第三編 神血ノ逆胎
「ね~、ダリっち~。ちょっーと、でいいからさ~。」
書館で作業中のダリアンに、巻き角がぐりぐりと突き刺さる。頭に生えているそれを、ロロは彼の脚に馴れ馴れしく押し付けていた。
「嫌です。あと、その呼び方も止めてください。」
ダリアンはもう慣れたことのように、いたって冷静にそのハラスメント行為を含んだ申し出と、呼称を断固断る。
「え~…。いいじゃんよ~。ダンぴっぴ~。」
依然と角を押し付けて、ロロはダリアンの怒りのラインの上で反復横跳びする。
そんなロロを止めたのは、ダリアンではなく、それを見かねたリアラだった。
「ロロくん、いい加減にやめなさい。でないと…、私が思わず禁を破ってしまいますよ?」
それは、禁じられた館内での暴力の示唆だった。ダリアンもその行為の禁止はマクスから伝えられてはいたが、その禁を破ったら果たしてどうなるのかまでは知らない。ロロのうざったさよりも、そちらへ興味が引かれる。
「ごめんなさい…。僕が悪かったです。もうしません。」
しかし、そんなダリアンの疑問が晴れることはなく、リアラに注意された途端、ロロは打って変わって嫌に素直になった。ただ、その唐突な変化は、その禁忌がとてつもなく不吉なことなのだと暗示する。
一転して、リアラはそんなロロの頭をそっと撫でると、よくできましたとご褒美を与えるように、穏やかに微笑んだ。
「──どうして、ヴァンパイアの血液などが必要なのですか?」
そして、ロロがダリアンに絡んだ理由を問いただした。
「今さー、不老不死の研究してるんだよね。」
ロロは、その質問を待ってましたと言わんばかりに、嬉しそうに語りはじめる。
「そのために、いろんな魔族の血液を集めてるんだ。特に、長寿だったり、再生能力の高い種族の血をさ。
だから、ヴァンパイアの血、欲しいんだけどな~~……」
そう言って、ダリアンにチラッチラッと視線を送る。
その視線に気づかぬふりをするダリアンの代わりに、リアラはもう少し詳しく話を聞いてみる。
「それで、これまでどんな種族の血を集めたのですか?」
その質問を受け、ロロは自慢げに語り出した。
「まずねー、人魚とか蛇人、竜人、トロールの血は最初に集めたよね。彼らの再生能力や血の伝承は魅力的だったからね。」
「あとは、コカトリス、マンティコアみたいな合成獣の血も集めたよ。異なる生物の特性を併せ持つ魔物の血には、命をつなぐ鍵があるかもしれないし。」
「できれば、ドラゴンの血も欲しかったんだけど…。ちょーっとしんどいことになっちゃうから、今回は諦めたんだ。でもね…─」
これまでのコレクションを嬉々として語るロロは、最後に小瓶を取り出して自慢げに見せつけた。
「じゃーーん!!」
「ダークエルフの血だよ! セレヴィアがくれたんだ!」
夜そのものを溶かしたような暗い赤色の液体は、星のように魔素が煌めき揺れる。しかしふたりには、その血液とは思えぬ美しさよりも、セレヴィアがロロに血を与えたことの方が驚きだった。
「──よく、そんなものが手に入りましたね。」
リアラは唖然として言葉を漏らす。それに対し、ロロはその血を大事に握りしめながら口を綻ばせる。
「僕もねー、貰えるとは思わなかったんだよね。
アルテア様にヴァンパイアの血を頂けないかお願いに行ったら、セレヴィアが代わりにくれたんだ……。」
ロロの無邪気な言葉は、ダリアンに色んなことを考えさせた。
あのアルテアが、自分と同じヴァンパイアであったことや、彼女とセレヴィアの関係性。さらに、そこに入って行って殺されずに帰ってきたロロの立ち位置。それは単純に、子供だからだとも考えられたが、このネクロハイヴ禁術書館でリアラの更に上の席を預かる彼が、ただそれだけの理由である筈もなかった。
「あのおふたりの理解が得られているのなら…、協力、しましょうか?」
ロロの話した内容は、ダリアンに譲歩を引き出した。彼にとって一応は上役のロロから、さらにその上の影を感じ取る。その影の意思を、ダリアンは様々な観点から慮った。
「えっ!? ホント? ダリるんっ! んじゃ、早速──」
ロロはダリアンの気が変わらないうちにと、さっさと採血を始める。その手際は慣れたもので、痛みもなければ、怪しげな儀式を行うこともなく、鮮やかに済ませた。
「ふっろうふしっ! ふっろうふしっ!」
