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第三十四編 十三夜牡丹・下

「──あの魔族、いい仕事してくれたぜ。大した敵とも遭遇せず、ここまで来ちまった」

 朔の闇の中、小高い丘の上からキースが低く呟く。その彼の大きな背から姿を見せる仲間たちの視線の先には、禍々しい気配を漂わせる魔王城が広がっていた。

 彼らの剣は、もうすでに魔王の喉元まで迫っている。


「サリエント……だったかしら。魔族にも、色んなのがいるものね」

 エルマは、ここまで無事に辿り着けたことを、素直に喜んだ。

 魔族同士の権力争いも、裏で蠢く策謀も、彼女たちには関係がない。それは、魔族が人間の王家の血統や、政治体制に興味を示さないのと同じことだった。


「まだ分かりませんよ。エルマ」

 ロメリアには、ここまで来れた高揚など微塵もなく、言葉を差し挟む。

「油断させて一網打尽にする罠が、魔王城には仕掛けてあるかもしれません。

絶対に、魔族を信頼してはいけない」

 その聞きなれた説教を受け流すように、エルマは肩をすくめた。


「──さあ、もう少しだ。みんな、行こうか」

 勇者アレインは、仲間たちの気持ちを束ね、前へ出る。四人は再び歩き出す。最後の決戦は、もう目の前に迫っていた。


 黒鉄の巨大な正門は、長い年月をかけて積み上げられた魔王の威信そのものだった。

 その前に立ち、勇者アレインは聖剣を、静かに構える。

 そう──それはとても静かな構えだった。力を込める仕草も、祈りもない。まるで、時が止まったようだった。


 だが、次の瞬間──白い閃光が走る。

 それは、聖剣が振るわれた跡を、遅れて光がなぞるように見えたほど流麗だった。

 さらに遅れて、重厚な門は悲鳴のような音を立て、一直線に裂けた。黒鉄は紙のように断ち割られ、刻まれていた呪紋は解け、光の中で霧散した。

 

 上下に割れた正門が、内側へと崩れ落ちる。轟音が響き渡り、魔王城に勇者の到来を告げる。

「──行くよ」 アレインの短い号令に、仲間たちは即座に応じた。


 勇者たちは、魔王の城を正面から突破する。


 一見、罠を警戒するのであれば、抜け道を探し、身を潜めて侵入する方が賢明に思える。だが、複雑な構造の狭い通路で罠を避けるより、正面からの方が敵の動きが可視化され、かえって対処は容易となる。

