なる不死となりました。
死を克服した彼女は、この世のすべてを死と闇の世界へと変えた」
淡々と語られる言葉の裏に、抑えきれぬ熱が滲む。
「ですが……ある時、玉座を捨て、魔界から忽然と姿を消したのです。
そして、名も、過去も、彼女は全てを忘れ、このネクロハイヴ禁術書館に籠り、禁術の研究に没頭し始めた」
そこで、マクスは一瞬、言葉を切った。
視線が、再びダリアンへと戻る。その瞳は、どこか愉悦を帯びていた。
「……良い機会です。アルテア様が、ここで何をしているのか。貴方には、知る資格がある」
そう前置きして、マクスは語り始めた。それは、魔王カイリスの真実だった──
──魔王カイリスの不死の術の正体とは、『死との同化』です。
この不死の術は完璧なものでした。あらゆる者が、あらゆる術を放とうと、彼女を滅することは出来なかった。
彼女は、死そのものとなり、世界の理から見放され、永遠の残響となった。
ですが、カイリスの不死の術には『三つの秘密』がありました。
その一つ目は、不死とは死の同化であることでした。カイリスの不死とは、死が彼女と一体化して永遠に続いているのです。
二つ目の秘密は、死と同化した結果、彼女はあらゆる”命”の感覚を失ってしまったことです。不死となったカイリスは感情や欲望を持たなくなりました。
そして、三つ目の秘密は、彼女の”命”とは、術によって作り上げられたものであるということです。彼女が持つ熱、記憶、言葉、そのすべては、術が作り出している現象なのです。
ええ、この不死の術は完璧なものでした。ですが、その術の完璧さゆえに、すぐにほころびが生じたのです。
最初は、ほんの些細な違和感に過ぎませんでした。
魔王カイリスは、比類なき闇の力を有し、老いることも、死ぬこともなく、世界のすべてを手にしていました。支配も、恐怖も、永遠も、彼女はあらゆるものを得て、満たされていた。
それでも、その術の完璧さが、彼女自身を静かに侵食し始めたのです。
死と同化した存在でありながら、生の形を保ち続けること。死でありながら、生きているという矛盾。
不死であるにもかかわらず、その命は空虚で、意味を持たない。
生と死を同時に抱え込むという状態が、彼女の内側に亀裂を生んだ。
やがてカイリスは、自らの存在に疑問を抱くようになります。
感情も、欲求も、思考さえも、すべてが術によって作り上げられた虚構の存在に過ぎないのではないか、と。
その疑念は、時を待たず苦痛へと変わりました。
不死の恩恵は色褪せ、終わりのない時間の中で、虚無だけが際限なく積み重なっていく。
皮肉にも、不死の力が、彼女に生への渇望を求めさせたのです。
もっとも、それすらも、完璧なる不死の術が見せる、茶番劇に過ぎないのですが……。
その苦痛と絶望に耐え切れなくなったカイリスは、魔王の地位を捨てる決断を下しました。
彼女は自らの存在を終わらせるため、不死の力の束縛から解放される方法を探す道を選んだのです。
──マクスは、そこで初めて口を閉ざした。
ダリアンは、しばらく言葉を見つけられずにいた。
悠久の時を費やして築かれたこの禁術書の城が、何のためのものだったのか――その答えを知った。
ここに積み上げられた禁術のすべては、ただ無秩序に収集された古文書ではない。ただ一つの目的のために選び抜かれた、執念の研究資料だった。
禁術によって神を殺すとは、禁術という理そのものを破壊し、不死の術をこの世界から強引に引き剥がすという、彼女の辿り着いた指針なのだろう。
アルテアは、ただ死ぬためだけに、途方もない年月と犠牲を重ねてきたのだ。
その願いは、この書館で生き続けたいと願ったダリアンの想いとは、まったく逆のものだった。
マクスは、迷いのない声で語りかける。
「──私は、ただその時まで、アルテア様を見守らせていただければ、それでいい」
「アルテア様が、それを成し遂げる瞬間。そこにこそ、私が求める禁術の深淵があります。
私は、その到達点を、この目で見届けたいだけなのです」
それが嘘でないことは、ダリアンにも分かった。
アルテアの死を望み、同時に、その瞬間まで彼女を守り続ける覚悟は、あまりにも歪で、あまりにも矛盾に満ちていた。
だが、それこそが、マクスという男なのだと確信した、
「ですから──アルテア様が、その目的を忘れてしまうようなことは、絶対にあってはならない。
ダリアン。貴方がここから去るつもりがないのであれば──」
「私は貴方を、排除しなければならない」 マクスは、明確な殺意を露にした。
その声音には、もはや一切の逡巡はなかった。脅しでも、感情の昂りでもない。信仰に殉じる、純粋な殺意だった。
だが、その殺意を向けられてなお、ダリアンは奇妙なほど落ち着いていた。彼が抱いてきた歪んだ情念の正体を、理解できてしまったからだ。
ただ──それでも、分からないことがあった。
自分が、アルテアの決心を揺るがせるなど、あり得ない。彼女の苦痛を癒せるとも、思えない。
それなのに、なぜマクスは自分を過大に評価し、敵視するのか。その核心には届かなかった。