ロロはダリアンの血を取ると、リズムよくそう口にしながら、軽い足取りで去って行った。その姿はまるで、貰ったおもちゃを大事そうに抱えて喜ぶ子供のようだった。
(そんなテンションで取り組むことなのか……)
ダリアンは本当にただの子供のような仕草を見せるロロに、何とも言えない気持ちになる。
その傍らで、一部始終をただ眺めていたリアラは、微笑を浮かべて言葉を漏らした。
「ヴァンパイアが採血されるところなんて、初めて見ましたわ…。」
それは、蔑みとも呆れとも哀れみとも取れる言葉と視線だった。
ダリアンは、リアラを前に少しの気まずさと、気持ちの悪い間を嫌い、思いついた話題を口にする。
「──不老不死。この書館にそれを叶える禁術は、あるのですか?」
その質問に、リアラは笑みを深くして応えた。
「ええ、ございますよ──」
それからいつもの様に、リアラの講義は始まった。
「まず、不老不死を、不老と不死の二つに要点を分けましょう。その上で、不老についてからお話ししましょうか。」
リアラは書館の一室で、ダリアンに不老不死の概念から語り出す。
肉体と魂、その存在の強さが異なる魔族と人間、あるいはその中間的な存在の概念の差を埋める為には、まずその整理をする必要があった。
「魔族の肉体にも寿命があります。それは、上級悪魔のような『魔の深淵』と同化した存在を除いて、の話ですが…。
今日は、そのような上級悪魔は忘れましょう。今、そのお話をしましても、魔の深淵に到達した魔王と同格の上級悪魔に対しては、ここの所蔵する禁術書がどこまで有効なのかは都度検証が必要になりますし、それは今日の主題から外れますので…、これについてはまた日を改めて扱うことにいたしましょう。」
「それを踏まえた上で、大半の魔族や、亜人を含めた人間を不老とする禁術の説明します。」
リアラはそう言うと、二冊の禁術書を取り出し並べた。
「こちらの禁術は、封老術です。肉体を現在の状態で封じて、老いを凍結させる禁術です。老化の原因となる代謝など、体の中で起こる変化をすべて止めて、永遠に、今の肉体を保つことが叶います。」
「ただし、外的な攻撃に対して強くなるわけではありません。この術によって本来生物が持っている自然治癒能力も失いますので、些細な怪我にも注意が必要です。」
「加えて、この術は脳の状態も固定されます。つまり、記憶も思考も止まり、ただのモノと化してしまいます。人形として保存するならそれも良いでしょうが、自分に使うつもりなら、魂に記憶を刻む術と併用が必要ですね。」
「そしてこちらは、衰殺の印が記された一冊。肉体の内にある衰退因子を見つけ出し、禁術によって滅殺します。」
「先ほどの封老術と違い、体の活動は維持されます。」
「ですが、思考の老化を防ぐことは出来ません。体というのは年月と共にある種の趣向性を持ち、特定の行動や考えに染まります。それを種の限度を超えて伸ばすのですから、その思考もより凝り固まったモノへと変貌していきます。最終的には、とても極端な偏屈で頑固者になる、と言えば分かりやすいでしょうか。」
二つの不老の禁術をリアラは丁寧に説明し、最後にこうまとめた。
「どちらにも言えることですが、絶えず肉体に影響を与える術は、常に魔力を必要とします。さらに、悠久の時間の中、たゆまず続けるだけの深い精神力、あるいは高い目的意識。それらが欠けているのであれば、不老を維持するのは困難となるでしょう。」
禁術を使い種の摂理を超えて長く生きようとするのなら、その代償を支払ってでもやり遂げたい目的が無ければ難しい。そんな強い野心を抱く者のためにある禁術、確かにその通りではあった。
だが、ダリアンには、また違う一面がみえていた。人魔の大きく異なる寿命の差を埋める術として、これほどふさわしい禁術は他にないと、彼には思えたのだった。
一息挟んで、次にリアラは不死の禁術の話を始める。
「…。そして次に不死の禁術ですが、これは、魔族と人間の種族的な違いが、方法論の点で大きな違いを生みます。」
「人間の場合は、肉体が死した時、魂が天へ返らないよう閉じ込める必要があります。そしてその間に替わる肉体を用意し、魂を移し替えることで不死性を実現します。」
「それに対して魂が天に返ることの無い魔族の場合、次の肉体を用意すればよいのですが、それは魂の格に見合うだけの肉体でなければなりません。でなければ、肉体が魂の魔力に耐え切れず崩壊してしまうでしょう。」