 しかし、そんなことはあくまで副次的な理由に過ぎない。


 彼女たちが正面突破をする理由は──圧倒的な武力で、徹底的に蹂躙するためだ。


 魔王城を破壊し尽くし、立ち塞がる敵を皆殺し、武力によって魔王城を制圧する。

 勇者には、魔王に引導を渡すだけでは足りないのだ。

 人間への抵抗の意志ごと、力でねじ伏せる。もう二度と、人間と戦いたくないと思わせるほどの恐怖を、魔族に植え付けなければならない。


 魔族に一切の慈悲はない。勇者の剣には僅かな躊躇いもない。

 でなければ、またドレッドホールドのような悲劇が繰り返されてしまうのだから……。


 魔王城には、勇者を迎え撃つための備えが、まったく整っていなかった。

 サリエントによる周到な情報の隠蔽と、オリヴァが意図的に手薄な兵力配置となるよう手を回したからだった。


 魔王城に留まる公爵たちには、当然ながらその事情は知らされていない。

 彼らに届いていたのは、偽りの日常と、根拠のない楽観だけだった。

 何も知らぬまま城に残された彼らは、勇者の前に差し出された生贄と言っても過言ではなかった。


 勇者一行の四人を止められるものは、魔王城にはいなかった。

 ただの人間の兵が相手ならいざ知らず、相手は聖剣を携え、神の加護を受けた人間。そして、その仲間たちも一騎当千の力を持った選ばれた者たちである。


 かつてなら、魔王のために命を投げ出し、死をもって応えた猛者たちがいた。

 しかし、幾度もの戦と敗北を経て、そのような英雄たちはすでに失われていた。

 残されたのは、覚悟を持たぬ兵たちと、同胞から裏切られた哀れな道化だけだった。


 だが、魔王は逃げられない。

 力による支配が絶対である魔界において、魔王が勇者を恐れ、城を捨てて逃げだすなど許されない。その瞬間、王は王でなくなり、ただの敗北者となる。

 たとえ兵はおらずとも、敗北の見えた戦いであっても、人間ごときに、魔王は城の玉座から降りることはできない。


 そして──玉座の広間に、勇者は姿を現した。


 されど、魔王。玉座から立ち上がる姿は、威厳に満ちていた。

 歴代の名だたる魔王と比べれば、その力は劣ると言われるが、今の魔界において、これに並ぶ力を持つ者は他にいない。

 勇者たちといえど、手心を加えて倒せる相手ではなかった。


 戦いは、言葉なく始まる。


 魔王が放つ魔力を込めた連撃は、玉座の間の柱を砕き、石床を引き裂きながら、一直線に勇者を襲った。

 落雷のような衝撃に空気は震え、魔王城そのものが軋む。


 その只中で、キースは仲間の盾となり、その攻撃を正面から受け止めていた。

 幾度となく弾ける衝撃が全身を打ち、足元が揺らぐ。それでも一歩も退かず、すべての攻撃を引き受け続けた。


 ロメリアは彼の背後で、支援の魔法を途切れることなく展開していた。

 しかし、魔王の猛攻は止まることがなかった。守りに徹しているだけでは、こちらが疲弊するだけだった。


 だが、その時──エルマの呪文の詠唱が終わる。


 彼女の杖が煌めくと、幾重にも連なる大火球が出現し、魔王を襲った。

 迫る炎の奔流に、攻撃に徹していた魔王はその手を割き、防御に回らざるを得なくなる。


 エルマの火球と魔王の魔力が衝突し、轟音が玉座の広間に反響した。

 魔王は火球を打ち砕きながらも、なお攻撃の手は緩めていない。

 しかし、攻守に分散された攻撃には、僅かな隙が生まれていた。


 仲間たちの連携が生み出した、その一瞬を――勇者が見逃すはずがなかった。


 その刹那に、勇者は聖剣に力を込める。すると、たちまち剣身は光り輝き、秘めた力を解き放った。

 勇者は、魔王に突貫する。その首を落とさんと、凄まじい速さで間合いを詰める。


 魔王には、その攻撃に対処する手段も、抗う力も残されてはいなかった──。


 聖剣が振り抜かれ、光が魔王の身を貫く。

 それでも魔王は、最後まで膝を折ることなく、玉座の前に立ち続けていた。

 いや──違う。聖剣は魔王と玉座を貫き、そこに磔にしたのだ。力が尽き、眼から光が失われても、身体が崩れ落ちるのを許さず、その場に立たせ続けた。


 魔王は討たれた。

 魔王は、最期まで王であった。逃げることも、命乞いをすることもなく、ただ力尽きるまで戦い抜いた。

 だが、玉座の広間を満たしていた魔力は、王の威光と共に跡形もなく消え失せた。魔王の亡骸は、もはや王として扱われることすらなく、処刑された咎人のように晒された。


 それは、恐怖の勇者伝説となって、魔界全土に衝撃を与えるだろう。

 魔界全土に、抗うことの無意味さを刻み込む象徴として──。


 静まり返った魔王の間に、勝者の足音だけが響く。

 魔王の最期を見届けた勇者は、命懸けで戦った仇敵に、何の興味も無くなったかのように背を向けた。

「──さあ、みんな。帰ろうか」

 次の瞬間、仲間たちに向けられた勇者の笑顔は、何よりも雄弁に、戦いの終わりを告げていた。


 その笑顔の先に、サリエントはただひとりで姿を現した。

「さて、勇者様──この後のことは、私にお任せください」

 配下をひとりも連れずに現れたのは、敵意をひと欠片も持たぬことを示す為。それは同時に、勇者への信頼だった。


 彼のその声は、勇者から笑みを消した。だが、その手が聖剣に伸びることはなかった。


 圧倒的な勝利のように見えながら、この戦いは勇者たちにとっても、決して容易なものではなかった。

 どれほど強大な力を持とうとも、その身は人間である。十分な休息も取らぬまま魔界を踏破し、ここまで辿り着いた時点で、その肉体には相当な負担がかかっていた。


 勇者とて、永遠の戦いを望んではいない。これで戦いが終わるのなら、それに越したことはない。

 同じ意志を持つ魔族を斬る理由を、勇者は持っていなかった。サリエントと言葉を交わすことはなかったが、彼を殺さなかった無言の事実が、それを是認していた。


 勇者アレインたち四人の戦いは、人魔の歴史に刻まれる伝説となるだろう。

 そう──ここまでの戦いは、間違いなく栄光の歴史として……。


 彼女たちに、その偉業を成し遂げた高揚と安堵が、まったく無かったとは言い切れない。

 サリエントとの間に生まれた信頼に、疑いが無かったわけでもない。

 それは不覚というには、あまりにも小さな小さな空白だった。だがその可愛らしいまでの小ささは、偶然と必然を絡まらせて、彼女のすべてを掻き消した。


 事が起きたのは、玉座の間から勇者たちが立ち去ろうとした、その瞬間だった。


 部屋の外に控え、その時を待っていたサリエントの取り巻きたちが、勇者たちと入れ替わるように、玉座の間へと足を踏み入れる。

 その列の中に、彼女は紛れていた。何の違和感もなく、殺意も感じさせることなく、ただごく自然に勇者たちとすれ違う。

 その一瞬に、彼女はたった一言、勇者の隣にいたエルマの耳元へ囁いた。


”ψℳǪ❽β©Δw♄♄wcd∮g≡≡ψ”


