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第二十八編 血筆粘土板

 ダリアンは、ネクロハイヴ禁術書館の司書として、変わらぬ日々をこなしていた。

 だが、あの日のアルテアとの接見は、司書としての自分の在り方と、禁術書に向き合う姿勢を、確かに変えさせていた。


 だが、彼はアルテアとは違い、神を殺す意志などない。マクスのような魔王カイリスへの崇拝があるのでもない。

 この世の不条理に抗うために、ネクロハイヴ禁術書館に訪れた者たちのため、司書としての自分は何をするべきなのか。

 二人と対話したことで、彼が辿り着いたのは、彼独自の解釈と言っていいものだった。


 ──この禁術書館に訪れる者へ、ただ一冊の禁術書の厚みだけ、天に唾吐く高さを与える。


 それが、ダリアンに新たに芽生えた信念だった。

 それは、無意味と断ぜられるものかもしれない。だが、その徒労の果てにこそ、彼は意味を見出した。

 己の行いを正義と呼ぶつもりはない。ましてや、正当化する気もない。ただ、その信念にだけは、誇りを持てた。


 彼が辿り着いた信念は、この書館でこれまで見て来たものと、アルテアの言葉に確かに支えられていた。


 そして、その変化はダリアンの行動にすぐ表れた。

 彼はアルテアから許可を得て、これまで触れるのが許されなかった禁術書へと手を伸ばしたのである。

 ただそれについては、アルテアは最初から何ひとつ禁止などしていなかった。

 これまで、彼の周囲がまだ覚悟のない未熟者への配慮として、扱いの難しい魔書を遠ざけ、彼もまたそれを押し切ってまで禁術書を探ろうとはしなかっただけのことだった。


 こうして、ダリアンはアルテアと顔を合わせる機会も自然と増えていった。

 その場で交わされるのは、禁術書に関わる味気ない会話ばかりだったが、回数を重ねるにつれ、彼女に対する畏怖も次第にほどけていった。


 そうして時が過ぎていく間に、禁術書館の外の世界でも、また別の変化が進んでいた。


 ドレッドホールドを巡る魔王軍の戦いは、結局のところ、オリヴァが予見していた通りの結末を迎えた。

 魔王軍はドレッドホールドを落とすことはできず、人間側の連合国軍に押し返され、無様な撤退を余儀なくされたのである。

 かつてダリアンが命を賭して奪い取った砦も、呆気なく人間側に取り返された。オリヴァの功績を横取りして駐留していた公爵の必死の抵抗も空しく……。


 この敗北によって、魔王の権威は大きく揺らいだ。

 それは魔界全体に混乱をもたらしたが、魔王へ反旗を翻す者を出現させるには至らなかった。

 今の魔界は、力と野心を備えた勢力同士が互いに牽制し合い、均衡を保っている。

 “力こそ正義”の魔界において、こんな構図は歪である。だが、その均衡を”力を持って”打ち破れる魔王が不在であること自体が、今の魔界が抱える歪みとも言えた。


 魔界の諸勢力が表立って動かず、裏で勢力拡大に暗躍するようになったことで、かえって魔族たちは保身に走るようになった。この情勢下では、ネクロハイヴの禁術書に手を出すことは、敵対勢力に付け入る隙を与える行為だと考える者が少なくなかった。