そこまで語り、リアラは少し考えを巡らせてから補足する。
「──禁術という点からみると、人間を不死にする方法の方が容易い、と言えます。」
「人間の魂を操る禁術というのは、これまでに多くの方法が編み出され、悪魔が最も得意とする禁術といってもよいでしょう。」
「それに対し、魔族の場合、”代わりの肉体を用意する”方法は悪魔の格が高いほど困難であると言えます。上級悪魔の肉体を作り上げるということは、同等以上の存在を犠牲にする必要があり、それは現実的ではないからです。
そうなると、”肉体に不死性を持たせる”方法になるのですが、これは代償として肉体に大きな変化を要求します。」
その不死の代償は、ダリアンでも理解しているほどの常識的な話だった。この禁術の最大の問題は、まさにその代償にある。仮に、肉体に不死を与える禁術を人間に施した場合、もはや人間ではなくなる。それほどの大きな変化を要求されるのは、魔族であっても変わらない。
アンデッドにせよ、自身のヴァンパイアにせよ、あるいは他の何であっても、それらはすべて仮初の不死に過ぎない。不死性の実現と引き換えに、逃れられない呪いのような弱点を抱えている。それは、真なる不死にはほど遠く、偽物の不死でしかない。
この禁術書館の魔王の禁術書ならば、その弱点を克服した真の不死の禁術が記されているのでは―…。そう、ダリアンはひそかに期待した。だが、リアラの次の言葉は、ダリアンの期待を裏切るものだった。
「そして、残念ながら、このネクロハイヴ禁術書館においても、この代償を克服した不死の禁術はございません。」
それはダリアンにとって失望だった。だが、同時に安堵でもあった。此処に無い、ということはつまり、未だ誰も実現していないという事に他ならないのだから……。
だが、それも束の間、ダリアンに疑問が浮かんだ。それを、リアラに気兼ねなく尋ねる。
「では、ロロは血を集めてどうやって不老不死を実現しようとしているのでしょう?」
その質問に、リアラは一度眼を逸らし、そして言葉を選び答えた。
「…。私も、ロロくんの研究をすべて理解していませんので、詳しく知りたければ彼に直接尋ねた方が良いでしょう。」
「ですが想像は出来ます。
ロロくんが目指しているのは、誰も成し得ていない不死の代償の克服。彼は禁術書を研究して、血液を使ったアイディアを得たのでしょうね。」
そのアイディアがどんなものか、ダリアンには皆目見当もつかないが、それ以上に、あの子供のようなロロが、それを成し得るほど高い知性を持っていることが信じられない。
だが、リアラは違った。彼女の瞳には、子供を見守るような優しさと、同時に、予測不可能な未来を期待するような危うさが宿る。
ダリアンの表情から心の内を見透かすようにリアラは、最後に言葉を添えた。
「もしあの子がそれを成し遂げたのなら…、それは、このネクロハイヴ禁術書館で唯一、魔王以外が書いた禁術書として所蔵されるでしょう──」
それからしばらく、ロロは自分の部屋に籠って出てくることはなかった。
その間、ネクロハイヴ禁術書館は何事もなく、ただ時は過ぎ、そして、ある日──
ダリアンはロロに呼び出され、彼の部屋に向かった。
ロロの部屋は、多くの禁術書とともに、彼が集めていた血液サンプルと、どうやって使うのかも分からないような複雑な形をした実験器具が所狭しと並んでいた。
しかし、その部屋にはロロはおらず、代わりになんとセレヴィアがいた。ダリアンはマクスの言いつけを守り、なるべく彼女と関わりを持たないよう気を付けていたが、突然の遭遇に少し動揺を見せた。
「……、どうしたんですかね、ロロは。」 ダリアンはとりあえず状況確認に努める。
「私も呼ばれたばかりでよくわかりません。」
セレヴィアは澄んだ声で簡潔に話した。
(このひとを呼び出したのかロロは……) 彼女の短い言葉に、ダリアンは驚きと困惑の中にいた。
そして、少しするとロロが慌てて姿を現した。
「お待たせしました! 本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。」
ロロはダリアンとセレヴィア両名を前に、仰々しくお辞儀する。
「僕の研究にご協力くださったお二方は、その成果を誰よりも早く知りたいと思ってるでしょうから、本日お招きさせて頂きました。」
