第三十二編 十三夜牡丹・中一
魔界に侵入した勇者たちを、最初に発見したのはサリエント配下の偵察兵だった。
哀れにもその偵察兵は、声を上げる間もなくこの世から消滅したが、その”消滅”そのものが、サリエントが張り巡らせていた網に引っかかった。
彼とて、この事態を初めから予期していたわけではない。
ただ、自身の野望のために、魔王軍のみならず、他陣営の動向までつぶさに監視していた中での出来事に過ぎなかった。
そして、さらに数名の兵の命と引き換えに、侵入者の正体が判明したとき、サリエントは歓喜した。
それはまさに、彼の野心を実現させる”夢”が具現化した存在──勇者であると知ったからだった。
彼はまず第一に、何としても勇者一行との接触を試みようと考えた。
だが、相手は問答無用で魔族を攻撃する究極の武装集団。正面から接触するなど論外だった。こちらがどれほど友好的な言葉を尽くそうと、それが信用され受け入れられるとは、到底考えられなかったのである。
サリエントはしばらく打開策を思案していたが、やがて一つの策に辿り着くと、迷うことなく行動に移した。
彼は下準備として、まず魔王軍に対し、人間の追撃部隊が魔界へ侵入したと報告した。
そして、それへの対処を自らの部隊に一任してほしいと直訴する。その侵入者が勇者であることは、伏せたまま。
その申し出は、未だ部隊の再編に追われていた魔王軍にとって、まさに渡りに船だった。
今の魔王軍には、各部隊の配置に余裕はなく、迎撃に割ける戦力も限られる。そうした中で、前回の反乱鎮圧の功績もあるサリエントの申し出は、無視できるものではなかった。
かくして、彼の申し出は疑念を抱かせることなく受け取られ、魔王の名において出撃の命が下された。
サリエントは魔王の勅命を受け、直ちに己の軍勢の半数を追撃部隊の討伐に投入し、鎮圧へと向かった。
その鎮圧部隊に与えられた作戦は、あまりにも単純だった。
勇者一行四人に対し、圧倒的物量で押し潰す。たった、それだけ。作戦と呼ぶにはあまりに稚拙だが、それ故に最も覆し難い手でもあった。それが本当に、そこに”圧倒的な差”があるのであれば──。
その作戦は速やかに実行に移された。
時を待たずに、サリエントの命により鎮圧に向かった部隊は、勇者たちと正面から激突する。
一方の勇者たちは、魔族の大軍を前にしても、誰一人逃げようとする者はいなかった。
援軍も、退路もない魔界の地で、彼らは一切の加減なくその力を解放した──。
勇者たちの力は圧倒的だった。
数の差など問題にならず、むしろ、彼らにとって包囲する魔物の群れは、いい的でしかなかった。
サリエントの用意した鎮圧軍は、統制の取れた精鋭ではない。寄せ集められた雑兵たちは、物量による優位を失った戦場で、連携など取ることもできず、ただ損耗していった。
力の弱い魔物では、勇者たちにはものの数にすらならない。
仲間たちが、成す術なく惨殺されていく姿を目のあたりにして、それらの中に、戦意を喪失し、逃げ出そうとする者が現れ始めた。
――その時だった。
勇者を取り囲む鎮圧軍のその背後から、さらに別の部隊が姿を現した。
それは、サリエントが率いる残存させた半数の部隊だった。
作戦には無かった援軍の登場に、鎮圧軍の間からは歓声が上がった。しかし──それはほんの束の間のことだった。
サリエントの本陣の攻撃目標は、勇者たちではなかった。彼が合図を送ると、その攻撃はなんと鎮圧軍へと向けられた。
ただでさえ勇者たちの攻撃に追い詰められていた兵たちは、背後から無防備に味方の攻撃を受け、瞬く間に戦線を崩壊させた。
その魔族たちの動きは、勇者たちには当初、仲間割れを起こしたように見えた。
だが、その認識はすぐに覆される。後発部隊の動きは整然として、あまりに一方的で、最初からこの行動を想定していたかのように統制が取れていた。
その姿はまるで、仲間の援軍ではなく、勇者たちの援軍であるかのようでさえあった。
魔族とは相容れることのない勇者たちですら、この異常な光景にその手を止めた。
鎮圧軍は、同族である魔族の手によって壊滅した。
この戦犯であるサリエントは、その屍を踏み越え、何事もなかったかのように、勇者たちの前へと歩み出た。
勇者と接見するため──すべては、この場面を作る為。只、それだけのために、彼は自軍の半分を犠牲にしたのであった。
「──さて、勇者様。お待ちしておりました。私は、サリエント・マルドレアス・ヴェルグレインと申します」
彼は両腕を大きく広げ、深く頭を垂れ、自らの魔名を差し出した。それは、友好の身振りではない。従属、忠誠を捧げる者の所作だった。
だが勇者たちは、その彼を前にしても、誰一人として剣を下ろさなかった。
むしろ、サリエントに向ける警戒はより濃くなる。魔族の戯言に耳を貸す理由など、彼らには存在しなかった。
サリエントは、それも承知で臨んでいた。
ここまでの舞台を用意し、仲間の血を流し、それでもなお――我が身に聖剣が突き刺さる運命を退けるには、それ以上の「価値」を、今この瞬間に差し出さねばならない。
「──ええ。あなた方に魔物の大軍を差し向けたのも、私の命。
そして今こうして、そ奴らを排除せしめたのも、私の軍にございます」
