第三十七編 因果閉塞檻・下
ネクロハイヴ禁術書館の入口にあたる廃城に、勇者たちが姿を現したその瞬間──
禁術書『因果閉塞檻』を発動すれば、彼らを確実にその檻の中へ封じ込めることができる。
来る場所と時さえ把握していれば、これは不可避の封印術となる。
だが──その代償は、術を行使する者にも帰する。
オリヴァにとって、エリサルを失うことは大きな痛手だった。
魔王ザルヴァスの忘れ形見である彼女は、魔王復活のための杯。魔王たる器に捧げる血の杯として、エリサルは今、申し分のない成長を遂げていた。
しかし、背に腹は代えられない。
勇者によって魔界そのものが滅ぼされるのであれば、それ以上のものを失うことになる。
そもそも彼女は、魔王を生むための糧として手に入れた半魔である。元々の用途とは異なるが、得られる結果を思えば、この場で消費することも、妥当な使い方と言えた。
呼び出されたエリサルは、禁術の説明をただ静かに聞いていた。この禁術書を用いた先に待つ結末を、彼女はすべて理解していた。
その上で、彼女はオリヴァの命令に従った。エリサルにとって、オリヴァは絶対だった。
逆らう、逃れるなど、あり得ない。彼の望みに身を捧げて応えること──それだけが、彼女に与えられた存在意義だった。
故に、オリヴァは偽ることも、陥れることもしなかった。彼女にその必要はなかった。
エリサル・シャ・クレヴィオンの名において正式に貸与された禁術書を、ネクロハイヴ禁術書館の司書が、取り上げることはない。
ましてや、これが彼女の意志といえるかなどと、判断できる権利などあるはずもない。
彼女に与えられた権利の行使を、妨害するなどあり得ない。
そして、時を待たず、その瞬間は訪れた──
三つの足音が、廃城の瓦礫を踏み砕く。
その音が、勇者一行の到来を告げると同時に、彼らの視線は、ただ独り迎え撃つエリサルを捉えた。
仲間への合図も、敵への威嚇もなかった。勇者は一拍の迷いもなく聖剣を抜き放ち、刃を水平に構えると、地を蹴った。
聖剣の煌めきは、風が裂ける音より早く、軌跡を描いた。
来ることが分かっていなければ、避けることなどできない一撃──その認識すら追いつかない金の刃は、エリサルの心臓を目掛けて容赦なく突き立てられた。
だが、ほんのその間際に、世界は止まった。
勇者の聖剣は、確かに彼女の心臓を貫いた。確かにそれは起こった。だが、未来に続く因果は、全て断ち切られていた。
禁術『因果閉塞檻』は、完全に展開していた。
「うるぅぉああっ──!!」
聖剣で倒れぬ敵に、キースは大剣を何度も振り下ろした。繰り返される斬撃は、エリサルを切り刻む。
「リュア・エイン・セレス・ヴァン・ルディエル、セラ・マルタ・ノク・アシェル──」
続いて、ロメリアは解呪の法術を組んだ。この悪魔の馬鹿げた不死性が術によるものなら、それに干渉することで解除できると考えた。
だが、その一切は無に帰した。
キースの力の限りの攻撃は、彼女の体を小間切れにしたはずだった。
ロメリアの詠唱は正確だった。術式の構築は、少しも崩れていなかった。
何度も勇者と共に死地を潜り抜けてきた彼らの手応えは、確かなものだった。だが、どれほど力を込めても、どんな術を用いても、エリサルを滅することは叶わなかった。
勇者たちには、それが何故なのか分からなかった。目の前の悪魔の正体を、見極めることはできなかった。
しかしその一方で、対するエリサルの身にも、想定外の事態が起きていた。
禁術『因果閉塞檻』の発動は、彼女自身にとっても禁忌に触れる行為だった。
エリサルの過去は、すでに禁術書『綟組紋様羅』によって書き換えられている。
書き換えられたという事実ごと、かつての過去は葬られ、改変を行ったオリヴァ本人の記憶にすら、その痕跡は残されていない。
今、禁術書『因果閉塞檻』は、その”今”へと繋がる過去を遮断していた。