 その結果として、ネクロハイヴ禁術書館へ来訪する者の数は、目に見えて減っていった。

 だがそれは、ダリアンに禁術書と向き合う十分な時間を与えてくれた。彼はその幸運を、遠慮することなく享受した。


 そして、また月日が流れた──


 やがて、またちらほらとネクロハイヴ禁術書館に来訪する者が戻り始めた頃、ダリアンはある女と巡り合った。その女は、ダリアンと同じヴァンパイアだった。

 彼は、いつもと変りなく、司書として彼女と対峙した。


「イディリア・サルヴァリン・ナスフェローク様。今宵は、何を御所望ですか?」


「────」 対面するダリアンの問いかけに、イディリアは何も語らなかった。だが、その目はしっかりとダリアンを捉え、刺すような視線を送っていた。

 だが、彼女は意を決したように一旦目を閉じると、ひと呼吸をついてから、目を見開いた。


「私の望みは唯一つ――貴方に死んでほしい」


 会った覚えすらない女から向けられた明確な殺意に、ダリアンの胸がわずかに震えた。

「────」 沈黙。彼は、その理由を問おうとはしなかった。

 過去からの復讐──その理由は明らかだった。彼女が誰かは関係なかった。


「どのような死に方をさせたいですか? 今すぐの消滅を? 永遠の苦しみを?」

 ダリアンは自分の死に方を、イディリアに問う。


「それは、貴方が決めなさい」 彼女は冷たく言い放った。


 ダリアンは静かに立ち上がり、書架へと向かった。そして、言われた通り、自分を殺すための禁術書を探し始めた。

 その行動は、かつての彼からは到底考えられないものだった。


 司書になったばかりの頃のダリアンなら、動揺しながらも必死に彼女の真意を探ろうとしただろう。

 そうなる前の彼なら、潔く首を差し出していたかもしれない。

 さらに遡って、人間のアルテアと出会う前の彼だったなら、問答無用で返り討ちにしていたはずだ。


 禁術書の背表紙をなぞる指が少し震えた。それは、恐怖からではない。

 ふと、今の自分がしていることの異様さに、どこか可笑しさすら覚えたからだった。


 ダリアンは、一冊の禁術書をイディリアの眼前に差し出した。

 ここの魔書の中でも、ひと際傷が目立つその表紙は、長い年月を吸い込むように黄土色へと変色し、四隅はくたびれて歪んでいた。


「こちらは、禁術書『血筆粘土板ギルガメシュ・スタイラス』。

この書ならば、きっと、貴女の望みを現実とすることができましょう」

 禁術書にそっと指先を添えながら、ダリアンはイディリアをじっと見つめた。

 彼女はその視線から目を逸らした。だが、その表情には、なにも諦めていない険しさが残されていた。


 ダリアンは、禁術書の説明を続ける。

「この書によって、貴女はこの世の理に自由に背くことができる力を得る。

神がその理の侵害に気付くまで、貴女の破戒は生き続ける」

 視線を逸らしたまま、彼女はその声に耳を傾ける。その素振りから、ダリアンは多くを察した。


 ──なぜ自分を殺したい彼女が、その爪を真っすぐこの喉元へ突き立てないのか。

 同じヴァンパイアであり、魔力にそれほど差も感じ取れない。なのになぜ、その殺意を直接ぶつけられないのか。

 それは……イディリアも恐ろしいのだ。

 だが、その恐怖は、自分が与えているものではない。この背後にいる、アルテア様によるものだ。

 このネクロハイヴ禁術書館に来たということは、魔王カイリスを知らぬわけがない──


「破戒する理が、他愛ないことなら、その効果は数刻から数日。天地を揺るがすほどの大惨事であるなら、それは、ほんの一瞬……。ですが、確実にそれは起こります。この書は、それを保証いたします」

