第三十一編 十三夜牡丹・上
ネクロハイヴ禁術書館が、ロロの死を知るには、短くはない時間が必要だった。
彼はもともと、自身の研究のためであれば、誰にも告げずに姿を晦ますことがよくあった。しかし、どこで何をしていても、何事もなかったかのように、成果を携えてひょっこりと戻ってくる──それが常の姿だった。
だから、ロロがしばらく姿を見せなかったことに、誰も気を留めなかった。
誰もがすぐに姿を見せると信じていたが、それが一日一日と長くなるにつれて、次第にリアラを不安にさせていった。
彼女ですら、ロロがどこに行ったのかは知らなかったが、心当たりがある場所がひとつだけあった。
それは、かつてロロに誘われて向かった、極寒の地──ヴェルドールの山嶺だった。
だが、あの山は、確かな目的もなく踏み入るにはあまりに険しく、困難な場所だった。
それでもリアラが向かうと決めたのは、拭い切れない悪い予感が、心の中で渦巻いていたせいなのかもしれない。
止めても聞こうとしないリアラを前に、ダリアンは彼女に同行することにした。
そして──リアラの悪い予感は、最悪の形として現実のものとなり、彼らは悪夢を目にすることとなった。
ダリアンは、その光景に絶句した。
あのヴェルドールが打ち倒され、無残な姿となって打ち捨てられている姿に──。
そして、何よりその懐に転がる、子供の様な亡骸に……。
彼でさえ、これが現実であると受け止めるのは困難だった。
耐え難い喪失感と、それと同時に、これを行った者への激しい怒りに駆られた。
その彼が、辛うじて理性をつなぎとめたのは、隣にリアラがいたからだった。
同じものを見たはずのリアラは、一切取り乱しはしなかった。
静かにロロの亡骸に歩み寄り、かろうじて形を保っている頭部をそっと撫でる。彼女の顔は慈愛に満ち、涙の一滴も流してはいなかった。
ダリアンは、ロロの手が伸びていた先に、無造作に捨てられていた禁術書を拾い上げた。
それはネクロハイヴ禁術書館の蔵書ではない。紙も装丁もまだ新しく、その特徴のある文字は、ロロのものだった。
ダリアンがその書に目を奪われている最中、その視界の端で紫焔が弾けた。
リアラが魔炎を起こし、ロロの体を焼いたのだ。
紫の光を放つ炎は、瞬く間にロロの亡骸を包み込み、その肉体を焼き尽くす。
魔族の業火は、地上に残る魂が次なる器を手にいれるため、元の体を骨も残さず燃やすものだった。
”あの子が再び戻る時、この体は邪魔になる──”
魔族は祈らない。残ってはならないものを、ただ消し去る。
だが、残された者の記憶を消すことは、魔族にもできない。
それから先、ダリアンとリアラのあいだに、言葉はなかった。
ふたりは互いに何かを語ろうとすることもなく、ただ重い沈黙を抱えたまま、霊峰を後にした。そのリアラの手には、ロロが残した禁術書がしっかりと握り締められていた。
ヴェルドールの亡骸は、彼らにはどうすることもできなかった。
その巨躯は、ふたりがかりで焼くにも大き過ぎた。それに、魔族とも人とも異なる存在であるドラゴン、まして四元龍の魂が死後どこへ向かうのか、ダリアンにもリアラにも分からなかった。だから、彼らは迂闊なことは何もせず山を下りた。
ふたりの背には、主を失った霊峰が、変わらぬ姿でそびえるままだった──。
それから、ふたりがネクロハイヴ禁術書館に戻ると、その帰りを待っていたかのように、マクスとセレヴィアが出迎えた。そんな普段とは違うふたりの行動にも、ダリアンとリアラは、ただ沈黙していた。
そしてふたりもまた、その沈黙の意味を問わなかった。
皆はそのまま、アルテアの前に集った。
そこで、リアラはロロの遺した禁術書を両手に取り、束の間、愛おしそうに見つめたあと、アルテアの前へと差し出した。
禁術書を受け取ると、アルテアは静かに書を開いた。そこには、ロロが綴った文字が並んでいた。彼女はそれを、初めから終わりまで、一文字も溢さずに読み切った。そして、書を閉じるとアルテアは告げた。
