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第三十八編 女王遊戯挟・上

「──アルテア様。勇者は退きました」

 廃城での戦いが終わって間もなく、ネクロハイヴ禁術書館の最奥にて、セレヴィアはただそれだけを報告した。

 リアラの死も、エリサルの消滅も、勇者の仲間たちの犠牲も、それ以外の一切を彼女は伝えなかった。この書館に危機を及ぼす要因足りえない情報は、不要だったからだ。


「そう……彼は?」 アルテアは、わずかな間を置いて問い返す。

 セレヴィアは即座に答えた。 「はい。無事です」

 彼が誰を指しているのか、説明は要らなかった。


 セレヴィアは、マクスやオリヴァと同じく、アルテアを崇拝している。だが、その在り方は彼らとは異なっている。

 両者は、それぞれの内に描いた理想像をアルテアという実像に重ねているが、セレヴィアは違う。彼女はただ、アルテア自身の願いが成就することのみに仕えていた。


 アルテアが禁術書を集め、研究と研鑽に明け暮れているのは、その願いのため。

 ゆえに、それを妨げる存在があるのなら、セレヴィアは躊躇なく排除する。そこには、敵味方の区別すらない。

 その彼女にとって、彼を案じるアルテアの言葉は、ひどく重たく響いた──。


 一方その頃、オリヴァはエリサルの戦いを見届け、しばし沈黙の中にあった。


 オリヴァが次に打つべき手は、考えるまでもなく明白だった。

 度重なる魔界の動乱と、勇者がもたらした破壊によって、魔族の力はかつてないほど衰えている。人間と魔族の均衡は酷く乱れ、魔族はいま負け過ぎていた。

 魔界の調停者として、何を置いてもまずやらなければならないのは、この魔界の立て直しだった。


 この戦いの結末は、本来ならば、彼にとって喜ばしいものであるはずだった。

 魔族への復讐に燃える勇者を、禁術の檻に閉じ込める――その計画は、数十年、あるいは数百年を費やすことすら覚悟して進められた作戦だったのだ。

 それが、わずか一日と経たぬうちに決着し、勇者を退かせることに成功した。

 エリサルという犠牲を払ったとはいえ、その結果は、なお余りある戦果だったと言える。


 それでも、オリヴァにはまだ迷いがあった。

 勇者たちは二名の仲間を失い、戦力は確実に低下している。だが、聖剣を携えた勇者の力は、たとえ独りとなったとしても、決して侮れるものではない。今の魔界に残された戦力で、まともに戦って勝機があるとは言い難かった。

 だが、その危険以上に、今の状況は千載一遇の好機であるようにも、オリヴァには思えた。


 こちらの再軍備が、勇者たちの再起よりも早いとは限らない。こちらは、数を揃えるだけでは足りないのだ。あの力に対抗するには、強大な魔が必要だった。

 次に、互いが万全を整えた時――果たして、こちらに分はあるのか。今ここで、仕留めておくべきではないか。


 そう考えたとき、エリサルを失ったという事実が、オリヴァには重くのしかかった。

 そこに、弔いと呼べる感情があったのかは、彼自身にも分からない。ただの打算であったのかもしれない。

 だが、それでも彼を突き動かしていたのは、確かにエリサルの喪失だった。


 しかし、オリヴァには策がなかった。勇者を逃さず、確実に仕留める策。それは容易な話ではない。

 今回のように、予測できる場所へ罠を張る手は、もう使えない。そもそも、二度にわたる禁術によって仲間を悉く失った勇者は、術そのものへの警戒を高めているはずだ。

 これ以上、騙し討ちを狙った手は、勇者には通じない。そう考えるのが自然だった。


 オリヴァは沈黙し、考え込む。その彼に、ある提案が持ち掛けられた。それは、マクスからのものだった──。


 彼が差し出したのは、ある一つの禁術書。ここに至り、更なる禁術の登場に、当然オリヴァは快くは思わなかった。

 だがその禁術を用いた策は、今の勇者であるからこそ、絶対に逃れられない手。元人間の彼だからこそ思いつく、人の弱みに付け込んだ悪魔のような策だった。

 いやしかし、それだけでなく、同時にそれは、オリヴァ自身にも突き刺さる毒の刃だった。


「──使えば、二度と元には戻れません」

 毒と分かって差し出された杯を、すべてを承知で口にするほど、オリヴァは愚かではない。普段のオリヴァであったなら、こんな論外の提案など、にべもなく突っぱねていただろう。


