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第三十五編 因果閉塞檻・上

 魔王城よりオリヴァの元に届けられた報せは、彼にとって最悪のものだった。

 それを聞いた瞬間、彼は珍しく感情を抑えきれず、激昂した。その怒りは勇者へ向けられたものか、あるいはサリエントへか、もしくはリアラに対するものだったのか、配下の者には誰も分からなかった。確かなのは、理性で押さえられぬほど、事態が深刻であるということだけだった。


 サリエントと協力し、共に魔王を支援していれば、勇者を退けることは出来たかもしれない。

 今更、できもしなかった選択肢が脳裏を過る。これから何をするべきかではなく、あの時こうすれば良かったということばかりが、思い浮かぶ。

 それはつまり、現在の状況が極めて絶望的であることの証左に他ならなかった。


 勇者はもはや、魔族の言葉に耳を貸すことはないだろう。それどころか、声の届く距離に近づくことすら許さぬはずだ。

 その勇者相手に、残された兵力を束ねたところで、勝算は薄い。むしろそれは、魔族そのものを滅ぼしかねない、最も愚かな選択だった。


 魔族と人間、双方の帰趨(きすう)を見据えるオリヴァは、どちらか一方が強すぎる状況を望まない。

 勇者が魔王を討ち、一つの時代が終わる──そこまでであれば、まだ許容はできた。勇者の人としての寿命が尽き、再び魔族の世が巡るその時まで、耐え忍べばよいのだから。


 だが、今や勇者は復讐の鬼と化している。その憎悪が尽きるまで、魔族を滅ぼし続けるだろう。

 その憎悪が、魔族を根絶やしにせねば収まらぬというのであれば、それは断じて看過できない。

 だがしかし、暴走する勇者を止める手立てを、自らの選択によって失ってしまったオリヴァは今、初めて進むべき道の見えない混迷の中に立たされていた。


 囚われていたダリアンは、そのオリヴァの前に罪人のように突き出された。

 しかし、それも無理からぬことだった。折角仕立てた人魔の調停を、リアラがぶち壊しにしてくれたのだ。その咎がダリアンに向けられても不思議では無かった。


「あの小娘が、やってくれたわ……」

 ダリアンは、魔王城で最悪の結末を迎えたことを、オリヴァの口から聞いた。

 リアラを止めることは出来なかった──だが、その想いは果たされたことを知った。

 それでも、ダリアンは勇者に対して憎しみを抱かなかった。勇者は紛れもなく、ロロとリアラの仇であるはずなのに、リアラのような身を焦がす復讐心を抱くことはなかった。


 ドレッドホールドの砦の戦いで、ダリアンは多くの人間を殺した。司書となる以前にも、彼は多くの人間をその手にかけている。

 勇者たちは、魔族によって殺された人間たちの復讐のため魔界に入り、そして魔王を殺したに過ぎない。人も魔族も関係なく、その感情と行動は普遍的なものだ。それを、ダリアンは肯定していた。

