第三十六編 因果閉塞檻・中
オリヴァはダリアンとエリサルを従え、幸運にも勇者たちより一足早く、ネクロハイヴ禁術書館へと辿り着いた。
しかし、彼らがいつここに現れても不思議ではないという事実は、安堵を生むどころか、事態の深刻さを否応なく突きつけていた。
オリヴァは書館に到着すると、すぐマクスを呼び協議に入った。
差し迫った危機への対応を話し合う相手が、アルテアでもセレヴィアでもなかったのは、ダリアンには意外だった。
しかも、その場の立ち会いには他の者は一切認められなかった。
締め出される形となったダリアンは、書館の広間にエリサルを残し、報告のためセレヴィアのもとへ向かった。
「──そうですか……」
報告を聞き終えたセレヴィアが溢した言葉は、ただそれだけだった。
だが、彼女の静かな声音とは裏腹に、その瞳はまるで傷口をなぞる痛みに耐えているかのように揺れていた。
「これから、どうするおつもりですか?」
ダリアンが問いかけると、セレヴィアは一瞬だけ視線を伏せた。しかしすぐに、すでに痛みを忘れたかのような表情で彼を見つめ返した。
「まずは、ヴァーキサル様がどうされるおつもりなのか、それ次第でしょう。
私たちが、あの方を邪魔するようなことがあってはいけません」
その言葉は普段通り冷静だった。だが同時に、彼女自身が選んだ覚悟の重さを、静かに語ってもいた。
「──さて、ちょうどよい機会だ。貴様とは、一度腰を据えて話しておきたいと思っていた」
オリヴァはマクスの書斎で向かい合い、不気味な圧を放ちながらそう切り出した。
「単刀直入に聞こう。勇者に対する有効な対抗手段を、貴様はどう考える?」
前言と矛盾するような、あまりにも率直な問いをマクスへ向ける。それは、彼がかつて勇者を裏切った人間だと知るからこその問いだった。
マクスは、即答できる質問に、あえて一拍の間を置いた。思案する素振りを見せてから、静かに口を開く。
「……残念ながら、聖剣を携えた勇者に、弱点は存在しません。
対抗するには、同等の力をもって相対するか、あるいは物量を以て、補給する間すら与えずに押し潰すか──
その二つに限られるでしょう」
淡々と語るマクスの所作を、オリヴァは冷徹な眼差しで見据えていた。
「……だが、貴様はその勇者を裏切ったのだろう? どうやって殺した?」
マクスは、間を置くことなく答えた。
「それは、愚かにもアルテア様に剣を向けたからです。
勇者であろうと何であろうと、不死のアルテア様と戦って、勝てる者などおりません。
貴方も、ご存じのはずでしょう?」
オリヴァは、あえて一拍の間を置いた。そして、わずかに声を低くし言葉を重ねる。
「……それは嘘だな」 その一言に、マクスの所作が一瞬、止まった。
「勇者を殺したのは、アルテアではない。――貴様だ」
それはとても静かで、そして明確な断定だった。
「魔王カイリスに弓を引いた、というのであれば、お前の理屈も筋は通る。
だがな、今のアルテアは、勇者を殺す道理を持たん」 オリヴァは続ける。
「アクレオスとの戦いを見れば分かる。アルテアは、奴ですら殺そうとはしていなかった」
「――お前が、殺したのだ」
マクスはその言葉に、一拍目を閉じた。そして、静かに語り始める。
「勇者とは、神の祝福を受けた選ばれし人間──その肉体と精神は、あらゆる魔を退ける強靭さを持っています」
「……しかし、その心は、無垢な人間そのままです。たとえ鋼の意志を宿していようとも、そこにひびを入れる手段は、いくらでもございます」
その瞳には、暗い過去を振り返るような色が浮かんでいた。
「かつて私は、仲間という立場を利用して、それを行いました。
魔王カイリスへの恐怖を煽り、仲間同士の絆に不信を植え付け、同士討ちを誘ったのです」
オリヴァの糾弾から逃れる嘘を並べることは、いくらでもできた。だが、マクスはそうしなかった。
「どう足掻いても倒せぬ魔王を前に、ただ一人で立つ勇者の背中から、刃を突き立てるのは造作もないことでした……」
