第三十編 真秀良供犠・下
「この禁術書はね、神に生贄を捧げる儀式を、術として編み直したものなんだ」
ロロは手にした禁術書『真秀良供犠』を、得意げに水龍ヴェルドールにかざしてみせた。
「……って言っても、僕は見たことないんだけどね、生贄の儀式なんて。ヴェルドールは……あるのかな?」
「いやー、ほんとうに大変だったんだよ。
僕が生まれるずーっと前の記録を漁ってさ。断片的な文献や、伝承を繋ぎ合わせて、儀式を術として構築し直すのは」
その苦労を思い出すように、ロロは軽く頭を下げ、首を振った。
「でもね、この禁術は、生贄を差し出して神と取り引きするものじゃないんだ。そこは、誤解しないでね」
一拍置いて、ロロは小さく笑う。
「うん。そんな取り引き、成立するわけないよね。だってさ、全ては最初から神の所有物なんだから」
ヴェルドールは沈黙を守っていた。ロロはその心の内を勝手に推測して、一方的な話を続けた。
「この禁術は、生贄の儀式を模して、自分の身代わりとして『真秀良』を神に捧げる──」
「そうすると、何が起こると思う?」 答えを待つことなくロロは告げる。
「忘れるのさ、神は綺麗さっぱり、君の存在を忘れ去る」
それは、救済でも取引でもない。
ただ、世界の帳簿から、ひとつの名を消し去るだけの”契約”だった。
「……僕たち魔族は、最初から神に見捨てられてるから、この術を使っても、あまり意味はないんだけどさ」
ロロは、苦笑いを浮かべながら続ける。
「でも、人間だったら大問題だよ。
祈りはすべて無視されて、法術は一切使えなくなる。祝福も奇跡も、もう届かない。
死んだあとも、その魂は天に還れなくなる」
そんな人間たちを想像して、同情でもするかのように、ロロは肩をすくめた。
「じゃあ、ドラゴンだったら、どうなるのか──?
……ごめん。そこはやってみないと、僕にも分からない」
少しだけ間を置いて、まったく隠すことなく、ロロは正直に言った。けれど、すぐに微笑んだ。
「でもさ。もし、狙った通りのことが起きたら……」 そして、ヴェルドールを見上げる。
「君は、神から忘れ去られる。
つまりね──神がかけているその呪いも、一緒に消える、って寸法さ」
二人だけのこの場所で、秘め事でも話すように密やかに、しかし、はっきりとその計画を打ち明けた。
「それで──、身代わりとして捧げる『真秀良』なんだけどね。
四元龍ヴェルドールに相応しい生贄となると、そんじょそこらのものじゃ、まるで釣り合わない」
ロロは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。そこにあるわずかな躊躇いは、誤魔化しのできない代償の大きさを滲ませた。
「四元龍に匹敵する素晴らしいものとして、僕が考えるのは──この霊峰さ」
その視線は辺りを見渡し、小さな体でその大きさを目一杯表現する。
「君がずっーと支配してきたこの場所──。もう誰がどう見たって、ここは君の場所だ」
「ただ……ね、そうなると、この霊峰は正真正銘の神の領地になる。
人も魔族も関係なく、何人の侵入も許されなくなる。
それは当然、君もね、ヴェルドール……」
声は穏やかなまま、告げる内容だけが重い。それを奪うことが、ロロには我が身のように痛い。
だが、ロロは笑った。
「でもさ、世界は広いし、住処なんて他にいくらでもあるし……
そうだ。きっと、ここよりもいい所だって探せばきっとあるよ」
その視線はまっすぐヴェルドールに戻る。
「それに僕は、いつでも会いに行くからさ……」
すべての話を聞き終えたヴェルドールは、ゆっくりとその口を開けた。
『……戯言を並べるな、小賢しい魔族よ。此処を神の領地とし、我が居場所を奪うだと?
