第四編 確定航路法
このネクロハイヴ禁術書館への来館は、魔王像に名を捧げることで許される。本来それは、魔王への忠誠を誓う儀式であるはずなのだが、本心を暴く術が組まれているわけでない。ゆえに、当然ながら忠誠なき者が紛れ込むこともある──ダリアンがそうであったように……。
そしてその意図された欠陥は、このネクロハイヴ禁術書館に様々な出会いをもたらすのだった──
──その日、ネクロハイヴ禁術書館にある男が訪れた。
何かに取り憑かれたように、男は幽鬼のように静かに、しかし確かに姿を現した。
ダリアンたちの前に、その男が一歩踏み出しただけで、その身に纏う空気が伝わった。ゆるやかに歩を進めるその姿勢は、軽く顎を引き、目線は高く、所作の一つひとつに洗練された気品が宿る。背筋は真っすぐに伸び、まるで百年の歴史を背負ってなお、崩れぬ矜持を語っているかのようだった。
その男は──魔界の貴族だった。
「ネクロハイヴ禁術書館によく御出で下さいました。
私は、リアラゼル・キヴァレス。よろしくお願いいたします。」
「私は、ダリアン・アザール・ノクシガー。どうぞよろしくお願いします。」
その男をもてなすリアラに並び、ダリアンは頭を下げてその男を迎えた。そして、リアラはひとつ尋ねた。
「メルナード・ディアレフ・ドルファーレ様。今宵は、何を御所望ですか?」
「……これは、これは、美男美女のご丁寧な歓迎、痛み入ります。」
その男は二人の礼に対し、優雅な所作で礼を返した。そして、口元に笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
「ここがあの、魔王の禁術書を秘蔵するネクロハイヴ禁術書館─…。ハハハ…、まさに、その名に相応しい──否、これ以上ない禁書の魔城……。」
男はゆっくりと首を回して辺りを見渡し、独り言のようにそう呟いた。
確かに、初めてこの書館を訪れた者であれば、その荘厳さに圧倒されるのも無理はないことだった。しかし、彼の目が再び二人に戻ると、リアラの問いを思い出したかのように、唐突にそれに答えた。
「ああ、そう、私が求めるもの──」
「私を、魔王にしてくださいますか?」
全く何の脈略もなく差し挟まれた、そのあまりに法外な要求は、ダリアンの眉を歪ませた。
「─…、それは何を以て、ドルファーレ様は魔王となりたいのでしょうか?」
対してリアラは、そのような要求に対しても、微笑みを浮かべつつ、淡々と言葉を綴る。
「魔王に相応しい魔力を与える禁術、それを望まれますか?」
「ああ、それは?」 そのリアラの問いに、男は飛びつく。
「身に余るほどの力を授ける禁術書─…たしかに、当書館は有しております。
ただ、それは、ただそうあるだけのものに過ぎません。」
彼女は、微笑を崩さぬまま男に答える。口調は穏やかだったが、その言葉には、軽率な願望への警鐘が滲む。
「たとえ魔王に匹敵する力を得たとしても、現魔王の座の簒奪となれば、それは魔王のみならず、その勢力すべてをうち滅ぼす戦いとなるでしょう。」
彼女は、当然のように告げながら、冷徹に現実を突きつけていた。まるで、男の価値を測るかのように。
「──その戦いの準備は、お済でしょうか?」
最後の一言は、男の心の底を覗き込み、そして、試すものだった。
男は、リアラの柔らかな声音の奥にひそむ鋭い刃に斬られたかのように沈黙した。その沈黙こそが、彼女の問いに対する答えを雄弁に語っていた。
「……。ならば……、魔王の配下どもを、奴らを残らず滅ぼす禁術を……」
しばしの思案ののち、男は口を開いた。その声音には、理想と現実の狭間で揺れる煩わしさと、追い立てられるような焦燥が滲んでいた。
だが、そんな男の動揺にも、リアラは一切動じなかった。ただ、静かに、深く暗い湖底のような瞳で彼を見つめる。
「他者を滅ぼす呪いの禁術は数多くありますが、どのような苦しみをお望みでしょう?」
その声は穏やかで、その問いは丁寧であったが、温度は無かった。