その行いが人間の罪の極みに位置するものであるにもかかわらず、マクスの瞳に後悔の色は一切なかった。
「──ただし、それは私が仲間だったからこそ成し得たこと。
今、同じことをしろと言われても……再現は出来ないでしょう」
マクスの告白は、問いを投げた側のオリヴァを黙らせた。
文字通り、人が人であることを捨てたこの人でなしは、悪魔でさえも躊躇うことなく操るだろう──。
そう予感させるこの男は、信用できぬからこそ、だが唯一、アルテアに関することだけは信用できる。
「あの小娘も、呪うのであれば勇者を狙えばよかったものを……」
オリヴァは、聞こえるように呟いた。 「復讐に駆られた女の情念とは、なんとも度し難い」
その意図は明確だった。共にいた司書の無意味な死を論うことで、マクスの感情の動きを測ろうとした。
だが、それは無駄だった。マクスは、眉一つ動かさない。彼がここで感情の揺らぎを見せることは一切無かった。
オリヴァはそこでさらに一手を打った。
「あの時──。アクレオスが魔王城で暴れた時、あの場に、アルテアが現れた理由は何だ?」
マクスは、一見無関係な質問に、一拍の間を置いた。そして、静かに口を開く。
「……私が、余計なことをしてしまったからですよ。
アルテア様のご命令通りにしておけば、あのような御手間をかけさせることはなかった」
アルテアを語るマクスの表情に、初めて僅かなほころびが生まれた。
その答えにはなっていない返答と合わせ、オリヴァは次の言葉を差し込んだ。
「──あのダリアンを、勇者の前に立たせれば。アルテアを動かせると思うか?」
その問いに、マクスは初めて沈黙した。それは彼にとって、とても難しい問いだった。
「……。もし、そうであったなら。それを謀った者は、果たして赦されるでしょうか」
それは、オリヴァにとっても同じだった。
そうでないなら、立たせる意味はない。だが、もしそうであるなら──アルテアの手は勇者へ伸びるだけではなく、その糸を引いた者の喉元へも至るだろう。
彼は、そんな愚かな選択は望まなかった。
オリヴァとマクスは、ともに魔王カイリスを崇拝している。だが、両者には決定的な違いがある。
オリヴァは、魔王カイリスが持つ、その絶対的な力を信奉している。魔界を統べるに、彼女以上に相応しい者はいないと信じている。
マクスは、魔王カイリスが生み出した禁術書の術理を狂信している。神の定めた理を破壊する究極の禁術こそが、彼の求めるものである。
オリヴァは、魔界の秩序の維持を望んでいる。
それを守るため、差し迫る危機である勇者に対し、魔王カイリスの力を以て対峙する他ないと考えている。
今のアルテアに、かつての姿を取り戻させる。たとえ、ほんの僅かな片鱗だけでも──。
それは容易な事ではないが、信用ならんマクスであっても、今ここに至っては、その利害は一致するものだと彼は思っていた。
だが、それは違った。
マクスの関心は、ネクロハイヴ禁術書館が守られること。アルテアの安寧が、何ものにも脅かされぬこと。
彼女を勇者の前に立たせるなど、彼にはあってはならぬ事なのだ。
しばしの沈黙が続く中、マクスはおもむろに書棚から一冊の禁術書を取り出すと、オリヴァの前に差し出した。
「この禁術書『因果閉塞檻』ならば、勇者たちを足止めすることはできましょう」
それはまるで、両者の間にある隔たりを妥協し、歩み寄るような意味合いの禁術だった。
「──この禁術は、展開した領域内に因果の断絶を発生させます。
その領域に閉じ込められた者は、現在と繋がる未来の因果が断ち切られる。
傷も負わず、死も訪れず、一切の変化を受けることも、与えることもできなくなる」
マクスは、求められてもいない禁術の説明を、淡々と語り始めた。
だがオリヴァは、それを制することなく黙って耳を傾けていた。
「ですから──必然的に、一度この領域に足を踏み入れた者は、決して外へ出ることは叶いません」
確かにそれは、マクスが言った通りの力を持つ禁術だった。