 だが、オリヴァは我慢ならなかった。


 マクスの不届きな提案にではない。

 使える所有物として手元に置き、頃合いを見て捨てたはずの(エリサル)を、勇者は奪った。それは、オリヴァどころか、駒すらすべて承知の上でのことだった。だが、それが許せない。

 この理不尽な憤りを生み出すのは、魔族の血だ。その血がたぎるマクスの策は、どうしようもない衝動を掻き立てる。

 この悪魔の策を勇者にぶつける誘惑に、オリヴァは逆らおうとはしなかった。


 それからのオリヴァの動きは素早かった。

 まず何より先に、温存しておいた自軍の精鋭を、勇者を足止めさせる追手として差し向けた。そして瞬く間に、魔王の残存勢力と、サリエントの残党をかき集め、結集させた。

 それは、勇者討伐の狼煙、魔族の中に燻ぶる勇者への怨嗟を晴らす号令だった。つまりは、魔王が勇者に討たれた今の魔界において、自身が新魔王となる宣言に等しいものだった。

 実力者として知られながら、彼は今まで魔王の地位についたことなど無い。彼がそれを望まなかったのは、魔王カイリスこそ、絶対無二の魔王だと信じているからだった。


 そのオリヴァにそうさせるだけの力が、マクスが与えた禁術書『女王遊戯挟(エレシュ・エシェメン)』にはあった。


 その最中、ダリアンもまた、答えを見出せないでいた。

 ロロの死を発端として始まった勇者との戦いで、リアラをも失った。ネクロハイヴ禁術書館にあったふたりの面影は、もう思い出の中にしか残されていない。

 そして続く、共に戦ったエリサルの死。幾つもの死に、彼の心は揺れていた。


 これほどの犠牲を払いながら、オリヴァはなおも、魔界の存続を賭けた新たな戦いへ踏み出そうとしている。

 それを止めようとは思わない。この戦いは、人魔の宿命だ。逆らうことなどできはしない。

 それは分かる。ただ――この短い間に、あまりにも多くのものが失われ、そして世界がさらに壊れていくのを前にして、司書としてどうあるべきか、その足元は揺らいでいた。


 ダリアンは内に潜む恐れを払うため、静まり返った書館にてマクスと対峙する。

「──この先、どのようにお考えですか?」

 投げかけたその問いは、行き場を失った彼の不安が、そのまま漏れたものだった。


「ネクロハイヴ禁術書館は、何も変わりません。変えてもいけません」

 指を組み、いつもと変わらぬ声音でマクスは答えた。司書としてあまりにも完璧なその返答は、反論の余地を与えない。

 だがもし、その不変の意志のために、オリヴァにあの禁術書を渡したのであれば──そこに、ある疑問が浮かぶ。

 

