第二十七編 冥王牧羊杖・下
「魂を入れ替え、肉体を乗っ取る転生の術──それが記されているのが、この禁術書『冥王牧羊杖』でございます」
マクスは静かに書架へと歩み寄り、一冊の禁術書を取り出してダリアンの前へ置いた。
その表紙は、漆黒すら生温く感じるほどの死の闇に染まりきっていた。
その中央に埋め込まれた紫紺の宝玉は、まるで消えゆく魂の最後の火を無理やり閉じ込めたかのように、不規則な光を脈打たせている。
その宝玉の禍々しい輝きに、ダリアンは吸い込まれそうになる。
禁術書の中でも、ひときわ強い魅惑を放つ魔書。気を抜けば、精神を支配されそうな波動を感じる。
だが、それと同時に、この禁術への違和感が湧き上がる。
人間から魔族への転生──それは言うほど簡単な話ではない。人間と魔族は魂の構造、いや、定義そのものが違う。
人間の魂は死後、天へと還り、浄化を経て、また地上に戻る。だが、魔族は死しても、魂は地上に残り続ける。それは、魔族の魂根が地上を形成する根源魔力に繋がっているからだ。
たとえ、その二つの繋がりを断ち切り、入れ替えをしたとしても、肉体が魂の指令を受け付けない。そんな状態では、指一本動かすことすら、ままならないだろう。
そのできるはずもないことを、この禁術書『冥王牧羊杖』が叶えているのだとしたら、一体どんな術理なのだろうか。
厳しい制約は要求するだろう。でなければ、魔王の体すら容易に乗っ取ることができてしまう。その術の代償も、あまりに割に合わないものであることは容易に想像できる。
しかし、目の前のマクスには、そういった禁術によって生まれる違和、弱さが見て取れない。それが、ダリアンには奇異に映った。
「──不思議に思われますか? この禁術の術理は中々、面白いものですよ」
マスクは、そんな彼の表情を読み、微笑んだ。
「この術は、術者の魂と死者の魂を繋ぎ合わせる禁術なのです」
その言葉は、ダリアンをさらなる謎へと導いた。 「繋ぎ合わせる……?」
「ええ。この禁術は、冥界から伸びる鎖によって、二つの魂を繋ぎ合わせます。どちらの魂も、等しく冥界に囚われるのです」
マクスは微笑みを絶やさず続ける。
「──今は、術者である私がその鎖を引き上げ、現世に現れているだけのこと。
この体の元の持ち主である不死王の魂は、鎖に縛られ身動きも取れず、冥界の底に沈んでいます。
ですから、”死んでいる”状態にあるのですが、鎖に繋がるその魂は私の手中にあるのです」
「……つまり、その魂を通して、その体を動かしているのか」 ダリアンから自然と言葉が零れた。
「ご名答」 マクスは微笑みを深くする。
「ですが、この術には当然、制約がございます。
術者である私が、元の持ち主より強くならねばなりません。でなければ、鎖の引き合いで勝てませんので……」
ダリアンの表情がわずかに強張った。
魔族の中でも上位に位置する不死王に勝てる人間など、そうはいない。だが、勇者一行の一員であったならば、それも納得だった。
「そして、それこそが私が支払った代償といえましょう。
もし私が誰かに討たれ、ほんの一瞬でも意識が途切れるようなことになれば……その瞬間、鎖の引き合いに敗れます。
そうなれば、冥界に囚われたまま、二度と現世に戻ることはないでしょう」
「これまでのすべてのことも、魂の叫びも、一切、誰にも届かないままに……」
わずかに沈黙が落ちた。
ダリアンは、彼がどれほどの覚悟を抱え、この場に立っているのかを悟った。
「……なぜ、そこまでして」
それが分かりきった問いだと分かっていながら、口にせずにはいられなかった。
「それがアルテア様への、私の忠誠にございます」
薄く微笑むマクスの目は、深く、深く、生者の世界を見てはいなかった。まるで、彼自身がアルテアに繋がれているかのようだった。
ならば、マクスはアルテアの操り人形に過ぎないのか?
彼の言動はすべてアルテアの意志によるものなのか?