「……。ただ一人のためだけに作られた禁術。これは、ここに置くべきではありません」
彼女の声音は、残酷なほど淡々としていた。
だがその言葉は、書に記された術理を越えて、ロロの遺志を汲み取っていた。
ロロの夢は、ネクロハイヴ禁術書館に所蔵される魔王カイリスの禁術に匹敵するものを作ること。アルテアに認められるような禁術書をつくることのはずだった。
だが、この禁術書『真秀良供犠』は、その夢から外れ、ヴェルドールのためだけに書かれたもの。この書は、ヴェルドール以外に貸し与えてよいものではなかった。
禁術書の出来については、語るまでもない──アルテアの言葉がどちらを意味しているのか、この場にいる誰にも、それは明白だった。
そして、その言葉に、リアラの目からは、ようやく一筋の涙が零れ落ちた。
だから、そのロロが遺した禁術書は、リアラが持っておくべきものだった。
しかし、リアラはそれを押し付けるようにダリアンに渡した。その行為が何を意味するかを、彼はすぐに察した。
「リアラ……。気持ちは分かりますが、我々の力では……」
──ヴェルドールにとどめを刺した傷は、剣によるものだった。それだけで、ダリアンには十分な確信があった。
魔界に、四元龍ヴェルドールを剣で倒せるものはいない。仮にそんな者がいたとしたら、その偉業を誇らずにいるはずがない。何より、それほどの力を持つのなら、ロロまで殺す理由などなかった。
それは、間違いなく人間の仕業。しかも、それほどの力を持つとなれば、その正体は明らかだった。
神の祝福を受けて生まれ、聖剣に選ばれた人間──『勇者』。
その力は魔王にも匹敵し、ダリアンやリアラのような下級悪魔が、どれほど抗おうと敵う相手ではない存在だった──
恐らくそれは、リアラも言われるまでもないことだった。
そして、どんな言葉でも彼女を止めることなどできないことを、ダリアンも知っていた。
だからこそ、どんなことをしてでも、止めるべきだったのかもしれない。
しかし、彼はそれをしなかった。ロロの禁術書を受け取った者として、それはできなかった。
それから間もなく、リアラは禁術書『十三夜牡丹』を持って姿を消した──
彼女をひとりで行かせた事実は、ダリアンに重くのしかかった。
せめて、共に行くべきだったのかもしれない──考えれば考えるほど、遅い選択が頭をよぎる。だが、その先には救いなど無く、あるのは絶対の死だけだった。
リアラもそれを理解していたからこそ、その選択をダリアンにさせないがために、ロロの禁術書を託したのだった。
ダリアンには、手放そうとしても決して捨てられない呪いのように、ロロの禁術書が重く沈む。その重さは日を追うごとに増して、ついには彼一人では抱えきれなくなった。
そして、助けを求めるように、ダリアンはアルテアのもとへと向かった。
しかし──アルテアに辿り着く前に、その歩みは遮られた。
「──そのようなことで、アルテア様のお手を煩わせるわけにはまいりません。
相手は聖剣を持つ勇者。アルテア様の御身に、万が一の危険が及ぶなど、決してあってはならない」
マクスの冷徹な言葉は、ダリアンに反論の余地を許さなかった。
それは、彼のアルテアに対する絶対の忠誠を、何より雄弁に語っていた。
魔王カイリスの力であれば、聖剣を携えた勇者を相手にしても引けを取らないはず。それは、考え得る中で、唯一といっていい対抗手段だった。
だが、それをマクスが許す訳など無かった。
たとえ同じネクロハイヴ禁術書館の司書であったとしても、たとえ他の誰であっても、ましてや、それが自分自身であったとしても、彼は迷わず同じ決断をするだろう。
ダリアンとて、それは分からない話ではない。万が一、アルテアを失い我々が生き残ったところで、この禁術書館にどれほどの価値が残るだろうか。恐らく、セレヴィアの答えも同じだろう。それは、リアラにしても同じだ。
ネクロハイヴ禁術書館の司書として、もっとも優先するべきは何か──?