「……貴方は、オリヴァを殺したいのですか?」 剥き出しの問いに、マクスの指先がぴたりと動きを止める。

「ヴァーキサル様を殺したいわけがない。私が殺したいとすれば、それはネクロハイヴに仇なす者、勇者です。

ただ──勇者を殺すには、こちらも命を賭けねばならないでしょうが……」

 ダリアンに薄く笑みさえ浮かべ、マクスは答えた。


 ダリアンのマクスに対する信頼は揺らいでいた。

 彼はこれまで、悠久の時をここの司書として過ごし、数多の禁術書を貸し与え続けてきた。その瞳は、ダリアンが知る以上の絶望を映して来たことだろう。

 その彼の、ネクロハイヴ禁術書館の司書としての覚悟は敬意に値する。

 だが、それがマクスを信頼できることには、もう繋がらなかった。


 ただ、誤解しているだけなのかもしれない。かかる事態を、今だけではなく、さらに先をも見通して考えるなら、今回のことは全て、やむを得ないものなのかもしれない。

 ダリアンに彼の深淵は見通せない。一体何を望み、何のために行動しているのか、本心を推し量ることは出来なかった。


「──ですが、あの禁術書を、彼は本当に使うでしょうか?」

 禁術書『女王遊戯挟』の代償は、ダリアンも知っていた。その不合理な決断を、オリヴァが下すとは、彼には思えなかった。

「私は、貴方よりかはヴァーキサル様を理解しています。あの禁術書は、彼が使うにこそ相応しいものです」

 そのマクスの声は、静寂に包まれたネクロハイヴ禁術書館に、あまりにも無情に響いた。


 同じ頃──魔界の地にて、勇者たちは戦っていた。

 あと一歩で魔界を抜けられる。というわずか手前の荒野で、魔族の軍勢に捉えられた。

 発見と同時に四方を囲まれ、逃走経路は塞がれた。勇者には、目の前の大軍を倒していくしか道は残されていなかった。


 勇者は聖剣を振るう。光の軌跡が闇を裂き、迫り来る魔物の群れを次々と薙ぎ払っていく。

 その力は、仲間を失い、ここまで戦いを繰り返していてもなお、衰えを知らなかった。


 ただ一人、生き残った仲間がロメリアであったことは、勇者が手にしたわずかな幸運だった。

 彼女は後衛に立ち、癒しと加護の術を絶え間なく勇者へ注ぎ続ける。血に(まみ)れ、息を荒げながらも、剣を振るい続ける勇者を、彼女の力が守っていた。

 その彼女たちに、いくら雑兵を向けたところで、物の数にも入らなかった。


 だが、それらすべては織り込み済みの、オリヴァの作戦に過ぎなかったのである。


 先陣を切った魔物の大軍は、最初から勇者を討つためのものではない。

 彼らの役目はただ一つ──オリヴァの到着まで、勇者をここの地に釘付けにすること。そのために死ぬ事。

 その役割を、オリヴァの兵たちは完璧にこなしてみせた。彼らにあるのは、勇者という存在を憎悪する本能と、オリヴァへの忠誠だった。

 そして、戦いの果てに地に伏す魔物の屍が幾千にも及び、大地が血と瘴気で満たされたそのときだった。屍の山の向こうから、オリヴァの一団が姿を現す。


 ──ここまでの戦いは、すべてがあの悪魔の掌の上にあった。その敵を視界に捉えた瞬間、勇者アレインは本能で悟った。

 勇者と新たな魔王の視線が交差する。その刹那、オリヴァは一切の躊躇なく、禁術書『女王遊戯挟』を開いた。


 書より溢れ出したのは、光ではなく、深淵だった。

 禍々しい闇が波のように広がり、血に濡れた大地を覆い尽くす。瘴気は濃度を増し、空気そのものが腐臭を帯びていく。その広がりは、オリヴァという魔の強大さを、突きつけるものだった。


「ロメリア、君は逃げろ」 勇者は魔王を見据えたまま、背後のロメリアに告げた。

 敵に臆したのではない。魔族の術の凶悪さが身に沁みている勇者は、これ以上仲間が犠牲になるのを見たくなかった。

 だが、ロメリアは首を振る。 「闇の術への対抗策なら、私の方が心得ています」

 その言葉に、勇者はもう何も言わなかった。


 勇者たちを取り囲むように、闇が大地を呑み込んだ。

 一瞬、時が止まったような静寂が訪れる。しかし、その直後──闇は反転し、蠢き出す。

 闇の中から、勇者が殺した魔族の屍が、軋む音を立てて手を伸ばす。

 砕かれた骨が歪に曲がり、裂けた肉は剥き出しのまま起き上がる。

 完全に息絶えていたはずの魔族の空虚な眼窩に、死者の紫光が灯る。


 女王遊戯挟とは、かつて魔王カイリスが最も得意とした禁術。死者の魂を弄び、思いのままの奴隷へと貶める闇の術だ。

 そしてそれは、かつてオリヴァの肉親すら蹂躙した、忌むべき禁断の外法でもあった。


 魔王の玩具と堕した幾千の死者の兵が、一斉に勇者へと向けられる。

 打ち倒され、大地に伏していたはずの敵が、再び怨嗟を纏って歩み寄る。その歩は歪で、力もない。生の光を失った、ただの人形に過ぎない。

 だが、命の価値を失った人形たちは、互いの命を顧みない。痛みも、恐怖も、ためらいもない。

 ただ、生あるものを奪い尽くすためだけに存在する死の大隊が、勇者を呑み込もうと牙を剥く。


 オリヴァにとって、この禁術は唾棄すべきものであるはずだった。

 あの日、すべてを奪われ、恐怖の虜となった死の禁術。自らがそれを振るう日が来るなど、想像したことすらなかった。

 だが今、オリヴァの胸を満たしているのは、嫌悪でも後悔でもない。抗いようのない恍惚だった。


 恐怖によって縛りつけられていた魔族の本能は、この術を使った瞬間、解き放たれた。

 死者を支配し、運命を踏みにじる力を、この手に宿しているという実感。

 崇拝する魔王カイリスと、同じ高みに立っているという歪んだ充足。


 オリヴァには、理解があった。この瞬間、取り返しのつかない一線を越えたのだと。

 だが、それでもなお、この力を振るうことを、やめられなかった。

 ──恐怖に怯えていた過去の自分は、完全に消え去り、恐怖そのものへと変貌を遂げる。

 魔王オリヴァは、人の身を映すその最後に、静かに笑みを浮かべていた。

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