だが、禁術である以上、それだけでは済むはずがない。その聞くまでもない問いを、オリヴァは沈黙を以て待った。
「……対して術者は代償として、過去から繋がる現在の因果が遮断されます。
なぜこの術を使ったのか。目の前にいる相手が誰なのか。それらを理解できなくなるどころか、自我そのものが曖昧になる」
その代償は、禁術としての調和には優れていたが、あまりにも馬鹿げていた。
これは、決して交わることのない、永遠に続く千日手。
一切の問題は解決することなく、ただただ無為な監獄は、囚人たちに無駄な時間を延々と過ごさせる。
確かに、足止めならできる。だが、それ以外の意味はない。つまりは、まるで役に立たない。
「これに、何の意味がある──?」
オリヴァは露骨に不快感を滲ませ、この無意味な妥協案を突っぱねた。
だが、マクスは意に介さずに、この禁術の有用性を語り始める。
「この禁術は、時間そのものには干渉しません。ですから、檻の中であっても、時間は等しく流れ続けます。
その時間が千年、二千年と続けば、中に変化はなくとも、外の状況は変わりましょう」
それは、何とも消極的な戦術だった。
倒せぬ敵、厄介な問題を打ち破るのではない。ただ、周囲の状況が変化するまで、悠久の時を費やし待つ。
悪魔の考えとは思えぬほど平和的なその手は、オリヴァの苛立ちを和らげるものではなかった。
──だが、マクスは、そこで言葉を切らなかった。
「もっとも」 低く、含みを持たせて言葉を継ぐ。
「何の変化も、進歩も得られぬまま、千年の時を耐えられるほど、人間の精神は完成しておりません。
ご心配には及びません。そこまで時間は掛かりませんよ」
永遠に続く“今”の反復。肉体にも記憶にも変化が起きない檻の中で、ただ意識だけが時間を刻み続ける。
術理の矛盾に潜むこの禁術の残酷性は、極めて悪魔的なものだった。
マクスは、この禁術における最後の要点を淡々と述べた。
「この禁術の解呪方法は、領域内での因果の完結──原因と結果を同時に成立させることです。
ですが、術者以外は未来へ因果が繋がりません。つまり、この檻からの解放は、術者の死を以て成されることを意味します」
オリヴァはその言葉を聞きつつ、すでに思考を次の段階へと進めていた。
誰に、この術を使わせるべきか──最も適任なのは、ダリアンだった。
彼はオリヴァにとって最も価値の低い存在であり、使い捨てることに躊躇はない。
あわよくば、この術による因果の消失が、アルテアに影響を及ぼすかを測ることもできる。
だが、ダリアンとて白痴ではない。司書としての義務を超えた、「勇者と戦って死ね」と同義の命令に、素直に従うとは考えにくい。
それを可能にするには、もう一段、手の込んだ策が必要だった。
その策を、マクスであれば用意できるか──そう考えた瞬間、オリヴァの胸裏を、ある疑念が過った。
否。まさか、この男は、その全てを私にやらせるために、この禁術を差し出したのではないか。
マクスにとって、ダリアンはどう映っている。
もし本当に、ダリアンを救うために、アルテアがアクレオスの前に立ったのだとすれば──それは、何を意味する?
未だかつて、魔王の座から降り、ネクロハイヴ禁術書館に籠ったアルテアに、変化をもたらした存在などいない。
それは、オリヴァでも、マクスでも不可能なことだった。
だが、両者には決定的な違いがある。
オリヴァは、アルテアが再び魔王カイリスへと回帰する変化を望んでいる。
マクスは、今のままのアルテアが保たれ続ける安寧を望んでいる。
ともに魔王カイリスを崇拝していながら、見据える未来は、正反対だった。
長い沈黙の末、オリヴァは静かに決断を下した。
「この禁術は……エリサルに使わせる」
それは、マクスを信用しきれぬがゆえに選び取られた、ただそれだけの決断だった。
勇者の襲来が迫るこの局面に立ってもなお、互いの策謀を噛み合わせ、存在を賭けた運命の歯車を回す。
だが、その中心で一つの策が定まると、あとは誰にも止めることのできない時だけが、音も無く迫るのだった。