その答えは、簡単に理解できてしまうからこそ、言葉が口から出てこない。
正しさで封じられた沈黙は、感情の叫びよりも、ずっと、ずっと重かった……。
◆
一方その頃、勇者たちはすでに魔界の地へと踏み込み、身を潜めながら魔王の城を目指して進軍していた。
彼らがいまだ魔族に察知されていなかったのは、ドレッドホールドでの敗戦以降、魔王軍が混乱の只中にあったためである。各部隊は甚大な損害を被り、再編はおろか、現状の把握すら満足に行えない状態が続いていた。
前魔王アクレオスの動乱、そして今回の敗戦。度重なる被害によって、魔王軍はかつてないほどの消耗を強いられていた。
十分な情報もないまま勇者たちがこの機に攻め入ったのは、幸運な偶然に過ぎなかった。しかしそれは、彼らにとってまさに千載一遇の好機だったと言える。
そして――魔族の側にも、これを好機だと捉えている者たちが、存在していた。
その一つが、オリヴァが率いる勢力だった。
彼らはドレッドホールドでの敗戦を見越し、開戦当初の勝利という戦果だけを掲げ、早い段階で戦線を離脱し自陣営の戦力を温存させていた。
彼は、現魔王を支持していない。この混乱も、彼に言わせれば予見できた事であり、驚くべきことではなかった。彼にとって今の混乱は、公爵どもが考えを改める良い薬になればよい、という程度のものでしかない。
彼は、権力の座に就くことを望んでいない。オリヴァはあくまで、魔界の安寧のため、絶対強者である魔王の支配を望んでいる。そして、それは自分ではない、と自覚している。
それに相応しい魔王が再臨するまでの間、曲りなりでも、魔界の秩序は維持されなければならない。
ゆえに、魔族同士で刃を交えることは不毛でしかない――それが、オリヴァの揺るがぬ意志だった。
そんな彼にとって、勇者の侵攻は看過できない問題となるだろう。
いかに現魔王が気に入らないからといって、魔界が人間に蹂躙されるなど、我慢ならないからだ。
だが、オリヴァはまだ何も知らず、居城に籠り、沈黙を守り続けている──。
それに対して、サリエントの勢力は、この混乱を最大限生かそうと奔走していた。
彼の野望は、魔族としては異端と言えるものだった。
魔王の座を簒奪するのではなく、救国の英雄としてその座を貰い受ける――彼はそんな英雄譚を、本気で信じている。
その子供じみた理想は、彼自身の願望に違いはないが、彼の心は禁術『双子睡蓮冠』によって解き放たれ、揺るぎない決意となっていた。
だからこそ、そのサリエントの行動は早く、そして危ういものだった。
彼の価値基準はすでに魔族の常識から逸脱しており、誰を敵とし、誰を味方とするかは、己の描く英雄譚に沿って決められていた。
もっとも、その理想に反して、彼の振る舞いは決して衝動的ではなかった。この状況を虎視眈々とうかがいながらも、彼はまだ動かずにいた。
サリエントは表立った行動など一切見せず、野望を成就させるための裏工作に専念していた。
現魔王の勢力とも、オリヴァの勢力とも、直接刃を交えることもなければ、手を取り合うこともない。
どのような目が出てもいいように、どちらとも距離を保ち、どちらとも利用できる可能性だけを残している。
サリエントは、この混乱を見据えながら、ただ待っていた。
英雄が姿を現すにふさわしい瞬間が訪れる、その時を──。
同じ上級悪魔を掲げながらも、この二つの勢力の間には、相容れない思想の違いがあった。
しかし、それもいずれ交わる運命にあるのは違いなかった。
そして──勇者たち一行が、その様な勢力争いなど知りようもない魔界の地で、サリエントと巡り合ったのは、幸運な偶然に過ぎなかったのかもしれない。