 そして、ロロのために死んだリアラも、ダリアンは肯定していた。同様に、かつての自分を肯定していた。


 復讐の炎に身を焼くのは、自分の命よりかけがえのないものを奪われるから──


 ダリアンがリアラのようにならないのは、ロロもリアラも彼にとって、そうではないからだった。それは残酷なようで、自分の意志ではどうにもならないことだった。

 今の彼にとって、かけがえのないものとは、それは──


 オリヴァの話を聞き終えたダリアンは覚悟した。リアラの咎をダリアンが負う義務などないのだが、それでも、上級悪魔の怒りを買って、また無事で済むはずもなかった。

 しかし、オリヴァはそうはしなかった。


 魔族が直面するこの危機を覆す、最も確実な手立ては、アルテアがかつての魔王カイリスへと戻ることだ。そうなりさえすれば、あの勇者など問題にすらならないはずだった。

 だが同時に、オリヴァはそれが決して叶わぬ望みだとも知っている。


 しかしそれでも、ネクロハイヴ禁術書館は、彼にとって特別な価値を持つ場所だった。

 その理由は、そこに所蔵される禁術書が、勇者への対抗手段と成り得るから、というだけではない。


 オリヴァは知っている。

 かつて仕えた魔王カイリスが、なぜ玉座を退き、あの書館の主として、禁術の研究に悠久の時を費やしているのかを。

 それは、アルテアを理解する数少ない存在の証だった。もっとも、その理解のかたちは、オリヴァ自身も認めざるを得ないほどに、酷く歪んだものではあったが──。



 ──遥か太古、魔王カイリスが魔界の統一を果たしたその時代、オリヴァは魔界貴族の家に生まれた、一人の子供に過ぎなかった。

 幼い彼の目に、圧倒的な力を備えたカイリスの姿は、正にこの世の王、魔王そのものだった。

 それは、幼子が夢想する英雄が具現化した姿であり、その行いに疑問を差し挟む余地など存在しなかった。


 ある日、オリヴァはカイリスへの謁見を許された。そしてそれは、彼の生涯において、決して忘れ得ぬ日となった。


 目の前に立つのは、夢にまで見た英雄だった。

 その姿を目に移すだけで、彼の胸は高鳴り、思考は麻痺した。なぜ一族が呼び出されたのか、親たちが何を語ったのか──幼い彼は、まったく気にもしなかった。


 オリヴァの一族は、彼を除いて、カイリスによってその場で惨殺された──。

 ただ死を与えただけではない。魔王カイリスはオリヴァの親兄弟を死者の兵として、自らの配下へと加えたのだった。


 だが、オリヴァはカイリスを恨むことはなかった。彼の心を満たしたのは憎悪ではなく、ただ純粋な恐怖だった。

 何故、一族は殺されたのか──何故、自分だけ生き残ったのか──その疑問は恐怖に呑まれ、彼が抱いた英雄像は死を操る神へと昇華し、やがてそれは、彼女への歪んだ崇拝へとすり替わっていった。


 それから時が経ち、魔王カイリスは魔界のみならず、人間の世をも平らげた。

 その頃には、オリヴァもすでに成長し、彼女の傍らに仕える身となっていた。

 両の世界を死と闇に沈め、この世にただ独りの王として君臨する彼女の姿を、オリヴァはまさしく神そのものとして崇めていた。


 だが、その治世は、たった一夜で崩れ去った……。


 魔王カイリスは、何の前触れもなく姿を消したのだ。誰にも告げず、痕跡すら残さず、玉座から忽然と消え失せた。

 彼女を失った王国は、その巨大さゆえに、彼女以外の誰であろうと支えることは出来なかった。


 魔王の支配から解放された人間たちによって、王国が崩壊していく中、オリヴァは初めて魔王カイリスに怨みを抱いた。

 一族を殺された記憶が、今さら蘇ったわけではない。

 彼が抱き続けてきた英雄像を、彼女自身が裏切ったという事実が、オリヴァには許せなかった。


 オリヴァは、誰よりも執念深く、魔王カイリスの行方を追った。

 王国が滅び、多くの魔族がその犠牲になろうと、彼にはカイリス以外のことなど取るに足らぬ些事に過ぎなかった。


 それから、オリヴァはカイリスを探すためだけに、長い年月を費やした。だが、その執念にもかかわらず、彼女の行方は一向に掴めなかった。

 しかし、捜索の日々に終止符を打つ男が、彼の前に現れる。それは、まだ人間だった頃のマクスだった。


 マクスは、ただ一言、オリヴァにこう告げた。 「魔王カイリスの居場所を知っている」 と。


 オリヴァはこの怪しげな人間の言うことを信じた。

 そして、その言葉に従い向かった先で、途轍もない数の禁術書に囲まれたカイリスと再会した。


 だが、カイリスは憎悪を向けるオリヴァに興味すら示さなかった。

 彼女は禁術の研究に没頭し、それ以外のすべてに、もはや関心を失っているように見えた。オリヴァだけでなく、魔族のことにも、魔界のことにも。


 なぜ、カイリスがすべてを捨てて、このようなことをしているのか。オリヴァにはまったく理解できなかった。

 だが、マクスはそれを知っていた。

 不死となり究極の魔王となったカイリスが、禁術に何を求めているのか──その真実が語られた瞬間、オリヴァの中ですべてが霧散した。魔王への崇拝も、一族を皆殺しにされた怨みもすべて……。