……笑止。身の程を知らぬ戯言だ』
龍の喉奥が低く鳴り、霊峰全体が微かに震える。
『だが──その戯言で、神の鎖が断ち切れるというのなら。
この身を縛ってきた永劫の呪いが、消えるというのなら──』
そのひと呼吸、ひと呼吸に、濃い霧が巻き上がる。
『この霊峰ごとき、安いものだ。我は四元龍ヴェルドール。一つの巣に縛られる程度の存在ではない』
「……。どうして──」 そのヴェルドールの返事は、ロロの期待外れのものだった。
ヴェルドールはその身に呪いを受けて以来、誰も傷つけぬよう、この地に独り棲んできた。彼にとってここは、守らねばならない場所ではないはずだった。
だからロロは、この契約にヴェルドールはきっと乗ってくれると信じた。
なのに、どうして──自然とその言葉が、口をついて出た。
胸の内に生じたのは、失望というより、ヴェルドールの心の内が分からない戸惑いだった。
──このために書き上げた禁術書が、無駄になる。……いや、そんなことは、どうでもいい。
問題なのは、そこじゃない。本当に考えなければならないのは、次だ。
ヴェルドールが納得するような、次につながる、もっと建設的な──
お互いが、次の言葉を発しようとした、その時だった──。
「リュア・マルタ・ヴァン・アシェル、セラ・ノク・ヴェリナ・ルディエル──
静止せよ、境界の風。地よ応え、空よ重なれ。敵の足は進まず、退路もまた許されぬ」
ふたりきりのはずの聖域に、澄み切った祈りの声が響き渡る。
その祈りに呼応するように、空気は震え、光が瞬き、聖域全体を覆う障壁が形を成した。
あまりにも突然の出来事に、ロロもヴェルドールも、それが何を意味するのか、気付くことができなかった。
考えるよりも早く、ロロは声のした方へ視線を向ける。その先には、白いローブに身を包んだ女性が、水色の宝石を嵌め込んだ杖を高く掲げて立っていた。
その表情は穏やかさの中に、祈りを終えてもなお、油断のない眼差しを宿している。
「──まさか、ここで魔族と鉢合わせになっちまうとはな」
彼女の隣で、大柄な男が大剣を担ぎ上げ、声を低くして言った。
「ええ。でも、あれだけみたいで良かったじゃない。
ここに私たちがいるなんて、知られる訳にはいかないから、ここで確実に仕留めないとね」
男の背後から、小柄な少女が一歩前に出て、杖を構える。
だが、その二人の更に前に、勇者が歩み出た。
「二人は、ヴェルドールを警戒してロメリアを守って。あの魔族は、僕がやっつける」
それだけ告げて、勇者は迷いなく聖剣を抜いた。
その聖剣の切っ先は、ロロに全てを理解させた。
彼らが何者で、なぜこの聖域に障壁を張ったのかも、そして──自分の末路も。
刹那──聖剣の刃が一足飛びに迫る。それは、ロロに不可避の死を届けるはずの一撃だった。
だが、その刃がロロに届くより早く、ヴェルドールの巨腕がその間に割り込んだ。
聖剣と龍の腕が激突した瞬間、雷鳴にも似た生物のものとは思えぬ衝撃音が聖域を揺るがす。火花と衝撃波が同時に弾け、遅れて地を這うような振動が伝播する。
勇者の身体は、その衝撃に軽く叩き返された。人の身には過ぎた力に押し流され、宙へと放り出されたが、空中で剣を引き寄せ、くるりと半回転し体勢を立て直す。
そしてそのまま、砕けた石床を踏みしめ地へと舞い降りた。
一方のヴェルドールは、その場から動かない。
剥き出しの腕には、生身で刃を受けた証として深紅の血が滴り、岩肌へと静かに流れ落ちていく。
だが、ヴェルドールは一切の追撃を行わず、ただ荒々しく息を吐いた。
『──貴様ら人間どもが、よくも我が眼前に立てたものだ。
その小さき命で、精々抗ってみるといい……。すべて、この我が牙で喰らい尽くしてやる!』
その咆哮は、誰もが望まぬ戦場に、ただ々、避けられぬ戦いを呼び寄せた。
「マルティア・シェル=ドゥル、ノク=リュド、ヴァナトゥエル──」
ヴェルドールの叫びに呼応するかのように、エルマは即座に詠唱へと入った。
その彼女と、結界を維持するロメリアを庇うように、キースが一歩前へ出る。大剣を両手で構え、龍の一挙手一投足を睨み、攻撃に備えた。
だが、そのどちらの攻撃よりも早く、エルマの詠唱は完成する。
「燃え上がれ、始原の火。沈黙に縛られし怒りを解き放ち、天より墜ちよ、灼熱の星」
エルマの杖先に、圧縮された火焔が渦を巻く。
次の瞬間、それは隕星のごとき大火球となって解き放たれ、一直線にヴェルドールへと迫った。
だが、ヴェルドールは怯まない。
大きく胸腔を膨らませると、吹雪の息を吐き出し、迫り来る炎へと真正面から叩きつけた。
炎と氷が、空中で激突する。轟音とともに二つの力は弾け、爆熱と冷気が混じり合って暴風を起こした。
焼けつく熱と、瞬時に生まれた大量の水蒸気が聖域を覆い尽くす。視界は一瞬で奪われ、白濁した霧が戦場を呑み込んだ。