「ただ、呪いの禁術はすべからく、同等の代償をドルファーレ様ご自身にも求めます。」
「──その覚悟は。おありでしょうか?」
リアラの二度目の問いは、一度目よりもさらに半歩間合いを詰めて、男の喉元に冷たい刃を突き立てる。男の願いとそれを叶える禁術を天秤に乗せ、その平衡をただ冷徹に裁定していた。
二度目の問いは、一度目よりもさらに深い沈黙を呼び込んだ。
その静けさのなかで、ダリアンはこの男の内面、本質的な部分に目を向ける。
一見すれば、その身なりは格調高く、古き魔界貴族の威厳を漂わせていた。深い紫に染め上げられた式服は繊細な刺繍で縁取られ、左胸には三つ首の蛇が絡み合う名家の紋章が掲げられている。
だがそれも、今の男の姿と重ねると、釣り合わないものだった。
初見の印象とは違い、ダリアンがそれに気づいたのは、リアラの「問い」によってだった。
おそらく、リアラは最初から見抜いていたのだろう。
そう思って改めて男を見やると、その衣の袖は擦り切れ、金糸の装飾はほつれかけ、紋章の金属板さえも曇っている。
それでもなお、男はその紋章にすがるように手を置き、誇示するように胸を張っていた。──それは、かつてその紋章ひとつで人々を跪かせたという、過去の栄光に縋りつく没落貴族の姿そのままだった。
「……。私は…、なんとしても、家の再興を成し遂げたいのだ……。」
何とも弱々しく声を絞り出し、その男の要求は、ついに身の丈に合うところまで落とし込まれた。
この男の着飾った服と同じく、外見ばかりを取り繕いながら、中身がまるで追いついていない。だからこそ、そこには確たる意志もなく、他人の言葉に容易く流されてしまう。
当然、自らを灼くほどの覚悟をもって物事を成し遂げるような強さなど、望むべくもない。この男の最後の拠り所である家の再興すら、ダリアンには身の丈に合わぬ願いに思えた。
(ならば、それに応えるのは禁術ではなく、努力なのでは?)
ダリアンは、心の中でそう思う。おそらくは、リアラもその様に考えていると、そっと視線を送る。しかし、彼女の言葉は、それとは違うものだった。
「私から、ひとつの禁術を提案いたしましょう──こちらへ。」
そう告げると、リアラは戸惑いを見せる男二人を、書館の一室へと静かに導いた。
彼女が手に取ったのは、一冊の厚い禁術書だった。
「こちらは、『確定航路法』が記された禁術書となります。」
そう言って男の前に差し出された書は、この書館の蔵書の中でも、ひときわ傷みの激しいものだった。表紙は擦れ、背表紙は割れ、ページの角は何度もめくられた痕跡にすり切れている。それだけ古く、同時に、過去幾度となく使用されてきたことを物語っていた。
男がその書をまじまじと食い入るように見つめるなか、リアラは静かに口を開いた。
「確定航路法──それは、本来、神のみが知る未来の一端を、あなたに覗き見せる禁術です。この術を用いれば、あなたは確定した未来の自身の姿を知ることができるでしょう。」
「ドルファーレ様が求める家の再興──それを成し得たか否か、あなたは今この瞬間に、それを知るのです。」
その言葉は一つ一つが男に重く響き、そして悩ませた。
この禁術は、自らの野望を叶える直接的な助力となるものではない。力を与えるわけでも、敵を討つわけでもない。だが、それ以上に魅力的にみえた。
男は唇を噛み、つぶやく。
「その未来は、間違いないものなのか……?」
「──はい。神が定めた未来は絶対です。魔王すら、その定めには逆らえません。」
その返答に、男は三度目の沈黙をする。しかし、それはすぐ破られた。
「─…わかった。この禁術を詳しく教えてもらおう。」
それを受け、リアラは静かに頷き、禁術の説明を始めた──
「この禁術は、未来のある一点を確定し、その時点におけるあなた自身の姿を、あなただけに教えます。」
彼女は丁寧に言葉を選びながら続けた。
「ただし、これにはいくつか重要な制約があります。