二言目に、平然と告げられた真実の暴露は、勇者たちの警戒に静かな波紋を広げた。
それでも、勇者はサリエントから冷たい視線を外すことはなかった。
サリエントにも、そこに宿る感情を読み取ることは出来ない。だが、その隣のエルマは耐えきれず、声を上げた。
「どうして、そんなことしたのよ!?」
張り詰めた空気を裂く、待望の問いかけに、サリエントの心臓は大きく脈打つ。
「まさに、この為──
あなた方と対話するための、尊い犠牲にございます」
彼はそれを悟られぬよう、平静を装い、声音も表情も取り繕った。
だが、抑えきれずわずかに歪んだ口元と、光を帯びた赤々とした瞳が、その言葉の裏にある感情を隠し切れていなかった。
その様子は、勇者たちの目には、ただただ異様に映った。
狂気と理性の境が曖昧なその姿は、それ自体が毒罠であるかのように、判断すら鈍らせる危険な香りを漂わせていた。
「──アレイン」 勇者の耳元で、微かに囁く声がする。
「ああ、分かっているよ。ロメリア」
それだけで、ロメリアが何を言わんとしてるかを理解はしていた。だが、勇者はまだ決断には至らなかった。
サリエントはここまでしてようやく、勇者たちに思案の余地を作り出すことに成功した。
彼は最初から、勇者から”信用を得られる”などとは考えていない。そんなことは不可能だということを、誰よりも理解している。
彼が用意したのは、勇者の決断を”ずらす”こと。たった、それだけで彼には十分だった。
魔界に踏み入った勇者の目的は、魔王の撃破。それ以外は考えられない。
サリエントに、それを妨害する気はない。むしろ、彼の英雄譚は、勇者の活躍によってこそ完成する。
勇者の出現によって、サリエントが抱える問題は、もはや目的ではなくなっていた。残された課題は、その手段と、そして――魔王が倒れたその後、である。
たとえどれほどの勇者であったとしても、どれほどの魔王であったとしても、敵対する種族を絶滅させるなど出来はしない。
であるならば──そこには必ず、妥協が生まれる。
勇者とて、人である以上永遠には生きられない。であるならば──そこには必ず、譲歩が生まれる。
サリエントの歪んだ英雄譚を完遂する決意は、揺らぐことなく彼を支配していた。
「──お前は、魔王を裏切るのか?」
ついに勇者の口から零れた問いは、サリエントが何にも代えて切望した言葉だった。
勇者はこの問いの真偽を見てはいない。見ているのは、どう答えるのか。
だから、この問いを向けられた時、どう答えるべきか──サリエントは、この瞬間のずっと以前から、この答えを用意していた。
「私は、魔王を裏切るのではありません。王の間違いを正すだけです。
私が描く”正しい”魔界は、あなた方にとっても”良いもの”であるはずですよ」
その言葉を口にする行為は、彼にとっても、自らの行動に明確に線を引く一瞬でもあった。
もはや後戻りはしない──その決意を、彼は勇者に差し出したのである。
それを受け、勇者は聖剣を握ったまま、ゆっくりとその切っ先を下ろした。
敵意が消えたわけでも、信頼を与えたわけでもない、ただ、今すぐ斬る理由が、なくなっただけだった。
それを見届けて、サリエントは悟る。ようやく、本題を口にすることを許された、と。
彼が勇者に示した提案は、ここまでに費やした犠牲と策謀に比べれば、驚くほどささやかなものだった。
──私は現在、人間側の追撃部隊を鎮圧する任を受けて出撃している。その鎮圧は完了したと、魔王へはそう報告致します。それだけで、あなた方に向けられる監視の目は、確実に緩むでしょう。
本心を言えば、我々と行動を共にしてもらえるのが最も都合がいい。ですが、それはあなた方が受け入れない。
であれば、我々はあなた方が動きやすくなるよう、対抗勢力に楔を打っておきましょう──
サリエントが提示した内容には、具体的な約束事と呼べるものは何一つなかった。だがそれは、互いに信頼のない者同士の交渉として、むしろ当然のあり方だった。
彼の言葉は信用を得るためのものではなく、疑念を抱いたままでも受け入れさせるよう、周到に選び抜かれていた。
勇者には、サリエントをこの場で殺すことは容易いことだったが、問題はその後にあった。
彼一人を殺したところで、その手勢すべてを討ち漏らさずに仕留めるのは、勇者といえど至難の業である。逃げ延びた者が魔王のもとへ辿り着けば、魔王軍による総攻撃を招くことになるだろう。
それならば、罠である可能性を承知の上で、この提案に乗り、道を進む。そちらの方が、わずかではあるが、被る危険は小さいと判断できた。
それと、この時点ならばもう一つ、勇者には別の選択肢があった。今ここで引き返すという選択肢。だが、勇者がその道を選ぶことはなかった。
「──いいだろうサリエント。だが、”正しさ”は私が決める」
その返答は、サリエントの胸中で歓喜となって弾けた。
身震いすら起こす衝動を、彼は必死に抑え平静を装った。これは、彼にとってこれ以上ない満点の解答だった。
口を開けば、それが声となって溢れ出ることを恐れ、彼はただ頷くことしかできなかった。
かくして彼の英雄譚は、勇者という新たな役者を舞台に迎え、次の幕へと移る──。