まったくダリアンはそんなことを思ってなかったが、話の腰を折っても悪いので黙る。その代わり、そっとセレヴィアに視線を送るが、その変わらぬ表情からは考えは読み取れなかった。
「では、さっそく僕の研究成果の発表に移ります。」
そう言うと、ロロはふたりに書類を配った。その表紙には『神血の錬成』と書かれていた。
「──長命の種の血液を解析することで、その中から種を超えて共通する因子を探す。たとえば、老化抑制や細胞の活性の構造を見出せれば、不老不死に繋がる生理的メカニズムの解明に近づける。
そのような考えから、この研究は出発しました。」
「魔族の血に関しては、様々な禁術書に記載がありますが、その対象も目的も様々で、統一性がありませんでした。
ですので、今回はサンプルの採取から始めて、比較検証が可能な形の血液データを残すことから始めました。」
ロロは人が変わったように淡々と言葉を並べる。
「血液の成分分析、魔素含有量の定量評価、試薬を用いた抗酸化活性試験、魔の霊脈への反応試験など、いくつかの試験を実施し、種ごとの長寿因子の特徴分けを行いました。」
「試験の内容は、お手持ちの資料をご覧ください。」
ダリアンはそう促され、書類をめくる。確かにその中には、試験の内容とその目的、手順と結果が事細かに記載されていた。だが、ダリアンがそれを見たところで、何が何を示しているのか分かる訳もなかった。
しかし、ロロは構わず続ける。
「この結果から分かるように、それぞれに特徴的な長寿因子を示してはいますが、完全に一致するものは見つかりませんでした。
そこで、この因子の中から共通する捕因子の候補をいくつか挙げ、その高深度解析を行いました。」
「資料の21頁からどうぞ。」
「血漿解析の結果得られたピークデータから、長寿種すべてに同定する魔素結合タンパク質を複数見つけ──」
もはや、ダリアンにはロロが何を言っているのか理解できない。それは決して、彼が愚かだというわけではない。ただ、魔界全土を探しても、ロロの学術水準に並べる者はほんの一握りしかいないのだ。
ダリアンの資料をめくる手が重い、このままロロの話を聞くべきか、それすらどうするか悩んだ。
かたや、セレヴィアはロロの話に静かに聞き入っていた。
「──その結果から、2つの有望なタンパク質を見つけました。
それを共通ペプチドX132、共通タンパク質Y278と仮称し、さらに、X132単独添加群、Y278単独添加群、X132+Y278併用群の三群を設定し──」
ロロの説明は止むことなく、とても滑らかに進む。
「──併用群が細胞寿命において、1.5倍を記録。テロメア長減少が30%に抑制と、顕著な数値を記録。
この二つが協調的に働く可能性が高いと推測でき、その挙動を観察しました。」
「資料の28頁をご覧ください。」
ダリアンはため息をつきながら、その頁をめくる。するとそこには、渦が巻く動きを刻むように、連続した転写画がコマ割りで並べられていた。この渦が何を意味するのか、ダリアンには全く見当がつかなかった。
「この渦は、X132とY278の捕因子が魔素を循環させて、細胞内で発生させたものです。」
すぐに提示されたそのロロの答えを聞いても、ダリアンにはピンとこない。
しかし、彼とは対照的に、ロロの答えは、まるで時間を止めたかのように、セレヴィアの静かな呼吸を奪った。
「この渦が可視化されたことで、X132とY278が相互作用し、エネルギーフローを最適化している可能性が裏付けられました。」
そう言うと、ロロは懐からとても小さな小瓶を取り出した。その小瓶には、ほんの数滴ほどの紅色の液体が入っている。
「これは、高濃度のX132+Y278を含有する血漿です。長寿種に共通する因子を人工的に再構成し、自己再生性と恒常性の一部を再現することに初めて成功した試薬。これは、『神の血のプロトタイプ』そう呼称できるものです。」
ロロは小瓶を掲げ、自信をこめて笑顔でそう言った。
その意味は、ダリアンにも響く。だが、それ以上にセレヴィアの感情を動かした。
「プロトタイプ──であるならば、不死にはまだ何が足りませんか?」
セレヴィアは初めて口を開き、ロロに質問をした。それに対し、ロロは笑顔のまま応える。
「そう、この試薬だけでは不死にはなり得ません。と、言うより──、実はまだ効果の検証には至っていません。」