──いや、違う。もしアルテアの力に屈しただけなら、わざわざ魔族へ転生し、永遠の下僕となるのはおかしい。
マクスは自ら望んで魔族へと転生し、自らの意思でアルテアに忠誠を誓ったのだ。
ダリアンはそれほど長く無い時間で、その結論へと辿り着いた。そして、その彼を見届けるようにマクスは口を開いた。
「ご明察──。私は、勇者を裏切ったことも、人間を辞めたことも、一切後悔などしておりません」
その口元に浮かんだ笑みは、人間を捨てた悪魔に相応しく歪んでいた。
「どうして魔族になってまで……、不死となりたかったのか?」
気づけばダリアンは、マクスの言葉に導かれるように、胸の奥に生じた疑問をそのまま口にしていた。
ダリアンの問いに、マクスは静かに笑った。
「不死──。確かに、結果として手に入れたものではありますが……それが目的ではありませんよ。
アルテア様にお仕えするには、人間の寿命では足りませんでしたので、それだけのことです」
淡々とした声音で、強がりには聞こえない。しかし、その奥底に潜むものは、言葉では形容しがたいほど禍々しい淀みがあった。
種族を越えた転生──この禁術書が何をもたらすのかはわかった。
だが、なぜマクスはそうまでしてアルテアに忠誠を誓うのか、そこがまだ分からなかった。
「何故、そこまでしてアルテアに尽くす……?」
思わずこぼれた問いに、マクスは微笑みを深めた。
「私は、これでも人間だった頃は、それなりに名の知れた高位魔術師でございました。
その腕前ゆえ、魔王討伐の勇者一行に選ばれたのですが……術者としての業、というのでしょうか」
その笑みは、語られる理由こそが彼の至福であると雄弁に物語る。
「私は、魔王カイリスの禁術書に、魅了されてしまったのですよ」
「ここ、ネクロハイヴ禁術書館に眠る禁術は、どれも比類なき至宝の術理。
初めてここに入った時、たった一冊の書を開いただけで、私は自分の愚かさを思い知ったのです」
その言葉は、確かにマクスの口から零れるものだったが、今までの彼にはない感情の高ぶりが込められていた。
「ここの禁術書のためならば、そしてそれを生み出すアルテア様のためならば──人間を捨てることなどに、何のためらいがありましょう」
ダリアンは息を呑んだ。
その熱に似た、しかし冷たすぎる執念は、魔族ですら理解の埒外に置く、人間の狂気だった。
「力も、栄誉も、まして愛すら不要……。世界の核心に触れるための視座を与えてくださったのが、アルテア様なのでございます」
マクスの微笑みは、確信に満ちていた。それは、悪魔じみた、けれど奇妙に澄んだ笑みだった。
──俺をアルテアから遠ざけようとした理由は、そういうことか。
ダリアンはようやく腑に落ちた。
神として崇める存在に、得体の知れない新参者がずかずかと近づく──そんなことを歓迎する信徒など、いるはずもない。
マクスの狂信的崇拝は、ダリアンの理解を超えてはいたが、その心理は納得のいくものだった。
けれど、であるなら、最後に一つ疑問が残る。
「……それほど大切にしている禁術書を、どうして他の魔族に貸し与えているんだ?」
それは、このネクロハイヴ禁術書館そのものの存在意義を問うていた。
これまで自分がやって来たことは、すべてマクスの信仰に踊らされていただけなのか──
その可能性が胸を刺し、ダリアンは無意識に息を詰める。返答次第では、ここを離れることすら考えた。
「このネクロハイヴ禁術書館に並ぶすべての禁術が、いったい何を目指して書かれたものか、考えたことはございますか?」
マクスは、そんなダリアンの覚悟を試すように問い返す。そして、考えを導くように捕捉する。
「禁術とは、神の理に背く禁忌を犯す術。禁術書とは、まさにその許されざる領域へと踏み込む術理が書かれた書物──」
「ここにある魔王カイリスが書いた禁術書は、さらにそこから踏み込んで、神を殺すことを目的としているのです」
まるでこれまでの罪を読み上げるように、マクスは一つひとつの言葉を丁寧に紡いだ。静謐な室内に、その言葉だけが異様に響く。
「……ですが、残念ながら、これだけの書を積み上げても、未だその目的に到達しておりません」
最後の言葉には失望よりも、途方もない年月を積み重ねてもなお消えず、濃く残る渇望が滲んでいた。
「──ですから、実験をしているのですよ。何事も、論理と実践の間には、差異が生じます。その差異から、新しい発見もございましょう。それに──」