 それ以降、不死ではないオリヴァは悠久の時の中で、何度か転生を経て今の体を手に入れた。だが、カイリスへの想いは歪んだまま、その魂に刻まれている。


 彼は待っている。アルテアがカイリスに戻る日を──決して訪れることのないその日を。

 変化をもたらすきっかけと、存在を。



「──ダリアン。貴様は、これからどうするつもりだ」 オリヴァは問いかけた。


「御赦し頂けるのであれば、今回の一連の顛末を報告するため、ネクロハイヴへ戻ります」

 ダリアンは、オリヴァに臆することなく、率直に答えた。


 オリヴァは考える。この男を、素直に帰すべきか否か。

 アルテアに目を掛けられているこの男を、手駒として傍に置き、利用する手はないか。

 あるいは、アルテアの前で勇者に殺させでもすれば、何かしら変化が期待できないか。


「勇者たちは、仲間の仇としてアルテアを狙ってくるだろう。

書館の場所も、入り方も、そこらの魔族を締め上げれば、いくらでも吐かせられる。

その時、お前たちは勇者にどう対処するつもりだ?」

 続く問いに、先ほどまでの憤怒はなかった。そこにあったのは、魔界の番人としての、冷徹な眼差しだけだった。


 現状、魔界の中心にあるのは、アルテアが身を置くネクロハイヴ禁術書館である。

 アルテアが勇者を殺してくれるならば、それに越したことはない。が──それが最も不確定な以上、ダリアンを含む取り巻きの動きは、把握しておく必要があった。


「私の一存では決められません。

ですが──正当な手続きで来訪する者を、ネクロハイヴ禁術書館は拒むことはありません」

 そのダリアンの答えに、思わずオリヴァは一笑した。

 かつて魔王城で対峙した時とも、ドレッドホールドの砦落としに駆り出した時とも違う。その瞳には、狂気にも似た覚悟が、静かに宿っていた。


 オリヴァは一拍、考える。だが、結論はすぐに出た。

「……いいだろう。ならば、私もネクロハイヴへ向かう。エリサル、お前も同行しろ。

もし、勇者がこの城へ攻め入ることがあれば──構わん。捨て置け、放棄して逃げよ」

 それだけを周囲に告げると、オリヴァは即座に立ち上がり、行動に移した。その背に、エリサルが無言で従う。


 さらにその後ろで、ダリアンは小さく息を吐いた。

 自分が口にした言葉の重さは、ネクロハイヴ禁術書館の司書の重さ。だがそれは、彼の心の内の重さとは、必ずしも一致していない。


 彼は決して、アルテアが勇者に討たれることなど望んではいない。

 アルテアだけではない、これ以上司書たちが犠牲になることを望んでなどいない。

 ただ、それ以上の重さを纏う覚悟を、彼はしただけに過ぎない。


 勇者が来る──それは、避けようのない未来だろう。

 魔族にとってその存在はもはや、逃れることのできない死を与える死神に等しい。

 だが、死を待つことを選ぶというのは、逃げることではない。

 訪れるものすべてを、拒まず受け止めるとは、闘わぬことではない。


 かつて、ダリアンは死を望んだ。生きる意味を失い、ただ終わりを求めた。

 だが、今は違う。彼は、ネクロハイヴ禁術書館の司書として、生きることを定めた。

 今の彼にとって、それはかけがえのないものとなっていた──。

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