「まだ、解明しなければいけない重要なことがあります。」
そこまで言って、ロロは表情を戻し、説明を始めた。
「X132とY278の相互作用によって発生する魔素の渦動現象は、単なる生理反応ではなく、ひとつの術式構造として認識すべきものです。この術式のその構造と制御法を解明しなければ、真に意図した不死性には到達できません。
現状では、この渦は偶発的かつ不安定であり、再現性と持続性の観点からも、まだ完成には程遠いのです。」
「そこで、これは僕からのお願いです。」
ロロは一度目を伏せ、そしてセレヴィアを見つめる。
「──ぜひ、この術式の構造解析にアルテア様の御助力を頂きたいです。」
ロロはセレヴィアに頭を深く下げる。それを受け、セレヴィアは迷うことなく告げた。
「良いでしょう。私からアルテア様にお願いしてみましょう。」
セレヴィアの即答に、ロロはすぐ頭を上げる。そして──
「ありがとう、セレヴィア!!」 と、歓喜と同時に飛びついた。
その光景は、それをただ見ていただけのダリアンにも、驚きと笑みを運んだ。
それからしばらくの間、ロロがセレヴィアと一緒に、アルテアのところに通う姿を、ダリアンはよく目にした。
「ふっろうふしっ! ふっろうふしっ!」
アルテアの協力を得て、喜び勇んで書館を歩くロロの姿は、不死をもたらす神の血の完成も近いのだろうと予感させた。
──だが、ある日を境に、そんなロロの姿はピタリと止んでしまった。
書館はまるで何事もなかったかのように静まり、以前の姿を取り戻していた。
ダリアンは、ロロの研究がどうなったのか不思議だった。研究が思うように進まず停滞しているのか、あるいは別の問題が発生したのか、さまざまな要因が考えられたが、ロロに会うこともなくなっていた。
そんなある時、ロロの方からまたダリアンに絡んできた。
「ね~、ダリダリ~。今度はさ~、爪を切らせて欲しいな~~。」
まるで時が戻った様なその相変わらずの物言いを、ダリアンは再び拒絶する。
「ダメですよ。それより…、神の血の研究はどうしたんですか?」
返ってきたダリアンの問いに、ロロは一度顔を伏せる。
「…、あれはねぇ、もう解決しちゃってたんだよ。
笑えるよね、あれだけ苦労したのに、答えはとっくの昔に出てたんだから……。」
ロロはそう言って、どこか卑屈に嗤った。
それが成功なのか失敗なのか、ダリアンには判断がつかなかった。だが、そのロロの振る舞いは、その結果が望むものではなかったことを理解させた。
この件にダリアンが無関係だったのなら、これで済ませたのかもしれない。だが、それで済ませるには、ダリアンは関わり過ぎていた。それを、見過ごせなかった。
そして、ダリアンは行動に移した。
ダリアンは、セレヴィアのところに向かった。マクスの忠告が頭を過ったが、それよりも優先されることだった。それは、ただ真相を知りたい知的好奇心だったのか、ロロを思っての行動だったのか、ダリアンにも分らなかった。
そのダリアンがセレヴィアの前に立った時、彼女は彼が何のために来たのか一目で理解した。
「ロロが作ったもの、あれは確かに、不死の力をもたらす神の血と呼べるものですよ。」
彼女の一声は、何も知らないダリアンを、増々混乱させるものだった。
「アルテア様は、ロロが見つけた渦の術式解析をいともたやすく紐解いていきました。
そして、渦の安定化を可能とした術式として再構築され、神の血は完成しました。」
それは、ダリアンの想像以上にあっけない答えだった。しかし、ならばなぜ、というダリアンの疑問の答えにはなっていなかった。そして、その答えをセレヴィアは続けた。
「ですが、ひとつの欠点が見つかりました。」
「X132とY278による渦の生成には、特定の細胞応答性が不可欠です。しかし、老化によって機能が低下した細胞では、渦の力に細胞構造が耐えられず、自己破壊を引き起こしてしまったのです。」
セレヴィアは一度言葉を切り、静かに補足した。
「─…、それだけならば、ロロはきっと、その欠点を克服する研究を続けていたでしょう。
けれど、アルテア様はある禁術書を彼に与えてしまいました。」
「それは、完全なる神の血を作り出す禁術が書かれた、神血ノ逆胎と題された禁術書でした。」
ダリアンは思わず息を呑み、言葉を失った。沈黙のまま、ただ、セレヴィアの顔を見つめることしかできなかった。