それは、綟組紋様羅によって一度織り直された因果に対して、決して重ねて行ってはならない二度目の干渉だった。
本来であれば、再度の過去への干渉によって因果の糸はほつれ、エリサルという存在は、運命ごと断ち切られるはずだった。
オリヴァとマクスの策謀は、彼女の消滅という代償を払って破綻する──それが、この禁術をエリサルに使わせた結末となるはずだった。
だが、二つの禁術の重なりは、理外の結果を導き出した。
因果閉塞檻によって断ち切られたのは、”今”に繋がる過去だった。
だが同時にそれは、消え去ったはずの過去を、因果の彼方から引き寄せた。
――自分が、確かに死んだはずの過去。
――それなのに、今、ここに在る自分。
相容れぬはずの二つの因果が、エリサルの内で交錯する。原因と結果が絡まり合い、二つの禁術の術理が互いを侵食していく。
過去にも、未来にも、完全には繋がらない。断たれ、残った、歪な現在。もはやどの因果にも正しく属さず、あやふやだった。
そして今、エリサルはあらゆる因果から解き放たれ、完全に自由な、極めて異質なものへと化けた。
だが、それは同時に、彼女自身に混乱をもたらす。彼女は自由意志の選択を知らなかった。
自由になどなったことのないエリサルには、その意味も価値も分からなかった。
──命令通り、目の前の敵を討つのか。
──自分をこんな目に合わせたオリヴァへ復讐を果たすのか。
そのどちらもが、彼女の因果の糸に引かれた役割に過ぎない。その役割から解放された今、エリサルはどうすればいいか分からなくなった。
しかし、混線する意識の中で、彼女は確かに声を聞いた。それは、いつも聞こえる、誰と知らない声だった。
その時──勇者たちは、エリサルへの攻撃を中止していた。
”これは、防御結界……幻術……いや、違う”
エリサルが使った禁術によって張られた結界は、勇者たちを外の世界と分断していた。
敵を見据える勇者の瞳は、困惑を隠しきれていなかった。魔族の扱う術への対抗は、幾度となく経験してきた。だが、攻撃が一切通じない術など、これまで一度もなかった。
三人は警戒をしつつも、攻撃の手を休め、状況の理解に思考を巡らせていた。さきほどの攻撃の中で、手掛かりとなるようなことを探し出す。
自分たちの攻撃は”届かない”のではない、”効かない”のだ──こちらの如何なる攻撃も、消えたのではない。ただ、結果だけが抜け落ちている。
ならばこれは、あの悪魔自身の能力ではなく、この場に張られた結界による事象への干渉──。
だが、あり得るだろうか。聖剣の攻撃も無力化するほどの干渉力を持った結界など、本当に──?
魔王ですら、こんなことはできなかったのに?
「……相手も、こちらを攻撃できないのでは?」
勇者の思索に、ロメリアの声が響く。それは術者として冷静で合理的な分析だった。
確かに、あの悪魔は一度として攻撃を仕掛けてこない。それどころか、こちらの攻撃に合わせて、反撃することすらなかった。
もし、一方的に攻撃ができるなら、あんな好機をみすみす逃す理由がない。
勇者は一瞬だけ視線を伏せ、決断した。 「キース。ごめん」
詫びだけを残し、勇者は敵への視線を逸らさぬまま、聖剣の切っ先をキースに向けて薙いだ。
その刃は、確かに彼の身体を捉えた。 「──っ! ……ってぇな……く、ねぇな……」
だが、キースの体には血の一滴も流れなかった。勇者は、短く息を吐く。
「……ロメリア。正解だね」
頷くロメリアの横から、実験台にされたキースが不満そうに溢す。
「おいおい、だがよ。これに何の意味があるんだ? このままじゃ、埒が明かねぇだろ」
ロメリアはすかさず答えた。
「──おそらくは、その膠着状態が狙いではないでしょうか。私たちを、この結界に閉じ込める作戦かと……」
それはつまり、自分たちがすでに敵の罠に掛かっていることを意味していた。