まず一つ、この禁術で一度未来の時を定め、そこにおける己の姿を知ったなら、その時が訪れるまで、二度とこの禁術を使うことはできません。」
「もう一つは、この禁術が示す未来は、あくまで術者本人の未来です。他者に深く関わる未来は、その者自身もこの禁術の術者となる必要があります。」
リアラは、少しだけ間を置いて続けた。
「─…そして、この禁術に課される代償についてですが──、実は、明確なものは存在しません。」
「この禁術書が精神へ干渉することもありませんし、ドルファーレ様が知った未来を、秘密にする必要もありません。」
彼女の声は淡々としていたが、その静けさには、どこか深い含みがあった。
「……ただ、強いて挙げるとすれば──『知ること』そのものが、代償になり得るかもしれません。」
「──以上です。さて、この確定航路法の禁術書でよろしいでしょうか?」
リアラの問いに、男は無言のまま頷いた。
わずかに肩の力を抜き、不安を内に飲み込むようなその仕草は、言葉以上に多くを語っていた。他の選択肢を男が考えなかったのは、この禁術の結果を見た後でも遅くない、と考えたからだった。
そしてなにより、この男にとっては、自らに何の代償も必要ないことが決め手となった。
「では、どうぞお持ちください。返却期限は設けておりませんが、禁術を行使された後は、できるだけ速やかにご返却をお願いします。」
リアラに促され、男は慎重に禁術書を手に取った。その表紙に指先を触れるとき、わずかに手が震えたのを、ダリアンは見逃さなかった。
そして、立ち上がる男の背を、リアラとダリアンは見送った。その男の背は、禁術によって重く沈んでいるように見受けられた。
「メルナード・ディアレフ・ドルファーレ様。またのお越しをお待ちしております。」
男が禁術書館を後にし、二人きりになったダリアンは、ふとリアラに問いかけた。
「なぜ、あのようなクズにも丁寧に応対するのですか?」
あの男の本質が、見かけ倒しの中身のない人間であることは明らかだった。リアラならば、それを最初から見抜いていたはず──そう確信していたからこそ、ダリアンは一切言葉を包み隠さずむき出しのまま、リアラに尋ねた。
その問いに、リアラは一度だけ目を伏せ、かすかに微笑みながら答えた。
「──それが私の、役目ですから。それに、他の方々の手を煩わせることもないでしょう。」
その言葉は、ダリアンの胸に引っかかるものを残した。
ここでの日々を通して、禁術書館の知識はある程度得たつもりだった。関わる人間たちの関係も、徐々に見えてきた。
しかし、自分がそうであったように、なぜ彼らがこの場所に席を置いているのか。何のために禁術司書という立場に身を置いているのか。そこに踏み込む術は、まだ持ち合わせていなかった。
他の者たちについては、まだ想像が及ぶ。ロロのように、知識への純粋な探求心が原動力になっている者もいるだろう。 だが、リアラについては違った。彼女は常にダリアンの一番近くにいるにもかかわらず、最も理解しがたい存在だった。
ダリアンは、その本当に知りたいことの代わりに、もう一つ質問を重ねる。
「リアラは、あの男が確定航路法をどう使うと考えますか?」
その問いに、リアラは笑みを深くして答える。
「それならば、どう使うかではなく、使うかどうか、かと─…。」
その返しに、ダリアンは自分の洞察がまだ甘かったことを思い知った。
たとえ使ったとしても、確定航路法が見せる未来の真実に、果たして彼は向き合えるだろうか。十中八九、その未来は、彼の望むものではない。そこに待つのは、願いが叶わなかった現実と、それに伴う痛み。その痛みに、あの男は耐えられないのではないか。ならば、いっそ禁術の使用そのものを諦め、嘘で塗り固めた虚栄の中で、生きる道を選ぶ。
その可能性のほうが、むしろ自然に思えた。
確定航路法には代償がない──確かにリアラはそう言ったが、『知ること』そのものが代償になり得る、とも言った。
確かにそこに嘘はなかった。あの男は、その無い代償をも支払えないとは、なんとも皮肉な話だった。