「それは私も知らない禁術書でした。もちろん内容も……。それを読んだロロは──」
話の途中で、セレヴィアの言葉は止まる。その視線は、ダリアンの背後で停止した。
そのセレヴィアの視線を追って、ダリアンが振り向くと、そこにはアルテアが静かに立っていた。アルテアの佇まいは、最初に感じた死神の面影そのままに、生気なく幽玄で、そして、幻のように儚げで全く気配がなかった。
「こちらへ──」
驚くダリアンを前に、アルテアはそれだけ言って、彼を招いた。
アルテアの部屋に、ダリアンはひとり通された。
その部屋は、驚くほど何もなかった。禁術書が溢れるこの禁術書館で、唯一その禁術書が見当たらない。強いて挙げるなら椅子と机と、一本の杖がその部屋にはあった。
彼女はひとりで部屋に籠っている。マクスがそう言ったように、あの最初の日以来、ダリアンはアルテアと再会するどころか、その姿を目にしたことすら無かった。そんな彼女が、この何もない部屋で、何をして過ごしているのかダリアンには想像もできなかった。
「これを──」 アルテアは、ダリアンに禁術書を差し出す。
それは、神血ノ逆胎と書かれた禁術書。それは、ロロが目を通し、すべてを知り、そして諦めた回答書。
そんなものを見たところで、理解できるかダリアンは疑問だった。それに、絶対に禁術書を開くな、とリアラに言われている手前、彼はその手を押しとどめた。
「逃げる必要はありません。」
アルテアの透き通る声は、慰めでも、非難でもない。ただ、そこにある事実が静寂の中に置かれただけのその言葉に、ダリアンの呼吸は一瞬止まる。
”逃げている”──そんな意識などなかったが、その言葉の中に含まれる無数の意味が、彼の胸の奥に突き刺さる。
そして、アルテアのたったそれだけの言葉が、彼を目覚めさせた。
ロロも、リアラも言い訳にしてダリアンは本心を偽っていた。つまり、逃げていたのだ、真実を知りたいという本心から……。アルテアはそれを見透かしていた。
「わかったよ…。逃げないよ。」
ダリアンはそう呟くと、ゆっくりと手を伸ばし、禁術書を開いた。ここに来て以来、初めて彼は真正面から禁術と向き合う。それは、このネクロハイヴ禁術書館で、彼が踏み出した最初の、そして確かな一歩だった。
開かれる禁術書を挟んで、時は息を潜めたように、ふたりだけの静寂が音を奪っていった──
神血ノ逆胎には、確かに神の血の製法が記されていた。その内容は信じ難いものだったが、このネクロハイヴ禁術書館であっても、秘匿されるべき禁術中の禁術と呼べるものだった。
”──血の混交は罪にあらず。神、己が創りし器らの交わりを咎めず。
しかれども、血を遡らんと欲する行いは、天の理に背きし禁忌にあたる。
いづこより神の血は来たるや。誰が最初の雫を嚥みしか。
知られぬがゆえに、求むる者はただ一途に、原初へと手を伸ばさん。
──されど、血は過去を語らず。語らぬならば、いなゆえに、逆胎せしめよ。
すべての生を、尽く喰らい尽くすべし。
根源の連なりを断ち切り、世界より命の連鎖をひとたび終息せしむるとき、次に芽吹く原初の生には、いまだ誰も触れ得ぬ清き権能が宿らん。
その血こそが、神に至る苗床なり──”
だが果たして、これは術と呼べるものなのだろうか。術と呼ぶには、あまりにも壮大で、あまりにも膨大な代償を要求する黙示録。実現できるわけもない、つまりは、確かめようもない。だがこの禁術書は、ネクロハイヴ禁術書館に所蔵され、アルテアの管理下にあった。
それがすべてを物語っていた。
ダリアンは、禁術書に綴られたその内容に言葉を失った。そして、ロロの心情を悟る。
──恐らくは、研究を続ければ限りなく完成に近づくことはできたのだろう。けれど、どれだけ近づこうとも、この完全なる神の血には決して及ばないのだろう。ロロはそう予感し、そして、それが許せなかったのだろう。
ロロから始まったこの一連の騒動で、ダリアンの手元には何も残らなかった。答えに辿り着いたのに成し遂げたという実感もない、ただ虚無感だけが広がっていた。
禁術書を閉じたダリアンに、アルテアが最後に言葉を添えた。
「ダリアン・アザール・ノクシガー。また、いつでも──」
その声は穏やかでありながら、温度を持たない深淵からの囁きのように響いた。
アルテアから贈られたその言葉は、このネクロハイヴ禁術書館からの、遅れて届いた招待状だった──