「それでも……、私の答えは変わらない。私はここで司書として生きる」
ダリアンは、一歩も退かなかった。それはマクスのためでも、アルテアのためですらなかった。
それはただ、自分が何者であるかを、自分自身で定めようとする意地だけだった。
「そうですか……」 マクスは、いつもと変わらぬ薄い笑みでそう応えた。
それは、別れの挨拶だった。そして──ふたりの間に、闇が満ちた。
すべての燭台の火が、同時に消える。いや、消えたのではなく、闇に呑まれたのだ。
禁術書に囲まれた書斎は、一瞬で深く沈み込む。マクスの姿は、書架の影と溶け合うようにして掻き消えた。
”どうして私ではなく、貴方なのでしょうか……” その声を、ダリアンは確かに聞いた。
ネクロハイヴ禁術書館に漂う死と血の気配が、マクスを味方する。彼の殺意を、書が掻き消す。
一切の予兆を感じ取らせることなく、闇の術がダリアンに牙を剥いた。
空気が裂ける。闇の中から生じた刃が、一直線にダリアンの喉元を狙う。
それは威嚇でも、示威でもない。躊躇いのない、ただ殺すためだけの一撃だった。
「──ッ……!」
ダリアンは反射的に、寸前で身を引いた。刃は頬を掠め、冷たい痛みとともに血を奪う。
マクスは止まらない。連続して放たれる闇の刃は、速く、絶え間なく、容赦がない。
出所を悟らせない高速の斬撃は予測不能で、見てから反応するしかなかった。そのたびに、ダリアンの身は確実に削られていった。
一方で、ダリアンは攻撃を仕掛けることができずにいた。
ヴァンパイアにとって、闇は恐怖ではない。この闇に乗じて、無数の刃を掻い潜り反撃する手もあった。
だが、躊躇した。ダリアンは、ここに至ってなお、マクスを敵として見ることができなかった。
かつて、マクス自らが語ったその身の正体──。
禁術書『冥王牧羊杖』の力によって、彼は不死王として転生を遂げていた。
そしてその代償によって、もし倒れることになれば、魔族としての死に留まらず、その魂は永遠に冥界に縛られる。
ダリアンは、そのような身に落とさせるほどの殺意を、彼に向けることができなかった。
だが、ダリアンのその躊躇いを塗りつぶすように、マクスの攻撃は激しさを増した。
数多の刃がダリアンに襲い掛かり、その身を何度も切り裂く。赤黒い血が体を濡らし、静かに闇に滲む。
歯を食いしばりながら、ダリアンは一瞬の逡巡に囚われた。
マクスは、これほどの情念を抱えていたのか……俺は、意地を張らず、この場を去るべきだったのか──
……いや、それは違う。たとえその選択をしていても、彼の殺意は収まらなかっただろう。
マクスは、覚悟をもって望んでいるのだ。ならば──
ダリアンの肉体は、限界に近づいていた。死の淵が迫るほど、魔族の血が躊躇いを薄れさせる。
守るためでも、説得のためでもなく、ただ、生き延びるために──
ついに、殺し合いの舞台へ踏み出そうとした、その瞬間──闇を切り裂いたのは、ダリアンの腕では無かった。
──これは、ふたりだけの戦いのはずだった。
勝者がネクロハイヴ禁術書館の司書として残り、敗者は、その資格を失う。
ただそれだけの、男の意地の張り合いに過ぎなかった。
だが、それは唐突に破られた。
闇を裂くように走った光弾が、無防備なマクスの背を撃ち貫いた。それは──セレヴィアから放たれた魔力弾だった。
マクスは、何が起きたのか理解できないという表情で、その場に立ち尽くした。
振り返ることすらできず、ただ目を見開いたまま、この裏切りを受け止めきれずにいた。
セレヴィアは、そんな彼を見つめていた。
無粋を承知で割って入った彼女の顔に浮かんでいたのは、ただ、ただ、深い悲しみだけだった。
書斎を支配していた闇が、ゆっくりとマクスへ収束していく。それは、戦いの終焉を告げる幕となった。
だが、マクスはまだ、諦めていなかった。
死を悟りながら、それでも残った力を振り絞り、なおもダリアンを道連れにと、執念を燃やし殺意を向ける。
しかし、闇がほどけた視界の先に、彼の瞳が捉えたのは、ダリアンではなく──アルテアの姿だった。
その瞬間、マクスのこれまでのすべてが崩壊した。
意地も、誇りも、渇望も、そのすべてが崩れ落ち、意味を失ってしまった。
魔力は霧散し、彼は力なく俯いた。 「──アルテア様……」
「申し訳、ありません……。私の力は及ばず、貴女の願いを……叶えることはできませんでした」
マクスは、最後に跪き懺悔した。
「おやすみなさい。オーレマクス・サルヴィル・ドラゼリス」
彼女からの声は、命令でも、赦しでもなかった。
その口から名を呼ばれた瞬間、マクスの瞳からひと筋の涙が零れ落ちた。
仲間を裏切り、人間さえ捨て、アルテアに殉じた男は、その役目を終えるように、静かに闇の中に還っていった。
ダリアンには、マクスという男が最後まで分からないままだった。
ただ、何も語らず、その死を見送った。
静まり返った禁術書館は、彼の死を受け取るように、闇に深く沈んでいた。