 それが何を意味する言葉なのか、エルマには理解できなかった。しかし、彼女は確かに聞いてしまった。

 ただそれだけが、禁術書『十三夜牡丹(じゅうさんやぼたん)』の発動条件だった。


 ──月は、咎人である。

 太陽だけが、月の犯した罪を知っている。

 月はその秘密を守るため、太陽を亡き者とすべく、その背を追い続ける──


 禁術『十三夜牡丹』とは、術者自らを供物として捧げることで、月の罪を盗み聞く術である。

 新月の夜──月が姿を隠し、罪が闇に溶ける間のみ、この禁術書は開かれる。


 だが、月が犯した罪を知った者は、太陽と同じく、月から命を狙われる。

 闇は目の光を奪い、月光は肌を焼き、夜には生きられないようになる。


 それは、術者の口から秘密を伝え聞いた者も同罪だ。月の罪を知った者は、次の満月を迎えることはない。

 それは予言でも、警告でもない。その宣告を受けた者は、太陽と同じく夜を恐れ、未来永劫逃げ続けなければならない──。


 次の瞬間、エルマの足取りが不意に乱れた。

 何かにつまずいたわけでも、疲労が限界に達したわけでもない。ただ、彼女の視界が突然奪われた。

 その場に倒れそうになる彼女を、反射的にキースが支えた。 「エルマ……?」

 呼びかけに、返事はない。エルマ自身、何が起こったのか理解できていなかった。


「っ……あ、あぁ……!」

 それは“痛み”ではなく、“恐怖”だった。突然光を奪われたエルマは、悲鳴とも呼べない声を漏らし、自分の胸元を押さえてその場に膝をつく。

「アレイン、アレイン……どこ……?」

 闇に放り込まれたような感覚の中で、彼女は震える手を伸ばし、勇者の名を呼んだ。


「エルマ、しっかりして!」

 だが、その手を勇者よりも早く掴んだのはロメリアだった。

 彼女は、一瞬でこれは呪いだと見極めると、迷いなく闇を払う法術の詠唱に入る。

「リュア・エイン・セレス・ヴァン・ルディエル、セラ・マルタ・ノク・アシェル──」

 勇者は駆け寄り、エルマの肩を支えた。だが、その手に伝わってきた体温はすでに異様に低かった。生きている人間のものではないほどに。


 その様子を、呪いを仕掛けた当人は、ただ静かに立ち尽くし眺めていた。


「清めの息よ、影に染みた名を洗い流せ。奪われし時を縛る鎖を解き、呪われた記憶を、光のもとへ還せ」

 ロメリアの杖から溢れ出した光が、エルマの身体を包み込む。

 その闇払いの聖なる輝きは、一瞬、エルマの苦しみを癒したかのように見えた。


 だが、次の瞬間──エルマの身体が、大きく跳ねるように痙攣した。

 内側から何かが軋み、引き裂かれるような感覚が全身を貫く。喉の奥から掠れた息が漏れ、彼女の顔は、苦悶に歪んだ。


 これまで、どれほどの死地に身を置こうとも、一度としてエルマは弱音を吐いたことなどなかった。

 その彼女の肌は、不自然に青白く染まり、悲鳴を上げることすらままならない。

 それだけで、尋常ではない苦痛に襲われていることを、皆に理解させた。


「──あの子は、いい子だった」 佇んでいた女は呟いた。


 エルマを案じ、目を塞いでいた勇者は、その声に振り返る。

 それを待っていたかのように、女は勇者の顔を確かめると、目を細め満足したように口元を歪めた。


「ふふふ……あの子ですら解けなかった呪いの禁術。貴女たちに、解けるかしら……」


 その言葉が耳に入るや否や、勇者の表情は一変した。迷うことなく、その女を逃すまいと手を伸ばす。

 だが、女は抵抗も逃げもしなかった。掴まれた瞬間、むしろその手に縋るかのように、その腕へと崩れ落ちた。


 禁術『十三夜牡丹』によって、リアラの身体もまた、すでにエルマと同じ呪いを受けていた。

 立つことすらままならない身体を、無理やり支えていたもの。それは生への執着でも、恐怖でもない。