勇者は唇をかんだ。これほどの力を持つ結界から逃れるのは、至難の業だと容易に想像できた。
勇者たちは、正解に辿り着いた。だがその答えは、オリヴァとマクスが画策した当初の目的に過ぎなかった。
エリサルですら、それでいいと承諾した計画は、すでに過去の因果となって彼女からは断ち切られていた。
その時だった。これまでただ虚ろに佇んでいるだけだったエリサルが、初めて勇者に視線を向けた。
それは、敵を見る目ではなかった。その眼には、殺意も、憎悪も映ってはいなかった。
だが、その空白の視線に、勇者は反射的に身構えた。
「────!!」 鋭い金属音が響く。勇者の聖剣と、エリサルの剣が激しくぶつかる。
もし、その構えが一瞬でも遅れていたら、命はなかったかもしれない──そう確信するほどの衝撃が、体に走る。
だが次の瞬間、勇者の無意識に近い反応は、その攻撃を弾いた。勇者の力に弾かれた剣は、エリサルの体ごと吹き飛ばし距離を戻した。
驚きは、遅れてやって来た。
この結界の中では、攻撃は無効となるはずだった。だが、剣を受けた痺れは本物。この感覚は、あるはずがなかった。
その困惑は、キースとロメリアにも共有される。だが、勇者は一人、敵を見据えて再び構えた。
「……来るぞ!」 勇者が叫ぶのと同時に、エリサルが再び一歩を踏み出した。
考える猶予はなかった。再び繰り出される敵の攻撃に、勇者は即座に迎撃に出る。ロメリアは勇者を支援し、キースもまた、隙を突いて反撃を試みた。
だが──。こちらの攻撃は、やはり一切が通らない。
確かに敵は捉えている。手応えを感じていながら、それでも、結果だけが抜け落ちる。かすり傷さえつけられない。
その一方で、エリサルの攻撃は、確かにこの身に響いた。
しかも敵は、こちらの攻撃が効かないことも、こちらの混乱も、すべてを理解し動いている。防御を捨てた全力の攻撃が、容赦なく叩き込まれる。
──あまりにも一方的な、イカサマ。それは、勇者たちを確実に、死へと追い込んでいた。
エリサルを突き動かしていたのは、魔王の血だった。
彼女の内に流れるそれは、抗う余地のない衝動を生んだ。それは、魔王ザルヴァスの怨念。あるいは、これまでの人魔の戦いの中で散っていった、歴代の魔王の怨念の結晶と言えるものなのかもしれない。
寄る辺となる因果をすべて失った今、エリサルは、その声に従うほかなかった。
とはいえ、彼女の力は魔王には遠く及ばない。勇者を前に、まともに渡り合えるわけもなかった。
この異常な状況もまた、彼女自身が望んで作り出したものではない。
二つの禁術が彼女の因果を解き放ち、その歪みが、一方的な攻撃だけが成立するという無敵の状態、異様な均衡を生み出しているに過ぎない。
それでも、すべての因果から切り離されたエリサルは、魔王の血の衝動に身を委ね、ただ戦い続けた。
その攻撃性は、かつての彼女からは想像もできないほど凶暴で、目の前の人間を殺すことを、ただ純粋に求めた。
その彼女を導いていたのは、一つの声だった。その声の持ち主は、会ったこともないはずの血を分けた兄妹。
今のエリサルには、その声以外に、信じるべきものは、もう何一つ残されていなかった。
エリサルの攻撃は、勇者アレインの肉体だけでなく、その精神をも確実に削っていた。
すでに魔王を討ち果たした勇者にとって、この戦いは、エルマに捧げる弔いだった。
彼女を殺した首謀者を討ち、その血を捧げてこそ、彼女の魂は安らぎを得る──アレインは、そう信じてここに来た。
しかし今、その行く手を阻む敵を前に成す術もなく、一方的な防戦を強いられている。
この結界さえなければ、恐れる相手ではない。その敵の正体を、聖剣から伝わる力が勇者に伝える。それが一層、勇者を煽り立てた。
だが、どれほど怒りを力へと変えようとも、その刃が敵を貫くことはない。