 ダリアンは説明を続けながら、目の前のイディリアの思惑を推し量る。


 ──魔王カイリスの影は、死を絶対の運命と確信させる。

 自分に攻撃でもしようものなら、その瞬間に死が訪れる、とでも思っているのかもしれない。そんな事は、起こり得ないのに……。

 だから、彼女は与えられた権利を使って、遠回しに苦しめる方法を模索する。

 いや、あるいは、それを伝えることが目的なのか──


「そして、術者はその代償として、理に生じた歪みを、帳尻合わせとしてその身に受けるのです。

身の丈に合わない破戒は、簡単にその身を亡ぼすでしょう。

上級悪魔でもあれば、力に応じた破滅をもたらすこともできましょうが、そうでないならば、手を出すべきでない禁術です」


 ──では、その殺意の源はなにか。

 それは、想像するまでもないことだった──


 禁術書の説明を終えたダリアンは、その最後に一言添えた。

「さて──私は、貴女の誰を殺したのでしょう?」

 その言葉に、イディリアは外した視線を再びダリアンに向けた。


「……汚らわしい裏切り者が、いい気になって……。

お前など、魔王カイリスの庇護がなければ、今すぐにでも八つ裂きにしてやるのに──!」

 問いの答えにはなっていないその恨み節は、それでも、別の疑問の答えにはなっていた。

 ネクロハイヴ禁術書館を外から見ているだけなら、ダリアンを始めとする司書たちが、魔王カイリスの庇護下にあると誤解しても不思議ではない。

 ダリアンは、その誤解をわざわざ解く必要はなかった。だが、イディリアの要望に応えるためには、話を先に進める必要があった。


「──そう思われるなら、どうぞこの禁術書、お使いください。

貴女の命を代償とするのであれば、この私の命を奪うことも叶いましょう」

 ダリアンは、禁術書に添えていた指を静かに離す。そして、”これはもう貴女のものですよ”と、手を開いた。


 誘導されるように、イディリアは禁術書『血筆粘土板』に手を伸ばす。

 その魔書は、どこか土中に埋もれた古い墓標のような、静かで湿った気配が漂う。本とは思えぬほど鈍い質量を宿し、ただ表紙を開くだけでも、片手では足りぬほどの重さだった。

 そのせいか、開いた頁に添える彼女の指は、微かに震えていた。震える指先と、噛み締められた唇。そのどちらもが、彼女の迷いと決意を雄弁に物語っていた。


 震えるイディリアを前に、ダリアンはゆっくりと口を開いた。

「──私はかつて、愛しい人を奪われ、その仇として同族を殺しました。それについて、一切の後悔も、懺悔もない」

 その声音には、彼女の覚悟を値踏みするような挑発と同時に、その決意を後押しする相反する色が混じっていた。


 その言葉は、イディリアの胸の内を大きく掻き乱した。

 なぜ、今それを口にしたのか──、どの口でその罪を語るのか──、赦しを拒否する告白は、余計に彼女の余裕を奪った。

 彼女に唯一残された感情が激しく揺れ動く。震えはさらに強くなり、激情が今にも限界を迎え、溢れ出しそうだった。


 だが、その爆発よりも一歩早く、ダリアンはさらに言葉を続けた。

「ですから、私は貴女の復讐を否定など致しません。ですが──受け入れる気もありません」


 その言葉は、もはや決断するだけだったイディリアに、疑念を芽生えさせた。

 

 ──もしや、ここまでのことが全て、復讐者を返り討ちにするための罠なのか。

 いや、ネクロハイヴ禁術書館で与えられる権利は絶対であるはず。禁術書に偽物があるわけもない。

 では、今さらこの男は一体何を言っているのか。ただの強がりか、それとも、命乞いにすぎないのか──


 イディリアは禁術書『血筆粘土板』に手を置いたまま、この書の力を改めて考えた。


 この世の理に自由に背くことができる力を得る禁術──私の選択は問うまでもない。

 仇に死を与え、代償に私も地獄へ落ちる。躊躇いはない。それは変わらない。

 でも──


「どうされました? 貴女の命です。何人にも犯されざる貴女の権利なのですよ」

 ただ事実を告げるダリアンの声は、イディリアの選択の邪魔をする。その選択のために、胸の奥に沈めたはずの感情が、ここに来て顔を覗かせる。


 私の命──私の選択──?