 ただ、大切なものを奪われた痛みを、そっくりそのまま返す復讐心──そして、それが果たされたという、恍惚だけが彼女を保たせていた。


 勇者アレインは、腕に絡みついたリアラを乱暴に振りほどき、その場に打ち捨てると、そのまま、その腕で聖剣の柄を握る。

「サリエントッ!! 貴様、裏切ったのかっ!」

 それは元より承知していたはずの言葉だった。その言葉を発することが、理性を超え、勇者が激情に駆られていることを意味していた。


 サリエントの英雄譚は、ここまでは思い通りに描かれていた。

 すべての事が彼の計算通りに運び、まさに夢と現が交じり合う完璧な物語が、今この場所で完成するはずだった。

 ただし──その物語は、英雄譚であるが故に、勇者という存在に大きく依存している。それだけでなく、それはサリエント自身の物語であるはずなのに、主人公すら書き換えていた。

 だがそれも、勇者が『勇者』であり続けるのであれば、破綻しないはずだった。


 サリエントは、このまま綴じるはずだった物語に、大きな修正を余儀なくされた。

「滅相もない! 裏切りなど……それは、その者が勝手に行ったこと。

そう、あれはネクロハイヴの司書──我々とは、何の関係もございません」

 サリエントの言葉には嘘はなかった。


 だが、彼が口にした言葉はどれも、勇者には全く関係など無かった。

「この呪いの解き方を、貴様は知っているのか?」 勇者は問う。


「私は……存じません。ですがっ、ネクロハイヴ禁術書館の主、アルテアであれば──」

 サリエントの言葉に、嘘はなかった。だが──


 勇者アレインは、再び聖剣を抜き放つ。その刀身は、勇者の感情を映し出すように、激しく輝きを増した。

 勇者には全く関係など無かった。サリエントの言葉が、真であろうと、嘘であろうと。

 この期に及んで、エルマを救えない魔族を生かしておく理由など、どこにも無かった。

 魔王ですら貫いた勇者の聖剣から逃れる術を、サリエントは持っていなかった──。


 魔族を始末し、すぐに戻ったアレインは、真っ先にエルマのもとへ駆け寄った。

 ロメリアはその傍らで、必死に解呪の法術を施し続けている。しかし、その顔色に変化はなく、エルマの状態が快方へ向かう兆しはなかった。


 勇者アレインは、選択を迫られた。

 ここが人間の地であるならば、解呪の術が見つかるまで、彼女の身をどこかに預けることもできただろう。

 だが、ここは魔界の本拠地、魔王城である。魔王を討ち果たし、サリエントまで斬った今、その配下たちがいつ総攻撃に及んでも不思議ではない。

 その中で、ロメリアをこのままエルマに付き添わせ続けることはできない。それは一人を救うために、残る仲間の命を危険に晒す選択だった。


 勇者は沈黙した。その沈黙の中で、これまでの思い出と勇者の使命が交錯していた。

 黙って二人を見守っていたキースが、勇者の肩に手を掛ける。 「……俺が、やろうか──?」

 

 アレインはひととき目を閉じると、キースの手をそっと降ろした。 「……ありがとう」


 そう告げると、今度はアレインがロメリアの肩に手を置いた。

 ロメリアは、それに抵抗するように身を強張らせたが、やがて諦めたように、展開していた法術を解いた。


 アレインはエルマの手を握る。

 その冷えた指を優しく包み込み、耳元に顔を寄せて、誰にも聞こえない声で言葉を囁く。


 そして――もう片方の手に握った聖剣で、彼女の心臓を貫いた。


 アレインは、エルマからそっと手を離した。

 聖剣を静かに鞘に収める。その所作に、もう迷いはなかった。

 勇者は顔を上げた。その顔に、涙はなかった。


 ──まだ終わってなどいない。終わらせては、ならない。

 アレインの瞳は、この魔界の地に残された、まだ討たねばならぬ敵を映していた。


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