頭では理解できている。それでも、どうすることもできない。
そのどうにもならない焦燥が、体に僅かな傷を刻みつつ、しかし確実に、勇者の冷静さを奪っていった。
そして、その勇者の焦りは、ほんの一瞬の隙を生んだ──
怒りと焦燥、混乱と侮り、正常な状態の勇者であれば、犯すことのない僅かな狂い。
だが、そのほんの僅かだけで、今のエリサルには十分だった。
その刹那を逃さず、結界に守られたエリサルの剣が勇者に迫った。
その身を顧みない、ただ殺意に染まった一撃は、アレインの心臓を捉えた。
──間に合わない。そう、勇者自身が覚悟した。その瞬間だった。エリサルの剣の前に、キースが立ち塞がった。
視界を遮られた勇者には、何が起きたのか分からなかった。ただ、覚悟した痛みが襲って来ないのが不思議だった。
「リュア・セレス・ヴァン・アシェル──」
即座に、ロメリアの癒しの詠唱呪文の声が響いた。だが、この結界の中では治癒の効果は得られなかった。
ゆっくりと、その大きな体が崩れ落ちる。そして開けた勇者の視界には、受け入れられない事実があった。
膝を折るその背中を、勇者は呆然と見つめることしかできなかった。
しかし、ロメリアは駆け寄り、術ではどうにもならないその傷口を手で覆う。
「……へっ」 血を吐きながら、キースは一瞬だけロメリアに笑みを向けた。
「アレインを、頼む……。あいつは、危なっかしい、から、よ……」
その言葉を最後に残し、キースの身体は力なく地に伏した。
「うあぁぁっっ――!!」 勇者アレインは、喉が裂けるほどに叫んだ。
仲間の死に、感情のすべてを爆発させ、ただ聖剣を握りしめて、エリサルへと突進する。
一方、エリサルもまた、なおも攻撃を続けようと、キースの血に染まる剣に力を込める。
だが、その時だった──。エリサルを無敵へと変えていた結界が、音も無く崩れ去った。
禁術書『因果閉塞檻』の力は、キースの死という因果の完結をもって、解除されたのだ。
勇者の聖剣が、エリサルの身体を深く貫く。しかし、怒りに我を忘れた勇者の視界には、何も映っていなかった。
同時に振るわれたエリサルの剣が、自身の身体を切り裂いたことにすら、気付くことはなかった。
聖剣に貫かれ、もはや死を待つだけとなったエリサルに、最後の時が訪れる。
だが、彼女にはもう一つ、禁術書『綟組紋様羅』の禁忌の代償が待っていた。
結界が解かれたことで、彼女の過去は再び戻る。因果はほつれ、エリサルという存在そのものが、静かに世界から剥がれ落ちていく。
消えゆく意識の中で、彼女は、ただ一言を呟いた。 「カリエン──……この命、返すよ……」
その声は、世界には響くことはなく、ただ一人のもとへと溶けて消えた。
勇者は荒い息を吐き、敵と自分の血に身を染めていた。
「澄みゆく息よ、壊れた血路をつなげ──」
「────っ!!」 ロメリアの癒しの詠唱の声にすら、勇者は過剰に反応して身を強張らせる。
だが、エリサルがつけた傷が塞がっていくにつれ、その呼吸も次第に整うと、ようやく勇者にも冷静さが戻ってきた。
ロメリアに、キースが遺した言葉が過る。 「アレイン……。ここは一旦、引きましょう」
それは、勇者にとって受け入れ難いことだった。仲間を二人も殺されて、ここでおめおめと引き下がるわけにはいかなかった。
だが、この先にも、さらなる戦いが待ち受けているのだとすれば、今は、体勢を立て直すほかない。
「ああ……、でも、必ず──」
アレインは、それ以上の言葉を口にすることなく、ただその身を翻した。
──こうして、この小さな戦いは一旦の終結を迎えた。
互いに一名ずつの死者を出したこの戦いの価値は、それぞれに重い。
だが、その天秤がどちらに傾いたのかは、まだ量れない。諦めていないのは、勇者だけではないのだから。
この戦いは終わりを迎えたが、次なる争いの歯車は、静かに回り始めていた。