 復讐のために命を捧げると決めていたはずなのに、ふと心が揺れた。

 その揺らぎは、恐れとも、迷いとも違う。

 ただ、ずっと奥底に押し込め、見ないふりをしてきた、叶わないと諦めた願いだった。


 イディリアはその選択の間際の淵で、自分の本当の望みに気づいてしまった。


 その認めたくない真実は、結局すべて、この目の前の男の名前に行き着いた。

 ダリアン・アザール・ノクシガー……その名を、私はどれほど胸の奥で反芻してきたのだろう。

 愛しい人を奪い、私の世界を壊した裏切り者のヴァンパイア。その影を追い続け、復讐だけを糧として、今日まで歩いてきた。


 そしてついに、この場所に辿り着いたというのに──


 あの日、闇の森の奥で見つけた、無惨に裂かれた恋人は、私の現実を破壊した。

 温もりの欠片すら残さない、冷たい骸。私は膝から崩れ落ち、赤く染まった月に向かって誓った。

 この手で必ず、お前を殺す──と。


 その誓いだけが、私を生かし動かした。

 お前がどこの誰かも分からなかった。どこに消え、どこに潜んでいるのかも。

 ただ、殺し方から同じヴァンパイアであることだけが手掛かりだった。


 諦めなかった執念が実を結んだのは、ささやかな噂話がきっかけだった。

 人間の地で、半魔の娘とたった二人だけで砦を襲撃し、見事に落としてみせたというヴァンパイア。

 出来過ぎた荒唐無稽な英雄譚を聞いた時、お前の影をようやく掴んだ。


 それが、お前だと分かっていたわけじゃない。ただ、それほど強いヴァンパイアなら、何か知っていないかと思っただけだった。

 私はその噂話だけを頼りに、オリヴァの兵に近づき、そしてようやく、お前を突き止めた。

 ダリアン・アザール・ノクシガー……追い続けた仇の名前を。


 お前を知って、私の復讐心はこの身を焼くほど燃え上がった。

 人間相手に正気を失い、その人間を殺した程度で同胞に手にかけるなど、到底受け入れられるわけがない。

 なぜ私の愛した人が、その様な理不尽な目に合わなければならなかったのか。

 ダリアン・アザール・ノクシガー……この狂人の名前は、私の心に刻まれた。


 だが──その先には、ネクロハイヴ禁術書館があった。

 魔王カイリス──その館の主の名は絶対だった。私の復讐心がどれほど激しく燃え上がろうとも、魔王の吐息一つで、瞬く間に灰へと還る。

 ダリアン・アザール・ノクシガー……魔王の威を借りた卑怯者。

 でも、それでも、私は止まらなかった。

 いえ──私の殺意は、もう私では止められるものではなくなっていた──


 なのに、それが今……

 ダリアン・アザール・ノクシガー……この名を、私は決して赦しはしない。

 だから、選択する。私は、私のための選択を──


 その瞬間、禁術書『血筆粘土板』は淡い光を宿した。術者の望みは、確かに禁術書に刻まれた。

 光は書から溢れ出し、イディリアの身体を包み込む。その光と、辺りの境界がわずかに揺らぐと、その波紋は静かに世界へと広がっていった。


 やがて光が収まる。そして、その残滓から──イディリアの想い人が、かつての輪郭のまま姿を現した。


「……エリル……?」 イディリアは震える声で、その名を呼ぶ。


「……イディリア」 呼ばれた名は、確かに彼女だけのものだった。


 その声音も、伸ばされた手の温もりも、偽りではない。

 触れれば、生きていた頃と同じ、柔らかな感触が確かにそこにあった。


 ただそれだけで、イディリアの頬には涙が溢れた。

 ほんの一瞬であっても、この温もりこそが、彼女が望んだ選択だった。


 ──そして、世界は元へと戻った。

 禁術書はふたたび無機質な沈黙に沈み、そして代償を受け取るように、その表は彼女の涙で濡れていた。


 ダリアンは、沈黙の中で静かに目を伏せた。

 一人の術者が禁術書を開き、用途を選択し、代償を払い終えたというこの結末を見送った。

 彼は、この結末を確信してなどいなかった。

 ただ、彼女の決意がどこに向かおうとも、それでいいと覚悟しただけのことだった。


「還る道を選べるのなら、それもまた、悪くはないでしょう」

 呟きには、哀惜も同情もなかった。その声は、誰に向けるでもなく虚空に消えていく。

 ダリアンは静寂に言葉を送り、その女を弔った。


「イディリア・サルヴァリン・ナスフェローク様。またのお越しをお待ちしております」

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