そして──その白霧を切り裂いて、二つの刃がロロとヴェルドールを同時に襲う。
ヴェルドールには迷いはなかった。
ロロへと迫る聖剣に向け、再びその巨腕を振り上げる。再度の衝撃音が霧を震わせ、刃を弾き返した。
しかしその代償に、その体には、防ぐことすらせずに受けた大剣の一撃が、深く突き刺さる。
ヴェルドールの腕の傷はさらに深く切り裂かれ、その体は赤く染まった。
それでも、ヴェルドールは倒れない。
傷を負ったまま、なおその眼は鈍らず、燐光を宿して勇者たちを鋭く見据えていた。
”──だめだ!” 変わり果てたヴェルドールの姿は、ロロの心を引き裂いた。
その体からは、止めどなく血が流れ落ちる。
勇者たちは息一つ乱さず、次なる攻撃へ向け体勢を整える。
ロロは、どうすることもできなかった。
彼の力は、ヴェルドールにも、勇者たちにも遠く及ばない。そこには、抗うだけ無駄であるほどの明確な格の違いがある。
ロロがどれほどの術を並べようと、何の準備もないこの状況で、勇者たちに通用するものなど何もなかった。
”──だめだ! ヴェルドールだけは……” それでもロロは、諦めなかった。
エルマの詠唱が、再び空気を震わせる。キースは大剣を引き絞り、再び龍を捉える。
そして、勇者は再びその聖剣を構える──しかし、その切っ先が向けられたのは、もはや止めを刺すだけのヴェルドールだった。
もし、この一瞬、ヴェルドールが盾となってくれる間になら、ロロはその類まれな能力で障壁を砕き、ひとり逃げることならできたかもしれない。
しかし、そんなことはロロには、できなかった──そんな終わり方だけは、できなかった。
魔族と龍の間に生まれた奇妙な友情が、ロロの心を強く縛りつけた。
その一瞬で、ロロは勇者の前に立ちふさがった。
懐に忍ばせてあった神の血の試薬を飲み干すと、今度は自分自身を盾として、勇者の剣に挑んだ。
だが──
勇者の聖剣は、その小さな身体を、ためらいもなく貫いた。
全身を激痛が襲い、骨が砕ける。それでもロロの力では、それを止めることすらできず、聖剣はさらにその奥──ヴェルドールの心臓に突き刺さった。
続けざまに放たれた仲間たちの攻撃が、容赦なく二つの命を燃やす。
魔法も斬撃も、もはや区別などつかないまま、ただその身に降り注いだ。
試薬の力は、ただ、死の苦しみをロロに長く与えただけだった。
ヴェルドールは、その最後に断末魔すら漏らさなかった。呪いの言葉すら、一言も残さなかった。
その体躯から熱が冷え、目から光が失われるのを、ロロはその身体を焼かれながらも、背中越しに感じていた。
勇者たちの力の前に、ロロは何一つ抗えなかった。しかし、そんなことはどうでもよかった。
ただ──友の最後の言葉が聞けなかったことが、心残りだった。
”この禁術書だけは……”
消えゆく意識の中で、言葉は声にならず、ロロは地に転がる禁術書へと手を伸ばす。
形を留めていない指先が、わずかに震える。ほんの少し、あと少しで触れられるところにあった。
だが、胸を貫く聖剣が、その身体を縛る。伸ばした手は、途中で止まる。掴むことも、引き寄せることもできないまま、届かない。
そして、やがて、指先から力が、失われた……。
「──邪龍ヴェルドール。思ったより呆気なかったな」
戦いが終わった戦場で、キースは大剣を担ぎなおしながら、周囲を見渡してそう言った。
「龍だって、こんなところでじっとしてたら、体だって鈍るでしょ。それに、もう年だったのかもね」
エルマは深くは考えず応え、勇者に近づきながら、その足元に転がる禁術書に手を伸ばす。しかし──。
「エルマ、触ってはいけません」 その手をロメリアは制止した。
「魔族の魔導書です、どんな呪いがかけてあるか……。私たちは、今、そんな物に感けている時間はありません」
禁術書も、ヴェルドールの体も、本来であれば回収して持ち帰りたいほどの価値はある。
だが、自分たちがここに来た理由を考えれば、ロメリアの意見は正論だった。
「……そうね。残念だけど、触らぬ神に祟りなしってね」 そう言ってエルマは手を引っ込めた。
勇者は、魔族と龍が完全に息絶えたことを確かめてから、ゆっくりと聖剣を引き抜いた。
そこには一切の油断も、奢りもなかった。四元龍の討伐という前人未踏の偉業さえ、勇者は誇りにはしなかった。
「みんな、怪我はないかい?」 勇者の声に、皆はそれぞれに短く応える。
「それじゃあ、僕らは先を急ごう」
そう言って、皆に笑顔で応えると、彼女たちはこの霊峰を後にした。
やがて足音は遠ざかり、聖域は再び静寂を取り戻す。
そしてそこには、二つの亡骸と、一冊の禁術書だけが残された。
誰にも拾われることなく、誰にも語られることのないまま――。