納得の色を浮かべるダリアンの表情を見て、リアラは最後に、言葉を付け加えた。
「それに──クズ男。私は嫌いではないですよ。」
その一言には、リアラという人物の、ほんの一端が滲んでいた。それは、確かに彼女の内に触れた気がして、ダリアンは思わず、ほんの少し笑みをこぼした。
──そして数日後、男は再び姿を現した。
再びネクロハイヴ禁術書館に足を踏み入れた男は、リアラの姿を見つけるやいなや、縋るように歩み寄り、切羽詰まった声で尋ねた。
「この禁術は……、本当に、間違いないのか?」
その必死な表情にも動じることなく、リアラは平然と頷く。
「ええ。それは間違いありません。」
男はリアラの言葉を噛みしめるように俯くと、やがてぽつりぽつりと言葉を吐き出した。
「─…そうか…、そうか……。──私は…、どうあればいい─…。…いや、具問か……。もう……そんなことはどうでもいい。──だた、あればいいのだ……。」
その様子を少し離れた場所から見ていたダリアンは、男の不安定な言動に不穏さを感じ、リアラのそばへ歩み寄ろうとした。
だがリアラは、それを制するように手を上げると、男に問いかけた。
「確定航路法──使用されて、未来を見たのですね?」
その問いかけに、男は我に返ったようにリアラを見つめ、そして、頷いた。
「─…ああ。私の願いは、叶ったよ……。」
その返答は、ダリアンを驚かせた。
──男は、千年先の未来を見たのだという。そしてそこでは、魔王を守護する十傑の一人として、彼の家の紋章が魔王の城に掲げられていたのだと言った。
その千年後という時間は、まさにこの男の本質を象徴していた。
たとえ魔族といえど、それほどの悠久の時を重ねれば、何が起きても不思議ではない。ましてや、魔王の存在すら定かでないような時の果てならば、たとえ望みが叶っていなかったとしても、いくらでも言い訳が立つだろう。
そして何より、男が見たという未来の光景も、解釈次第でいかようにも意味づけられる、曖昧なものに過ぎなかった。
「それは、おめでとうございます。」
リアラは優しく微笑み、男を称えた。その柔らかい声からは、一切の邪気も感じられなかった。
「ああ……。ありがとう。」
男はその言葉を素直に受け取り、頭を垂れる。
そんな様子を見ていたダリアンは、一瞬、彼が嘘をついているのではないかという疑念を抱いた。
真実から目を背け、自らに嘘をつき、虚栄で塗り固めた理想の城に籠る。先日、この男から感じた通りの可能性も考えたが、今の男の様子は少し違っていた。
もし、本当に虚構を演じに態々ここに現れたのなら、その理由はただ一つ。己の物語を他者に認めさせたいという、承認欲求に他ならない。ならば、我々に最初にみせた姿をなぞり、より誇張すらして、自らを大きく見せようとするはずだ。
──しかし、今の彼にはそれがなかった。
むしろ、彼の姿は弱々しく、その身にまとう鎧を脱ぎ捨てたように、内面の脆さを隠そうともしていなかった。
「これは、私に与えられた啓示だ──。あの場所に辿り着くと定められているのならば、その道のりがどれほど辛かろうと、もはや恐れる理由などない……。」
男が身を震わせて吐く宣言を聞いて、ダリアンはようやく彼の変化の理由に辿り着いた。
確定航路法──それは、未来を知る禁術。この術を使った瞬間、術者にとっての現在は、過去となり、見えた未来が現在となる。本来、未知であるはずの未来は確定し、その道筋は既知の航路として定められる。
つまり、この禁術の核心は、時間の価値観が転換することにある。
見えた未来の善し悪しに意味など無いのだ。それによってもたらされる感情が、希望であれ、絶望であれ、もはや過去のものとなってしまうのだから……。
この時間の転換は、普通の価値観に生きる者には、耐え難い苦痛となるだろう。今という過去にこだわり、未来という既定の現在に押し潰されて、藻掻き、足掻くことになる。たとえどんな未来を見たとしても、今を捨てることなど、できるわけがないのだから。