マクスは、まるで珍しい宝石でも愛でるような目でダリアンを見つめた。
「貴方のような方との出会いも、生まれるのです」
いつの間にか、彼からは熱は消えていた。その言葉は、称賛のようであり、試されているようでもある、曖昧な危うい響きを帯びていた。
ダリアンは、彼の目的も、信条も理解したが、それは共感にはほど遠かった。
神を殺す──そのあまりにも大それた計画に、知らず知らず自分も加担していたことに、実感はどこにもなかった。
それでも、この場所で司書を続けるのなら、納得できる理由が欲しかった。
「──今一度、アルテア様にお会いしても宜しいでしょうか?」
ダリアンは、それを禁じたマクスを相手に、丁寧に願い出た。それは本来、了解など得る必要もないことなのだが、これは彼に対する敬意だった。
それを言葉にしておきながら、不意に背筋へ冷たいものが這い上がるのを感じる。
「ええ、どうぞ。アルテア様がお会いされるかは分かりませんが……」
マクスの返答は意外なほどあっさりとしていた。
だが、胸の奥に巣食う不安は消えない。彼への不信は払拭されたはずなのに、どこか深いところで、どうしようもなく込み上げる恐怖があった。
それは、マクスに対する恐れではなかった。それは、その背後にいるアルテアから感じているものだった。
アルテアは魔王カイリス──このふたりの間には、まだダリアンが知らない闇がある。それこそまさに、二つの同じ魂は冥王の鎖で繋がっているのかもしれない。
今、顔を出しているのはどちらなのか。その闇を覗き、正体を知ることがダリアンは怖かった。
ダリアンは、ネクロハイヴ禁術書館の最奥へと歩み入る。
自ら望んで足を運んでいるはずなのに、胸の奥にはどうしようもない恐れがじわりと根を広げる。だが、その根に重さはなく、むしろ体を持ち上げる。その代わり、踏みしめるはずの地面が、そっと失われていくような不安を残した。
そして、行き着いた先には、音も無く、ただ存在だけしているアルテアがいた。
待っていた訳もない、だが、動いた気配もない。ただ空間の形そのものが、自然に彼女の姿を模っているようだった。
「────────」 ダリアンは、言葉が出なかった。
とても大切な、自分の存在意義を賭けてこの場に来たはずなのに、その意味はアルテアを前にして霧のように薄れていく。
それは恐怖のはずだった。だが、目の前のアルテアは恐怖の大魔王であったはずなのに、相応しくないほど儚げなのだ。
触れれば崩れ、息をかければ消えてしまう──そんな幻のような形の中に、得体の知れない影が付きまとう。
それは、底なしの闇の様な、永劫の檻のような、人魔を超えた本能に刻まれた、抗うことすら許されない死を予感させた。
彼の胸の内には聞きたいことが、溢れ出ていた。
だが、言葉にしようと口にするまでに、その形は溶けて消えた。たとえ声に出せたとしても、その音が生まれる前にかき消える。そんな錯覚をしてしまうほど、目の前の存在に囚われた。
そして彼は、話すということを諦めてしまった。
「……よく戻りました」 そんなダリアンに、氷の吐息のような声音が降りた。
それは、認められているのか、それとも安堵されているのか、あるいは禁術書を持ち帰ったことを指しているのか、彼には分からなかった。
ただ、その声の響きに胸が震えた。
それが呼び水となり、ようやく一つだけ、絞り出すように声を発する。
「なぜ……神を殺すのでしょう……」
喉が裂けるようだった。問いではなく、懇願に近かった。
アルテアは、まるで動ずることもなく、言葉を重ねた。
「それは、等しい死を与えるためです」
彼に、その意味を問うことまでは、もうできなかった。
その殺意は、言葉の形をした、形を持たない真理のようで、この世の不条理そのものだった。
ただ……それも美しいと思えた。
恐怖と畏怖と、理解を超えた何かに胸が満たされていく。
逃げるべきなのかもしれない、理解してはならない。頭の中で、理性は叫ぶ。
けれど、それでも──このアルテアから、本能は目を離すことができなかった。
ダリアンは、ゆっくりと、しかし迷いなく頭を垂れた。そして、新たに決意する。
マクスのような狂信ではなく、アルテアへの恐怖に駆られたのではなく、ただ、この場所に満ちる必然に導かれ──
ダリアンは、ネクロハイヴ禁術書館の司書として、ここに生きることを定めた。