そして、その姿はまさに、禁術を使う前の、過去に囚われたあの男と同じものなのだ。
では、確定航路法を使用したことで、あの男はどう変わったのか。
過去に囚われた男の過去は彼方へ消え去り、代わりに押し寄せる未来に囚われた。見えた光景に縋るようにして生き、そこへ向かうことだけを己の価値とする、あの男の本質は──そう、何も変わっていない。
何のことは無い、過去の栄光が、未来の栄光へとすり替わっただけなのだ。
何とも滑稽な話だが、あの男は変わっていないからこそ、現在の有りように変化が生まれた。
未来に辿り着くことだけに価値を置いたその姿からは、かつての脆さは消え去っていた。
「─…キヴァレス殿。それでは確かに、この禁術書はお返しします。」
リアラは静かに頷き、男の差し出した書を丁寧に受け取った。そして男は、ダリアンの方にも顔を向ける。
「ノクシガー殿。あなたにも世話になった。
また……、いや──もはや禁術など必要としない私とは、もう会うこともないでしょう……。」
そう言って、男はどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「そうですね。……もし、再び会うとすれば千年後。」
世話をした覚えのない男に、ダリアンはわずかに口元を緩めながらそう答えた。
彼の言葉や在り方に、ダリアンは多くの事を考えさせられた。そして今は、自分がかつてこの男をクズと呼んだことを、どこかで悔いていた。
そして、ネクロハイヴ禁術書館を後にするメルナードを、二人は最後に無言のまま見送った。
男が禁術書館を去り、残った静けさの中で、その余韻に浸るダリアンは、ふと呟いた。
「見る顔の向きが違うだけのことで、ここまで変わるものなのか……。」
その言葉を耳にしたリアラは、少し間を置いてから、静かに語り出した。
「─…かつての栄光に取りつかれていた彼を、確定する未来に憑りつくよう誘導はしましたが、本当にそれが栄光に繋がっているのかは、彼しか知らない事です。」
「これ以上は、私たちが何を語ったところで、意味はないでしょう。」
それは、正しかった。あの男が見た未来は、自分の都合のいい様に勝手な解釈をしたものに過ぎない。それを我々がとやかく言ったところで、真実など分かるはずもない。正解は、千年経たなければ分からない。
ただ、これまでの事を思い返すと、ダリアンの心には、ひとつだけ引っかかるものが残っていた。
(まさかリアラは、彼のこの結末まで見えていたのか……?)
これまでメルナードに向けていた思索を、今度はリアラへと向ける。そのまま、何気ないふりをしながら、そっと彼女の表情を伺った。
しかし、その視線はリアラに気づかれ、その魂胆はあっさりと露見した。
「─…違いますよ。」 いつもの落ち着いた口調で、リアラは言葉を続けた。
「ただ、彼がもし望まぬ未来を見たとしても、いくつか対応策は考えてはいました。けれど──」
そこでリアラは、肩をすくめて小さく笑う。
「まさか彼が当たりを引くとは……、フフッ、想定外でした。」
リアラの小さな笑みに、ダリアンもつられるように笑みを漏らす。そこには、どこか心地よい敗北感があった。
(ああ、そうか……。ハハッ、手玉に取られていたのは、俺も同じか……。)
負けを認め、自嘲の笑みを浮かべながらも、ダリアンは一つの思いに至る。
──リアラは、果たしてメルナードには「勝った」と言えるのだろうか。
リアラは禁術によって彼を導いたが、過去に縛られていた者を、未来に縋らせただけに過ぎない。
だが、それによって彼は、過去に囚われ立ち止まるより、未来に向かって歩くことを選んだ。
その歩みの先にあるものが、どちらの「勝ち」なのか──それを知る術は、まだ誰にもない。
ダリアンは一つ深く息を吐くと、静かに背を向けた。
書架の奥に沈み込むようにその影に紛れると、ネクロハイヴ禁術書館には、再び重厚な静寂が戻っていた。